いや、そもそも武宏と結婚しようとしていた時も、決して彩響を気遣って静かになったわけではなかった。母は義理の息子に愛想を尽かされることを怯えていた。30年近く家族として生きて来た娘には汚い言葉ばかり言うくせに、これから娘の旦那になる人の前ではたじろぐその姿とは。

(やっぱり、私にも足の真ん中にちんことか付いていればこんな態度とれないんじゃなかったの?私が女だから、暴れても結局男が暴れるのと比べると全然怖くないからいつまでもこんな感じなんじゃ…。)

最寄り駅で降り、思い足を運ぶ。いや、重いのは足ではなく気持ちの方だ。自分自身が情けなくて、そう思いながらも母の前ではなにも言えなくなってしまうのが悔しくて…。

「ー彩響ちゃん?」

自分を呼ぶ声に、後ろを振り向く。そこにはレジ袋を片手に持っている林渡くんが立っていた。林渡くんは彩響の顔を見て、目を丸くする。なぜ彼がそんな顔をするのか、彩響はすぐ把握できずぼーっとしていた。早足でこっちへ近づいてきた林渡くんが、相変わらず目を丸くして聞いた。

「どうしたの?なんで泣いているの?」

そう言われ、やっと自分が泣いていることに気がついた。林渡くんが驚くほど自分も驚いてしまい、彩響は慌てて顔をそむけた。


「いや…なんでもないよ。」

「そんなことないでしょう。どうしたの?どこか具合でも悪いの?」

「何でもないってば。…早く帰りましょう。」


眉間にシワを寄せ、しばらく黙っていた林渡くんが彩響の手をパッと取った。そして力強く引っ張り、前に進む。慌てた彩響が後で彼を止めた。


「ちょ、ちょっと…。そんな引っ張らないで。」

「いいから、早く帰ろ。話は帰ってから聞くから。」

「…。」

ここで口喧嘩をするほどの気力ももう残っていない。彩響は長くため息をつけ、そのまま手を引っ張られ家の方へ向かった。



リビングまで入り、林渡くんはそのまま彩響をソファーに座らせた。そして自分も隣に座り、横に置いてあった箱ティッシュを渡す。どこか慣れない仕草だけど、彼なりに気を使ってくれていることが分かった。彩響は黙ってティッシュを一枚取り出した。ああ、きっと目の周り、メイクとか滲んでボロボロなんだろうな。涙を拭いていると、早速林渡が聞いてきた。


「で、なにがあったの?又あのクソ上司にいじめられたの?」


クソ上司?ああ、大山編集長のことか。編集長にいじめられているのは今に始まったことでもない。彩響は苦笑いをしながら答えた。


「…そんな、違う。今回君のおかげで一発食わせることができたし。」

「じゃあ誰なの?」


一瞬悩む。母とのことはもう人生最大の悩みと言っても過言ではないくらい苦しい現実だけど、相手が「母」である以上、どうしても自分は小さくなってしまう。理央もそうだ。理央だって、彩響を嫌っているから母の味方をするわけではない。ただやっぱり世間で言う「母」は聖なる存在で、自分をここまで育ててくれた存在で、なによりこの生命を預けてくれた人間だからー


「…大したことじゃないよ。ちょっと、お母さんにあれこれ言われて、落ち込んだだけ。」


彩響の言葉に、林渡くんがしばらく黙ってこっちを見る。そして驚くことに、彼の目元にじんわりと涙が浮かんだ。どうしてそんな目をするのか、彩響も驚いてじっと見ていた。


「…彩響ちゃんのお母さんも、『普通』のお母さんじゃないの?」

(…お母さん「も」?)