俺はおばあさんに頭を下げると、示されたドアに向かった。

だけど。

「でも、いないかもしれないよ」

背中から、そんな声を投げかけられる。

「そうなんですか?」

するとおばあさんは、口に手をあてがい、噂話でもするような仕草で俺に向かってささやいた。

「また入院してるかもしれないからね。なんでも娘さんが――……」

他人の不幸に同情を寄せつつも、半ば人ごとのように話すおばあさんの声が、耳にじわじわと届く。

人の声ではなく、声とも音とも違う、未知の響きを聞いているような心地だった。

「そう、だったんですか」

「ね、気の毒な話よね」

大仰に眉を寄せ、さもかわいそうと言わんばかりの顔をするおばあさん。

チンという音がして、ようやくエレベーターの扉が開いた。

おばあさんは俺に背を向けると、さっさとエレベーターに乗り込む。

俺は放心状態のまま、おばあさんを乗せたエレベーターが下がっていくのを見送った。

マンションの共有廊下を照らす蛍光灯のひとつが、ついたり消えたりを繰り返している。

そこに一匹の蛾が止まったり離れたりしている様子を呆然と視界の隅にとらえながら、俺はいつまでも、その場に立ち尽くしていた。