腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい

翌日の金曜日は、朝から羞恥心と罪悪感に塗れていた。
何食わぬ顔で出社しているつもりだけど、頭の中は昨日の夜のことでいっぱいだ。玄兎さん……松川左右之助に散々抱かれた朝、チェックアウトでロビーにいる間はただぼんやりと周囲を眺めていた。

──

人もまばらなロビーには、カップルや家族連れが数組。それにビジネス目的なのか、大きな荷物を持ったスーツの男性が目についた。なぜか彼は、私たちの方を見ていた視線をスッと逸らす。それが不自然な気がして記憶に残ったけど──
『日向子さん』
いつの間にか、チェックアウトの手続きを済ませた左右之助さんがソファの隣に座る。何気なく差し出した繊細な手に翻弄された夜が無意識に思い出されて……それだけで赤面してしまう。
『連絡先を交換しませんか』
そんな私の胸中など知らぬげに、彼はスマホの画面を私に向けた。
『連絡先……ああ、はい』
また連絡をくれるつもりなんだろうか。言われるがままスマホを出し、メッセージアプリのIDを交換した。

──

正直、二度と連絡なんかないような気もしている。
一夜の過ちというべきなのか、一夜の幸せな思い出というべきなのか。夢から覚めた私は、一度家に戻ってどうにか出社時間に間に合わせた。
「うわああああ〜……」
「せ、先輩……?」
記憶にこびりついた自分の乱れっぷりに、唖然としてしまう。ああ見えて結構遊び慣れているのかもしれない。ベッドであんな風になったのは初めてだ。何度も真っ白な世界に押し上げられて、身体の上ではこれ以上ないほどの充溢感を味わった。
その相手が憧れの松川左右之助だなんて……
「和泉先輩、どうしたんですか?」
「な、なんでもない!」
頭を抱える私を、隣の後輩が唖然とした顔で見ている。
「……入力していたセルが、一個ずつ、ズレてたみたい」
「ああ、それはダメージ大きいですよね」
適当に誤魔化すと、怪訝そうにしながらも後輩がとりあえず頷いてくれる。
それからはあの夜の記憶に悶えながらも、口を噤んで仕事を続けた。休憩中も歌舞伎関連の情報やニュースを一切見ないようにして、どうにか仕事を終える。

「つ、疲れた……」
週末はアパートで宅飲みしながら歌舞伎のDVDや配信を見るのが恒例だけど、この日は疲れのせいかビール一缶を飲んだだけで、眠ってしまったらしい。寝落ちしたまま土曜日の朝を迎えると、カーテンから明かりがさしている。
「ふわあああああ〜、今、何時……?」
とりあえずテレビをつけて適当にチャンネルを回すと、目に飛び込んできたのは訃報だった。

どこかの立派な日本家屋の門前に集まったカメラと記者たちに囲まれているのは、松川左右之助だ。彼の周囲では御苑屋一門が、涙を浮かべたり肩を落としたりしている。
『祖父は先週末に息を引き取っておりました』
「左右十郎が、亡くなった?」
先週末って薪歌舞伎の日だ。
『家族だけで見送るようにとの本人の意向で、今日まで伏せていたことをお詫び申し上げます。送る会につきましてはまた改めて……』
周囲が悲痛な表情を見せる中、淡々と質問に答える左右之助の姿に胸が締め付けられる。
「気の毒に……」

『先週、人間国宝であり祖父である松川左右十郎の訃報が報じられた左右之助さんですが、なんと今朝、熱愛発覚のニュースが入ってきました』
ん?熱愛発覚?

訃報のニュースはリプレイだったらしい。画面が切り替わると、熱愛やホテルなどの赤い太文字が画面に踊る。
『左右十郎が亡くなった悲嘆を、その方が支えてくれているのでしょうか。実は、こちらの女性については梨園にゆかりがあるとの報道もあり──』

──ピンポーン……
画面に見入っていると、インターフォンが鳴った。
──ドンドンドン……ピンポンピンポンピンポン……
「え……!?」
「日向子、早う起き!何回電話した思ってるん!?」
けたたましいお母さんの声とドアを叩く音、インターフォンの連続音が鳴り響く。
スマホで時間を確認すればまだ10時前で、画面は実家からの着信履歴で埋まっている。声は玄関の外から直接聞こえていた。

お母さん、アパートに来てるの?
どんなに慌ただしい時でも澄まし顔を崩さないのに、ご近所に聞こえるような声を張り上げてドアを叩いているなんて。
「ちょっと、お母さん。玄関前で騒がないでよ」
ドアを開けるとお母さんは付け下げに身を包み、一筋の乱れなくきちっと髪を結い上げていた。お店に出るときよりもさらに格式の高い装いでビシッと決めている。
「何度電話してもあんたが起きへんからや」
驚いて固まる私に、お母さんは眉を顰めた。
「そう言われても……」
「いいから、早よ入れて」
文句を言いながらも、お母さんは優雅に私の部屋に入ってくる。

「で、なんで付け下げ?」
「聞きたいのはこっちや」
お母さんが私の目の前に週刊誌をバサッと広げる。
「これは何!?」
『松川左右之助、熱愛発覚。お相手は京都市内のO L、A子さん』
「はあ!?」
見出しの文字を見て、思わず週刊誌を手に取った。掲載されていた数枚の写真は、明らかにホテルにお泊まりした朝のものだ。ロビーでチェックアウトした時、ホテルの玄関前で別れた時の写真がバッチリと!私の顔には目線が入っているけど、左右之助さんの私に向けた笑顔がはっきりと写っている。

「あんた店に来た夜、若旦那と泊まったの?」
「酔っ払って、タクシーで寝ちゃって……」
「泊まったんやね!?」
「……はい」
鬼の形相でお母さんに詰られて、どうして誤魔化すことができるだろう。事実だと分かった途端、お母さんが深いため息を一つ吐き出した。
「シャワー浴びてきなさい。そんで、これに着替えて」
「へ?」
有無を言わさず、大きな風呂敷を押し付けてくる。

結び目を解くと、無地の蒸栗色(むしぐりいろ)の訪問着が入っていた。柔らかい黄色は正に蒸した栗の実のような上品な色だ。
「なんで訪問着?」
「説明は後や。下に迎えがくることになっとるんやから。髪もやらなあかんし」
「迎え?」
「日向子、早う」
「話が全然見えないんだけど」
「次のページ見たらええわ」
『松川左右之助のお相手、A子さんは志村桜左衛門(しむらしざえもん)の隠し子か』
見開きをめくると、信じられない文字が再び踊っている。

「え……」
「つまり、そういうことや」
「そういうことって」
志村桜左衛門といえば、人間国宝も間近と言われた柏屋の名俳優じゃない?何年も前に亡くなっているはずだけど。

「どういうこと?」
「お母さん、昔、桜左衛門と恋仲だったんや」
「……冗談はやめてよ」
「こない不謹慎な冗談、よう言われへん」
「結婚できなかったお父さんが、桜左衛門ってこと……?」
お母さんが無言で頷く。

「ええええええ」
「……驚くのは分かるけど、とっくり驚くのは後にしてくれへん」
「いや、後にしてって言われても、え、そ、なんで……え、ええ?」

お母さんが若干バツが悪そうな顔になる。
「私だって、こないな形で言いたくはなかったけどな。あんたの熱愛とお父さんのことが同時にすっぱ抜かれるなんて、夢にも思わなかったわ」
「それはこっちのセリフだよ」
こんな形でお父さんのことを聞くことになるなんて。
混乱する頭で、なぜか一つだけすぐに頭の中に湧き上がった疑問があった。桜左衛門って何歳よ?
私が生まれた時、少なくとも五十歳は超えてたはず。
「お母さん、ジジ専?」
無言で帯板を取ると、お母さんが思いっきり私の頭を叩いた。
支度ができた頃、御苑屋の付き人だという左右七さんが車で迎えに来た。薪歌舞伎の日に、私を送ってくれた内弟子さんだ。
後部座席の隣に座るお母さんは終始無言で、気詰まりなまま連れて行かれたのは南座近くの長楽館という三つ星ホテルだった。

隠れるように裏口から入り、車を降りると……松川左右之助が待っていた。
「お待ちしておりました」
地味だけど見るからに質のいい和服が、涼しげで端正な美貌を引き立てている。その姿を見るだけで、あの夜の記憶が私の胸を騒つかせる。
優雅な所作で歩くと、裾が翻って裏地に凝った刺繍があしらわれているのがチラリと見えた。なんとも粋な着こなしだ。
ああ、やっぱり素敵な人だなあ……って、そんなこと言ってる場合ではないのだ。

案内されたのは最上階のスイートルーム。
柏屋の現当主、志村鴛桜(しむらえんおう)が待ち構えていた。
「鴛桜師匠、この度はお時間をいただき申し訳ございません」
「挨拶はいいよ」
柏屋の名跡を継ぐ偉大な歌舞伎役者の存在感に圧倒される。

私のお父さんだっていう桜左衛門の長男だから、私の腹違いのお兄さんということになるんだろうけど……いやいやいや、とてもそんな風には思えない。
40代後半という役者としては脂の乗った年齢を迎え、まだお兄さんというよりお父さんという方がしっくりくる。いや、自分の身内だというにはあまりにも恐れ多い。
これまた尊敬する役者さんと、こんな形で対面することになるなんて。

「和泉芙蓉さんと、日向子さんです」
「まったく……母親が母親なら娘も娘だねえ」
会うなり嫌味が飛んでくる。鴛桜はこの上なく不機嫌そうだった。私のことはいいけど、私のせいでお母さんがそんな風に責められるのは居た堪れない。
「ご無沙汰ばかりな上に不義理をしております」

けれど、さすが小さいとはいえ老舗料亭の女将。お母さんは堂々とした態度でスッと頭を下げる。
「せやけど奥様が亡くなってからの男女の付き合いに、苦言を呈するのはどうですやろ」
そっか、桜左衛門は奥さんに先立たれているのか。そんで、お母さんとは奥さんが亡くなってからの付き合いなわけね。不倫じゃなくてよかったよ。
「天につばするという言葉もありますやろ」
「む……」
お母さんがにっこりと笑い、鴛桜が渋い顔になる。

天につばする……鴛桜の艶聞っていろいろ聞くもんねえ。
世間ではどういうふうに言われてるかあんまりよく知らないけど、美芳に出入する柏屋の役者さんや裏方さんからはたまに耳にすることがあった。
だけどいくら相手が本人といえども、お店で見聞きしたことをこうして外で話すのはご法度なのに。
お母さんの勢いは、さらに加速するばかりだった。
「殊に日向子は、今日まで父親のことを知りません。文句を言いたいのはこっちですわ」
「左右之助とすっぱ抜かれたのはお嬢さん本人の責任もあるだろう」
「大人の男女が合意の上でホテルに泊まって、なんの責任がありますの?」
お母さん、怒ってるんだ。
「本人の預かり知らぬところで梨園の出自を絡めて面白おかしく報道されるのも、こっちの責任と違います。桜左衛門の旦那との約束を守って、日向子は梨園と関わりなく育ててきたんや」
私に対してじゃなく、梨園が絡んだこの理不尽な状況に猛烈に怒ってる。

「芙蓉さんにも、日向子さんにも非はありません。全て僕の軽率な行動が原因です。誠に申し訳ございません」
左右之助さんが深々と頭を下げた。
「私だって、別に左右之助の女性関係なんて興味ないけどね」
鴛桜はバサっと週刊誌の記事を目の前に無造作に広げた。
「日向子さんが父の婚外子だと出ているのはどういうわけなのか、こっちが聞きたいよ!どっからそんな情報が漏れるんだい!?」
「先代の桜左衛門は、病死する前に竹馬の友であった私の祖父、左右十郎に伝えたと聞いています。僕は左右十郎から聞きました」

先代の志村桜左衛門が病気で亡くなるとき、
『実は娘がもう一人いる。何かあった時は頼む』
左右十郎にそう言い残したのだそうだ。隠し子がいるなんて、同じ一門には言えなかったのかもしれない。二人は幼い頃から一緒に修行を重ねた幼馴染だったらしい。今度は左右十郎本人が今際の際に、桜左衛門からの頼みを孫に伝えたってわけか。

「左右十郎師匠の口が硬いのは、私だって知ってるよ」
「ありがとうございます」
「だからこそ、どっから漏れたのか知りたいってんだよ!」
さすが、歌舞伎役者の声はよく通る。鴛桜が放った声に、誰一人言葉を返せるはずがなかった。そりゃ、どこからこんな情報が漏れたのかなんて、それこそこっちが知りたいよ。
「こんなスキャンダルが公になったからには、左右之助と日向子さんに結婚してもらうよ」
「結婚?」
思考がフリーズする。

「け、結婚って、あの結婚ですか?」
私が何か言い出すとは思わなかったのか、鴛桜は虚をつかれたようにこっちを見た。
「結婚に種類があんのかい」
「……」
驚きすぎると、何か言葉を発しようと思っても口をパクパクさせるしかないのだということを私はこの時、初めて知った。
「ええええええ〜、結婚!!??」
「なんだい、そこまでまだ話してなかったのかい」
結婚って、私と……左右之助さんが?どうしてスキャンダルが公になると、私が結婚しなきゃいけないの???

声を上げたまま固まる私を見て、鴛桜は少し気の毒に思ったのかもしれない。
ソファに深々と体を沈めると、ため息を一つ吐き出した。それまで婚外子だスキャンダルだエキサイトしていたのがトーンダウンして、説明し始める。
つまり、話はこうだった。
私が志村桜左衛門の娘だと分かった以上、それを下手に隠そうとしたり、否定しようとしたりしてもかえって世間の心象を悪くしてしまう。事実、私は間違いなく彼の娘なのだし認めた方がいいだろう、という点ではみんなの意見が一致した。
「そうなると左右之助との付き合いが、真剣交際であってもらわねば困る」
鴛桜が重々しく宣言した。
御苑屋の御曹司と柏屋の娘が遊びでワンナイトラブを楽しんだなんて、ふしだらの極みというわけだ。両者がすっぱ抜かれた以上、遠くない将来……できればスキャンダルの火消しのために早々に結婚するのが望ましい。

「理屈はわかりますけど……」
「日向子さん、僕と結婚するのはおイヤですか?」
年長者の鴛桜やお母さんに場を譲っていたかに見えた左右之助さんが、静かに口を開いた。
「イヤっていうか、考えたこともなかったですもん」
「僕は日向子さんが好きですよ」
「へ……」
斜向かいに座った左右之助さんの視線が、熱い。
「真剣にお付き合いしたいです」

私と彼の間にはお母さんがいるし、正面には鴛桜がいる。けれど、ここがまるで二人きりの空間であるかのように、彼は私だけをまっすぐに見つめている。
「次にお会いしたら交際を申し込むつもりでした」
「え、いや、そ……え?」
「……落ち着かない子だね」
心ときめくはずの場面なのに、私の口から漏れた間抜けな呟きに鴛桜師匠が呆れていた。

「まだ出会ったばかりですが、周囲の人やものを大切にする方なのだと思いました。僕はこういう立場ですからいい加減な気持ちでお付き合いはできませんし、付き合うなら結婚を前提にきちんと付き合いたい」
左右之助さんの言葉にドキドキが止まらない。土に水が染み込むように、喜びとも戸惑いともつかない感情が体の隅々に染み渡っていく。

「お付き合いを飛ばして結婚になってしまうことに関しては、申し訳ないと思っています。でも、これが僕の正直な気持ちです」
「左右之助さん……」
「僕との結婚を考えてみてもらえませんか。梨園の都合とは別に、僕は貴女と交際したいし、結婚したいです」
「プロポーズに水をさして悪いけど」
高揚していた気持ちに、すっと鴛桜の声が水を差す。
「考える時間はそれほどなくてね」
「どうしてですか?」
「南座興行が年明けに始まるのさ」
「あ!」

南座の興行は重要なイベントの一つで、長い歌舞伎の歴史上途絶えたことがなく脈々と受け継がれてきたものだ。
「柏屋の娘と御苑屋の御曹司が結婚するってなれば、この興行で両家が協力するのは必須。場合によっては両者で役者を融通しあったり、演目を再検討したりするかもしれない。初顔合わせまでには中身を決める必要がある」
「確かに、それはそうですね……」
オタクだけに興行前にこんなニュースが出て、歌舞伎関係者がどれほど焦っているのか分かってしまった。

南座興行は私だって昔から欠かさず行っている。
自分自身が楽しみにしているからこそ、万全の状態で臨んで欲しいと思ってしまう。
「南座興行に支障が出るのはイヤかも」
「墓穴を掘るってこのことやな」
お母さんが呆れたように呟いた。
「あんた、自分の結婚と南座興行とどっちが大事なん?」
「どっちも大事だよおおおお」
「本当に面白い子だね」
お母さんと鴛桜が顔を見合わせる。
「日向子さん、納得いくように考えてください」
せめて左右之助さんが私を急かしたりするようなことはないのが救いと言えば救いだけど、本当は一刻も早く返事が欲しい状況なのはひしひしと感じられる。

「日向子さん本人がいいなら、私は両家の縁談に吝かじゃないよ。でも親父の隠し子ってのだけは困るんだけど、どうするんだい」
「それはきちんと説明できると思います」
左右之助さんが静かな口調で切り出した。
「僕と鴛桜師匠で結婚会見を開くのはどうでしょう?」
結婚会見……急かしはしないはずの左右之助さんと鴛桜の間で、斜め上の相談が始まる。彼の説明を聞くにつれて、鴛桜の表情が徐々に和らいでいった。

「なるほど……絶妙に嘘ではないねえ。左右之助、なかなか頭いいじゃないか」
「恐れ入ります」
さっきまで喧嘩ムード満載だったのに、鴛桜と左右之助さんが打ち解けているような気がする。何一つ口を挟むことができないまま、話題はもはや私と左右之助さんが結婚するかどうかを通り越して、結婚するにあたってどうしたら柏屋の醜聞を抑えられるか、その一点に移っていた。
え、でも、私、考える時間をもらったってことで……いいんだよね?
着物を返すために美芳に寄ると、お母さんが珍しく開店前のお店に誘ってくれた。
すぐ裏手の実家に置いてある普段着に着替えて店に行くと、お母さんが一升瓶をカウンターに並べて既に飲み始めている。
「なんやの、あれ!」
板さんたちに頼んだのか、ツマミが次々と運ばれてくる。顔見知りの板さんや中居さんたちが、お母さんの凛鬼に触れないように給仕をしてはそさくさと立ち去っていった。

「お母さん、開店前に飲んで大丈夫?」
「飲まずにやってられへん」
お母さん、私と違ってお酒強いしな。限度を超えたら止めればいっか。私もお母さんくらい強ければ、こんなことにならなかったかもしれないのに。そもそも、左右之助さんがあんなに飲ませるからだよ……
「あんなん、こっちが断れんようにしてるだけやないの」
「左右之助さんは、ゆっくり考えていいって言ってたけど」
スイートルームを出るとき、確かに彼はそう言ってくれた。
『興行の話なんてして、申し訳ありませんでした。でも、本当に無理強いするつもりはありませんから』
「方便やろ。結局、外堀埋めてんやから」

手酌でお猪口に日本酒を注ぐと、バッグに入れておいたお財布が目についた。
「これ……桜左衛門のお財布だったんだね」
「プレゼントされたものはたくさんあるけど、それだけは本人のもんや。どうしても何か一つ欲しいってお願いしてもらったんよ」
「なんで桜餅なの?」
お財布の面に押してある焼印は、長命寺の桜餅の形をしていた。

「梨園の人ってシャレが好きやろ」
「シャレとかノリで芸名をつけるらしいね」
おもちゃとかミノムシとか、うさぎとか。みのむしさんとうさぎさんが若い頃にベロベロに酔っ払って、職質で名乗るように警察官に指示されて、
『みのむしです』
『うさぎです』
『ふざけるな~』
そんな風に怒られたってエピソードを聞いたことがある。

「屋号が柏屋で、桜が芸名につくお家柄やろ」
柏屋の直系は幼名に桜之助(しのすけ)や桜枝(おうし)を名乗り、鴛桜を継ぎ、桜左衛門の襲名で名跡を貰い受けるという道筋を辿る。
「柏餅との連想で桜餅らしいわ」
「ああ、なるほど」
「趣味の俳号も桜餅で、持ち物には好んでその印をつけたんよ」
お母さんの表情が懐かしそうに緩む。お父さんの話をするお母さんはいつもこんな顔をする。まさかそれが桜左衛門だとは思わなかったし、一緒にいた期間は短かったはずだけど、お母さんは本当にお父さんが好きだったんだなあというのは子ども心にも感じていた。

だからこそ、結婚を急かされるのは抵抗がある。お母さんと桜左衛門は入籍こそしなかったけど、ちゃんと愛し合っていた。私だって結婚するんだったらそんな夫婦でありたい。
「桜左衛門って、美芳のお客さんだったよね」
薄い記憶を掘り起こしてみると、お客として来ていた桜左衛門のことは微かに覚えている。
「覚えてるん?」
「なんとなく可愛がってもらったな〜くらいは」

「あんたの歌舞伎ごっこによう付き合ってくれたわ」
「私が歌舞伎オタクになったのって、その影響もあったのかなあ」
「血は争えへんな」
「それに……お舞台に連れて行ってもらったことなかった?」
お母さんが盃を煽る手がぴたりと止まる。

歌舞伎が大好きだけど、東京の歌舞伎座に行きたいとは思ったことがなかった。南座に妙に愛着があったからだ。

──

『ほーら、ここが花道だよ。役者はここぞという時に下から迫り上がるんだ』
小さな私を抱っこしてそう言ったのは、ゴツゴツした節くれだった手のおじいちゃんだった。私は親戚かお店のお客さんのおじさんだとばかり思っていたけど、あれは桜左衛門だったんだろうか。
考えてみれば、役者でもなければ舞台の上なんか案内してくれるはずがない。
『女の子を舞台に上げていいのかい』
『今時は体験ツアーなんてのもあるくらいだろ。硬いこと言うなって』
『それはそういう機会だけの特別なものだろ』
『お前は頭がかてぇなあ。この子だっていつかは歌舞伎ファンの一人になって足を運んでくれるかもしれねーんだぞ?』
悪戯っぽく笑う声は、初老に入りかけたとは思えないほどよく通った。
『お前のせいで、将来のご贔屓さんを一人なくしたな』
カラカラと笑って、その人は私を迫りの位置に立たせて舞台を上げ下げしてくれた。

──
あの時、迫りの下から見た客席や、周りの舞台の設の光景が強烈に頭に残っている。唐破風(からはふ)の屋根や、格子状に造られた折り上げ天井、ずらりと並んだ真っ赤な提灯にビロードの座席。どこを見ても南座は美しくて、その時抱っこしていてくれた力強い腕と相まって、この場が私にとって特別なものになった。
だからこそ南座の興行に行くことを欠かしたことはなかったし、左右之助さんと結婚しなければ興行に影響が出ると言われて、いてもたってもいられなくなったんだ。

「あれが桜左衛門だったの!?」
記憶を辿って話すと、お母さんが目を見開いた。
「ほんまによう覚えとるな」
「今の今まで思い出したこともなかったけどね」
あれは……何歳くらいのことだったんだろう。
「あの頃はまだ歌舞伎座のツアーも始まったばかりで、女を舞台にあげるなんてって随分怒られたらしいわ」
女の子は歌舞伎役者にはなれないんだって、あの時に刷り込まれたような気がする。私にとって歌舞伎は自分がやるものではなく、見て楽しむものになったんだ。

「じゃあ、小さい頃は結構交流があったんだね」
「親子だと名乗りはしなかったけどな」
「ある時からぱったり来なくなった気がするんだけど」
「桜左衛門を襲名するからもう店には来ない言われたわ」
そっか、お母さんと深い仲になった時にはまだ鴛桜だったんだ。若手の頃に多少の醜聞が許されても、襲名でのスキャンダルは避けたかったのかもしれない。

「なんで桜左衛門と結婚しなかったの?」
「店があるから」
お母さんは少しの躊躇いもなくきっぱり言い切った。
「梨園の妻になったら……しかも宗家の妻ともなれば、店なんかできるわけがないわ」
「まあ、そうだね」
「それが当たり前みたいな梨園の世界、お母さん好きやないねん。本人の自由やろ」
「だからお父さんのこと、私に言わなかったの?」
「言わずに済むなら言わんでいいと思っとったんや。知っている人が広がることで、向こうさんに迷惑かけるかもしれへんしな」
お母さんはそうして、ずっと私と美芳を守ってきたんだ。

「梨園が好きじゃないのに、桜左衛門のことは好きだったんだね」
「生意気」
「ふがっ」
伸びてきた手に、鼻を摘まれる。

「認知は?」
「正式に認められたいとは思ってなかったから。あんたを育てることを許してくれて、顧客として美芳をバックアップしてくれたらそれで良かったんよ」
美芳は小さいけれど格式が高く、歴史も長い。女一人でお店を切り盛りできるのはお母さんの手腕だろうけど、そういう後ろ盾も必要なのかもしれない。

「結婚のこと考える言うてたけど、どうするん?」
「どうしよう」
左右之助さんは素敵だと思う。じゃなければ、身を任せたりしない。
でも夫にするなんて。
一夜を共にしたことすら信じられないのに、ファンタジーの中の人と結婚するみたいなもんだよ。それに歌舞伎は大好きだけど、結婚して家に入るとなると話が違いすぎる。

「私みたいにお気楽な普通のO Lが梨園の妻なんて……務まるとは思えないよ」
「否定できひんな」
「私と左右之助さんが結婚すれば歌舞伎界としては都合がいいんだろうし、両家がちゃんとを手を組んで芸の継承をしてほしいっていうのはファンとして思うけどさ〜」
だからといって、昨日まで別世界だった人と結婚なんてできるの。本当に?

「日向子」
お母さんがいつになく真面目な顔でグラスを置いた。
「他人の都合で結婚決めたらあかん」
「そうだけどさ〜……」
「どうしても嫌やったら、美芳のお客さん総動員してでも断ってあげるから」
「え!?」
「なんで意外そうな顔するん?」
「だってお母さんなら、お店守るために喜んで娘差し出しそう」
懐に入っていた扇子で、ぱしんと頭を叩かれた。
「そこまで外道やないわ!」
お母さんと飲み、来店したお客さんと飲み、先行きに不安を感じながらもこの日は実家に泊まってぐっすり眠った。