雛田さんと別れた後、彩響は又病棟へ戻った。ゆっくりドアを開けると、まだ寝ている林渡くんの姿が見える。彩響は音を立てないよう気をつけながらベッドの隣の椅子に座った。幸い、林渡くんの顔はだいぶ落ち着いているようだった。

人の寝顔を間近で見るのは久しぶりで、不思議な気分になる。彩響は改めて彼の顔をジロジロと見続けた。若くて、整った、イケてる…でも、どこか悲しそうな顔。色んなことがあったせいか、今までなんとも思わなかったその顔が普段とは違う感じで心の中へ入ってきた。

(起きたら、話したいことが沢山あるんだけど…)

でも、どこから話を切り出せばいいのかが分からない。お兄さんのことから?以前喧嘩したことから?いや、そもそもあのことを「喧嘩」と言えるのだろうか…。様々な考えが纏まらない中、林渡くんが目を開けた。


「林渡くん?起きた?」


林渡くんがゆっくりと顔をこっちへ向ける。彩響は体をベッドに近づけ、又聞いた。


「大丈夫?気分はどう?」

「だいぶ良くなった。…ごめん、色々面倒なことになって。」

「いいえ、落ち着いたようで良かったよ。」


そこまで言って、しばらく二人の間に沈黙が流れる。どこから話を切り出せばいいのか、彩響は悩んだ。そしてこの病院に来る前、彼が言っていた言葉を思い出した。

ー「これ、離しても…消えたり…しない…よ…ね…?」

高熱のせいで正気ではなかったらしいけどーいや、正気じゃなかったからこそ本音が出たのかもしれない。悩んだ結果、彩響が先に口を開いた。

「あのさ、林渡くん。誰か、いきなり消えた人でもいたの?」

その質問に林渡くんが目を丸くする。その反応で、彩響は図星を指したことに気づいた。


「…俺、なんか言ってた?」

「私の手を握って、『消えたりしないよね?』と聞いてた。」


林渡くんは目を閉じて、何かを考え込む。又余計な質問だったんだろうか。彩響が後悔し始めた頃、林渡くんがなにかを決心したように口を開いた。


「俺が7歳のとき、今日のように熱を出したけど…その日、お母さんが家を出た。」


詳しいことは言わなくても、その言葉でもう分かってしまった。そうか、あれはその時の記憶だったんだ。彩響は自分の胸の奥底が、悲しみでじんわりにじむのを感じた。

決して自分の罪でもないのに、子供は親の離婚を自分の責任だと思う傾向がある。彩響もそうだった。そしてそれが間違った考えだったと気づくまで、どれだけ時間がかかったことか。


「私も、そうだったよ。離婚した日、父は私に目線もくれず去っていったよ。…中学生だった私でも相当ショックだったのに、7歳のあなたはもっと辛かったんだろうね。」

「そんなの、歳は関係ないでしょう。」

「まあ…そうかもしれないけど。それでも、7歳の子供には残酷な話だよ。」


林渡くんの顔が少し明るくなる。その頃の自分に共感してもらったのが嬉しかったのだろうか。それを見る彩響も、「歳は関係ない」と言ってくれたのが嬉しかった。


「…あのさ、俺、今調子悪いから、色々と語りたい気分だけど…聞いてくれる?」

「いいよ。私もなんかあなたの話を聞きたい気分だから。」


林渡くんがくすくす笑い、視線を天井に移す。そしてしばらくそのまま口を開かずにいた。彩響も急かしたりせず、じっと彼が話を切り出すまで待っていた。

どれくらい時間が経ったのだろうか、やがて林渡くんが視線をこっちに戻し、話しだした。

「継母は俺が8歳から一緒に住み始めたよ。ずっとママが欲しかったから、とても嬉しかった。でも、あの人は俺のことを一度も息子として考えてなかったんだと思う。

ニュースに出てくる他所の継母みたいに俺を殴ったり、暴言を吐いたりはしていなかったけど、いつもどこか冷めていて、一回も俺を抱きしめてくれなかった。ただ、そんな人でも、俺がご飯を作って待ってると、笑ってくれた。『よくできたね』と頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、何度も何度もご飯を作った。」

「それで、それを職にしようと思ったの?」

「最初は違った。でも進路に悩んでいた時、兄貴が料理専門学校はどうかと提案してくれて。それ以降は彩響ちゃんが知ってる通り。家を出たくて寝泊まりできるバイトを探して、そこで家政夫の仕事を見つけて、現在にいたる。」