「なぜ莉子は今、この話をしようと思ったの?」

母から問われ、黙って考えた。
ずっと現実から逃げようと避けていた事実。

忘れたい過去。

それと向き合おうとするきっかけは明らかだった。あの人に出会えたおかげだった。


清宮先輩。

彼に会って、自分のことを素直に話せた。
話す事で問題が見え、答えを探そうとする意欲が生まれた。


それが、先輩と一緒に花火大会に行きたいからという口実。

悩みが解決できるなら、そんな簡単なことでもいいんじゃないか。

そう前向きに捉える事ができている。


「お母さん、私」


自分のことを言う機会が来たのだと思った。

母は自分と向き合おうとしてくれている。きっと母にも話す事で変われると思った。





「私、あの日以来、夜道が歩けないの」



母の反応を見なかった。どんな反応をしているのか分からなかった。


「夜道を歩くと胸がしんどくなって過呼吸になって苦しくなるの。私が夜遅くに出かけてしまったから、お父さんが死んだのは私のせいだから。あの日以来、夜に出かける事が怖くなった」


自分のせいで父が死んでしまった。
それから初めて夜が怖いと思った日。

あれは学校からの帰り道だった。

あの日はいつもよりも曇り空で星や月も隠れていた。突然、見上げた夜空に感じた恐怖。

何か大きな黒い塊が自分に襲いかかるような物体。妖怪のようなもの。それが空から降ってくるような感覚になった。

私は道端で座り込んだ。


襲わないで、これ以上大事な人を傷つけないで。

大切な人を奪っていかないで。

たくさん泣いて、上手く呼吸が出来なかった。



「ずっと苦しかった。だけど、ある先輩と出会って、変わろうと思えたの。その人には何故か自分のこと話せた。話せたことで少し気持ちが楽になったの。逃げてばかりだったけど、向き合いたいと思った。だからあの事件のことを知りたい。何があったのか、詳しく」



そう言い切ったところで目線を上げた。


さっきと変わらない表情で聞いてると思っていた母の顔は一変していた。



彼女の目が見開いていた。


驚いた表情で私を見ていた。




「夜、歩けなかったの?苦しくなるって、どういうこと?」



彼女の声は震えていた。



「怖くて歩けなかった。だから学校が終わると早く帰るようにしたし、夜は出かけられなかった」


それによって失うものはたくさんあった。

経験だ。学校での生活や友達との過ごす時間、自分が気づかないところで多く見過ごしていたのかもしれない。

母は大きくため息をついた。

そして息を完全に吐き切ったところで、眉間に皺を寄せた。

何かをこらえるように必死に苦しそうな表情して、涙が溢れた。我慢していたものが切れたように。泣いた母を見たのは初めてだった。父を失った時でさえ見たことない涙。


私が知らない間にたくさん泣いてきたのかもしれない。だけど娘の前で泣くのは初めてだ。



「ごめんね、気づいてあげれなくて。苦しかったでしょう」



予想もしない反応だった。


今目の前にいる母は、自分の為に泣いてくれているのだとそこで初めて気づいた。

私に共感する悲しい気持ちと、苦しみに気づいてあげれなかった悔しい気持ちが入り混じったような感情が伝わってきた。



最初は驚いていた私だったが、胸に迫り来るものを感じて一気に目の奥が熱くなる。

母と同じように溜まっていたものが涙として溢れ出した。そんな私に母は続けて言った。



「私は、後悔してたの。ずっと」


いつも平然と装う母の涙。彼女に泣いてる姿は似合わなかった。


「あの事件の直後に、あなたに言ってしまった言葉」


母に言われた言葉を思い出す。私にとっても、ずっと胸に乗しかかっていたものだから。



ーー「どうしてあの時、出かけてしまったの」

母はあの言葉を後悔してた。


「お父さんは、あなたのことを本当に大切に思ってた」


声はもう限界を通り過ぎて、掠れていた。



「そんなあなたをもっと支えてあげれたら。私にはそんな力がなかった。大事な娘なのに。そんな言葉をかけてしまった。言った瞬間から後悔したの、申し訳なくて莉子に声をかけることもできなくなった」


母もあの事件以来、傷を負ってしまっていた。

私に話しかけることが出来ない結果を生んでしまった。

夜道が歩けなくなった私のように、母にも出来なくなってしまった事が増えた。

家族と向き合えなくなった恐怖が生まれていた。

母も私も、同じ暗闇の中で生きてきた。



「ごめんなさい」


「ごめんなさい」


「本当に、ごめんなさい」


何度も呟いた。母も何度も言葉にした。


「莉子。ごめんね、本当にごめんね」


自分だけを守ろうとして、近くにいる人の為を考える余裕がなかった。

気づいてあげれなくてごめんなさい。
支えてあげれなくてごめんなさい。
やっと大事なことが見えたような気がした。



お互いの泣き顔を見合って、「すごい顔」と言って笑い合った。こんなふうに同じことで笑うのも数年ぶりのことだった。

そして改めて見た母の姿は、少し小さく見えた。服の裾から見える腕はやせ細っていた。

父を失って悲しかったのは私だけではなかった。なぜ、自分だけ苦しいと背負い込んでいたのだろうか。

弱々しくなってしまった母を見て、更に胸が苦しくなった。