最後のお皿まで全部拭いて、元の引き出しへ戻す。その後彩響は自分のスマホの写真アルバムを見直した。そこにはさっき自分が完成させたパスタが写っている。


(すごい美味しかった…。)


先生の指示通り動いただけなのに、又信じられないほど美味しいものを作ってしまった。いや、味もそうだったけど、過程もやはり楽しかった。パスタの麺が最初鍋にきれいに入らなくて焦ったり、クリームソースを作るとき小麦粉を入れすぎてソースがべちょっとなったり…。アマチュアらしいミスも何回かあったけど、その度林渡くんが隣でなんとかカバーしてくれたおかげで問題なく完成することができた。


(認めたくないけど…正直格好良かったな。ただのクソガキだと思ってたのに、自分の分野ではプロなんだよな…。)


「彩響ちゃん。」

「ーはいっ?!」

「どうしたの、そんな驚いて。片付け終わった?」


いきなり声をかけられ、思わず大きい声を出してしまった。振り向くと、林渡くんが自分のエプロンを脱いで立っている。彩響はなにもなかったように返事した。


「う、うん。さっき片付けまで終わったところ。」

「じゃあ、一緒に帰ろ!俺も着替えてくるから、ちょっと待ってて。」


林渡くんを待つ途中、参加者たちがどこかに集まっているのが見えた。彼らの動向を目で追うと、みんな入学申込書を一枚ずつ手に取っている。それをぼんやり見ていたら、隣のスタッフに声をかけられた。


「あなたも来年度入学希望者ですよね?ほら、これ持って行ってください。」

「あ…私は…。」

「奨学金制度とか、色々載ってますのでぜひ確認ください。」


雰囲気に流され、彩響も結局書類を貰ってしまった。こんなの貰っても…と思いながらも、彩響は書類の内容をざっと読み下した。調理師本科、栄養士科、パティシエコース…。今日まで全く興味すらなかったその単語一つ一つがとても強く頭の中へ入ってくる。彩響は一旦深呼吸をして、自分自身に言い聞かせた。


(いや、私は今仕事に疲れて、仕事以外ならなんでも楽しく思うようになっただけ。それだけ。)


そう思い、そのまま書類をテーブルの上において席を離れる。しかし彩響はすぐ戻り、また書類を手に取った。自分でも自分の行動が理解できないけど…。彩響は必死でそれなりの理由を心の中で探した。そして…。


(いや、これはあくまでネタとして使えるかもしれないから、だから一旦持って帰るだけ。別に入りたいとか、そういうのじゃないから。絶対。)

絶対違う、絶対に。なんどもそう言って、彩響はそのまま鞄の中へ書類を入れた。そしてそのまま部屋を出ていった。



「今日は来てくれてありがとう。」

リビングのソファーで座っていると、林渡くんが隣へやってきた。もう普段の姿に戻った彼はいつもと変わらない様子だったけど、さっき学校での姿を見てしまったせいか、なんだか特別に見えた。

(21歳とはいえ、ああやってきちんと仕事してる姿は年齢関係なく格好いいものだね。)

ここまで思って、彩響はすぐビクッとした。いや、いやいやいや。相手は私より9歳も年下で、しかも家で家政夫やってる雇用員で、全くタイプじゃないから。そもそもタイプとかそういうのを考える範囲の人でもない。なのにー。


「ー彩響ちゃん?」

「は、はいっ?!」

「うわ、びっくりした。どうしたの、大声だして。ーで、今日はどうだった?楽しかった?」


林渡くんがとても期待する声で質問する。彩響は素直に答えた。


「そうだね。いい気晴らしだったよ。」

「ほら、言ったじゃん。絶対楽しいって。良かったね。」


林渡くんがとても嬉しそうに笑う。その顔を見て、彩響は数日前お兄さんに会ったことを思い出した。お兄さんの心配そうな顔と同時に、その日聞いた話も頭の中でくるくる回る。


ー「両親は弟のことをすごく心配しています。でも、弟も頑固なものでして、絶対連絡なんかしたくないと言うんですね。なので、峯野さんから弟に、実家に連絡するよう一回話をしてくれませんか?聞く限り、林渡は峯野さんの言葉なら無視はしないと思いますので、きっと…。」



「あのさ、林渡くん。話があるんだけど。」

「なに?」


林渡くんが笑顔で返事する。それを見て、彩響は又悩んだ。これはあくまで個人の、個人の家庭の問題だ。自分なんかが口を出す権利などないーそう思いながらも、やはりこのままではいられなかった。悩み続けた結果、彩響は単刀直入に聞いた。


「家出しているって、本当なの?」


彩響の言葉に、林渡くんの顔が一瞬で変わる。それは今まで数ヶ月一緒に暮らした中で初めて見る、とても怒った顔だった。彼はしばらくその顔でじっと彩響を見つめて、やがて口を開いた。


「どこから聞いたの?俺の家の事情。まさか…兄貴に会ったの?」

「そう、Mr. Pinkがつなげてくれた。」

「マジかよ…。」


林渡くんが両手で顔をなでおろす。怒ったのも怒ったけど、今の彼はとても辛そうにも見えた。痛いところに触れてしまい申し訳ない気分になるけど、もう話題を切り出したから、止めるわけにもいかない。彩響は引き続き話した。


「事情は知らないけどーあんなに心配してくれる両親がいるなら、顔を合わせるのは無理でも、電話くらいはしてもいいと思うよ。」

「…どうして彩響ちゃんがそんなことを言うの?俺が連絡しようがしなかろうが、自分の勝手でしょう?」

「私はただ…。少しでもあなたが気楽に過ごしてほしいと思っただけよ。このままじゃ、あなたも心残りでしょう?」

「家族」とうまくやっていけないことが、どれだけ辛いことか。彩響はよく分かっていた。だから少しでも普通の関係に戻れる余地があるなら、林渡くんはそのチャンスを掴むべきだと思った。


「お兄さんもあなたのこと考えて、全く関係のない私にまで訪ねて来たんでしょう。だから…。」

「人の気持ちも知らないくせに、勝手に言うな!」


怒りの声がリビングに広がる。林渡くんはソファーから立ち上がり、彩響を睨める。しかしその怒りに染まったその瞳に、なにか光るものがあることを彩響は見逃さなかった。


「じゃあなに?俺が彩響ちゃんに『お母さんのこと嫌がらず仲良くやりなよ』とか言ったら、自分は喜んでそうするの?『娘だからなにもかもお母さんのいうこと聞いてあげな』と言ったらそうするの?」

「それは…。」

「俺も、思春期のガキの気分で家出したわけじゃない。人の事情も気持ちも知らないくせに、ちょっと聞いたくらいで知ったフリするなよ!別に俺の気持ちを分かって欲しいと思ってないから!」

大きい声で叫んで、そのまま林渡くんは自分の部屋に入ってしまった。がん、と大きくドアを閉める音だけが響く中、彩響は長くため息を零した。

余計なことを言ってしまったんだろうか。いや、きっと今じゃなくても、いずれはこの話題を出さざるを得なかったはずだ。そう思いながらも、彩響は複雑な気分を抑えられなかった。