満員電車の中、吊り革につかまって立っていると、それだけで汗ばんでくる。

節電節電と、謳ってこれ程混んでいる電車にも、ろくに冷房も入れてくれない。

困ったもんだ。これじゃ電車の中で熱中症の人が出たっておかしくない。

都内から、郊外へと向かう電車は、一駅一駅が長い。

トータルすると大した時間ではないのだが、駅同士の感覚が広いので、かなりの距離を

走っていることになる。

後40分程は、この車内にいなければならない。

もう何駅か進むと、人は減ってくるだろうが。


誰にも気づかれないように溜め息をつくと、先程までぼーっと読んでいた文庫本に

無理やり目を向けて読もうとした。

しかし、自分の目が文庫本の中の文字を捉えるか捉えないかくらいのところで【妙な気配】

を感じて、降ろしかけていた目線を止めて、目線だけで辺りを見渡す。

この【妙な気配】の正体はわかってる。“誰”かはわからないが。

考えてみれば【気配】というのもちょっと表現がおかしいかもしれない。

私の感覚で言えば、【気配】というよりは、【匂い】に近い。

近い、と言うのは、どうやらこれは、私にしか感じられない物のようだからだ。

【匂い】であれば、他の誰かも感じることができるはず。

でも、この【匂い】というのは私以外は感知できない。

だから、【妙な気配】なのだ。

あぁ、話が逸れた。


さて、この【妙な気配】の大元は誰だろう?

今度は、首を少しだけ回して見まわす。

ん?この感じ。

1人じゃなさそうだな。

まぁ、珍しくもないか。


あぁ、あの人だな。

私が立っているところから、2、3席くらい離れたところに座っている人。

よーく見るとわかるのだが、その人は口を閉じて、

下の歯の前辺りに空気を入れて膨らませたり萎ませたりをリズミカルに繰り返している。

いや、元々はその行動にも意味はあるのだろうが、“今”はないだろう。

癖だな。これは。

そう思うと少しおかしくなって、ニヤリとしそうになった。

わかるよ、その気持ち。


んー、この感じ、まだいるな。

また目線だけを動かす。

あぁ、あの人だな。

今度はドアのところに立っている人だ。

その人は、少し上に顔を向けて、鼻をむずむずと動かしている。

おまけに手は腰の辺りでおばけの手になっている。

列車の外に身体を向けているのでまだいいが、誰かに気づかれてしまったら結構変な人だ。

おい、落ち着け!癖が出ているぞ!バレるぞ!

と私は心の中でその男に念を飛ばしたが、当たり前だがその念が男に届くはずはない。

どうしようかと1人で勝手に焦り始めたところで車内アナウンスが入った。

【まもなく〇〇、〇〇、お出口は…】

唐突に聴こえてきたアナウンスに、最初の男も、ドアの男もハッとして、それぞれの“癖”も

そこでおさまったようだ。

私は、その様子を見て1人で勝手にホッと胸を撫で下ろした。

最初の男はともかく、ドアの男は危なかった。



駅に到着し、ドアが開くと、一気に人が降りていく。

私はまだしばらく乗っているので、その場を動かなかったのだが、

私の周りだけでも5、6人は降りて行った。

座席もいくつか会いたのだが、あいにく私の目の前の席は空かなかったので、

そのまま立っていた。

そして、降りた人数とほぼ同じくらいの人数が乗り込んでくる。

この駅は、郊外に向かう列車の最後の地方都市だ。

それも仕方ない。

それでも、ドアが開いて空気の入れ替えができただけいくらかマシだった。


最初の男も、ドアの男も降りなかったようだ。

2人ともどこで降りるのか知らないが、気をつけてくれよ。

見ている私の方が気が気じゃない。


再び電車が走り出した。

しばらくすると、先ほどとはまた違った【妙な気配】感じた。

今度は誰だろう?


その人は、意外なほど近くにいた。

先程、私の斜め前の座席が開いた時、代わりに座った人だった。

その女性は、自分の太ももの辺りをリズミカルに引っ掻くように手を動かしてる。

落ち着け、そんなとこ掘ってどうする?

いや、これは掘っていると言うよりは、構ってもらいたい時のアレだな。

元々、人と暮らしていたんじゃないか?

それに、この人は、私と似ているようだ。

いやいや、そんなことはどうでもいい。

大丈夫か?気をしっかりと持て。

このままだと…

あぁ、やっぱりだ。

声が聞こえる。



……

………








(なぁー)


まずいまずい!

これはまずい!!

慌てて周りを見渡した。

しかし、どうやらまだ誰も気づいてないようだった。

ふぅ…危ない。

【次は〇〇、〇〇】

先程の女性がハッとする。

危なかった。

全く、心臓に悪い。

それにしてもこの暑さ、どうにかならないもんだろうか?

これなら集中が切れかけるも無理はない。

最初の男も、ドアの男も、同類の女性も、よく耐えている方かも知れない。

私も、気をつけなければ。

ドアが開いて、多くの人が降りていく。

そして、今度はあまり乗り込んでこなかった。




電車が走り出して、またしばらく経つと、【妙な気配】が濃くなってくる。

ん?今度は、複数人同時だ!

おい!皆!頑張れ!もう少しだぞ!

周りを見渡すと、最初の男は口をリズミカルに膨らませ、ドアの男は上を向いて

お化けの手、同類の女性は自分の足を引っ掻いている。

もはやまずいの領域を越えて笑えてくる。

いやマジでただの変人だからお前ら!

あれ?まだ他にもいるのか?

感知してない【気配】がある。

あれ?っていうか、文庫本どこ行った?

っていうか首が痒い!痒すぎる!

あぁー気持ち良いー!

いや、だから文庫本!

いやいや、でもこれ堪らなく気持ちいいんだって!

「にあーー!」

!!!

聞き覚えがあり過ぎる声にハッとした。

気が付くと私は、文庫本を手離して、自分の首を掻いていた。

手の甲を自分の体に向けて、外に掻き出すように、手首を使って。

あぁ、完全に癖が出てしまっていた。

幸い、周りの人間たちは皆座席に座って寝ていたので助かった。

しかしながら、最初の男とドアの男と同類の女性は違った。

皆俺を見てる。

あぁ、恥ずかしや…

【次は〇〇、〇〇】

本日何度目かの救いの放送だ。

電車がとま停まると、私は逃げるように降りた。

降りた後は、何事もなかったかのようにスタスタと歩く。

あぁ、夜風が気持ちいい。

どうやら最初の男もドアの男も同類の女性もここで降りたらしい。

なんだ、ご近所さんだったのか。

この駅は、郊外でも珍しく駅舎を出ると街灯もほとんどない。

真っ暗だ。

駅からの道を歩いていると、そこらじゅうでカエルの声が聞こえる。

それに紛れてうっすらと、人には聞こえないくらいのネズミの声も。

背後にある駅の光も薄れて、本当に辺りが真っ暗になった頃、私もようやく緊張を解く。

空腹よりも疲れを感じているので、早く4本脚で歩きたかった。



真っ暗な道を歩いていると、前方から人が持つ小さな灯りが見えてきた。声も聞こえる。

私の毛皮は黒いので、闇に紛れるのは簡単だ。

それに、その人達の目的は私ではなさそうだ。

あの女性は、やっぱり人と暮らしていたんだな。



「ぽちーぽちー」

【わぁんわぁんわぁんわぁん】

思わず笑ってしまった。

本人は【にゃー】と鳴きながら走っているのだが、振動で【わぁんわぁんわぁん】になっている。

それにしても、ぽち?



















猫なのに?