…そういえば、私。
あの生徒会長のお名前すら、聞いていませんでしたね。
ずっと生徒会長と呼んでいましたから。
名前を、聞こうとも思いませんでした。
彼はつまり私にとって、そういう存在だったということなのでしょう。
それでも。
彼を突き放してもなお、私の中の喪失感は消えません。
当たり前です。
この喪失感の原因は、生徒会長ではなく。
私の、大事なお友達にあるのですから。
…その日の午後には。
私が、生徒会長の交際を断ったことが、クラス中に広まっていました。
それどころか、廊下を歩いているだけで、学年の違う生徒にひそひそ言われる始末でした。
向こうは聞こえていないと思っているのでしょうが、『新世界アンドロイド』である私には、よく聞こえます。
「あ、見て。あの人でしょ?生徒会長をフッたって…」
「そうそう、私見たよ。玄関口で。生徒会長に酷いこと言っててさぁ…」
「有り得ないよね。生徒会長に告白されたっていうのに…何様のつもり?」
と、女子生徒を中心に、彼女達は私を誹謗中傷していました。
何様と言われても、私はただの『新世界アンドロイド』、久露花瑠璃華でしかありません。
どうやら、あの生徒会長は、元々学校中の女子生徒の、憧れの的だったようですね。
女子生徒からの当たりが、特に強い傾向があるので。
クラスの女子生徒も、私を総スカンです。
いっそ清々しいですが、そのような誹謗中傷には、私は全く興味がありません。
どうでも良いことです。
私が今関心があるのは、一つだけですから。
しかし問題は、私が彼に接近禁止命令を受けていることです。
つまり、私の方から話しかけることが出来ないのです。
さてどうしましょうか。
話しかけることが出来ないのなら、文通でもしましょうか。
それとも糸電話なら受けてくれるでしょうか、と考案し。
とりあえず、今日の放課後にでも、紙コップと糸を買ってこようと思っていました。
そんなときでした。
「…瑠璃華さん!」
と、奏さんは私を呼びました。
まさか、向こうから話しかけてくれるとは。
それは予想外でした。
しかし。
「…」
と、私は無言でさささ、と後ずさりました。
「…何やってるの?」
「いえ、私は奏さんから、接近禁止命令を受けていますので…。近寄ることが出来ないんです」
と、私は言いました。
「…」
と、奏さんは呆気に取られていました。
しかし、大丈夫です。
「ご安心ください。色々手段を考案した結果、この後、紙コップと糸を購入しに出かけてきますので。糸電話なら、接近せずともお喋り出来ますよ」
「…色々手段を考えて、何で最終的に採用したのが糸電話なの…?」
と、奏さんは尋ねました。
「え?それは、やはり文通だと読み書きに時間がかかりますし、会話形式の方が連絡を取りやすいと…」
「って、そんなことは良いから!瑠璃華さん、どうしてあんなことしたの?」
と、奏さんは聞きました。
ぐいっと、前のめりに。
「そんなことあんなことと言われましても…。あ、ちょっと待ってください。今奏さんが数歩前に出たので、私も数歩後ろに…」
「あぁもう!接近禁止命令はもう良いから!取り消し!なかったことにして!」
と、奏さんは言いました。
え?接近禁止命令解除ですか?
「良いんですか?たった一日で命令を解除して」
「良いよ…。だって…近寄らなきゃ喋れないじゃん…」
と、奏さんは言いました。
これは僥倖です。
なんと、紙コップで糸電話を用意するまでもなく。
発令者である奏さんから、接近禁止命令の解除が言い渡されるとは。
これで、近寄って話すことが出来ますね。
では、改めて。
「およそ二日ぶりなのに、何だかとても懐かしい気がしますね」
「…そうだね」
「この二日、元気でしたか?何か良いことありました?」
「いや、そうでも…って、今はそんなこと話してる場合じゃないから」
と、奏さんは言いました。
まずは雑談から、と思ったのですが。
この二日間で出来たであろうわだかまりは、他愛ない雑談も許してはくれないようです。
世知辛いですね。
「どうしたんですか、奏さん」
「どうしたんですかはこっちの台詞だよ。何で、生徒会長と別れたの?」
と、奏さんは聞きました。
まるで、信じられないものでも見るかのような目で。
…そんなに意外ですか?
「奏さんも、同じように思ってるのですか。他のクラスメイト達と同じように、あの生徒会長との交際を断った、生意気な女だと」
「え?いや…そうじゃないけど…」
「私が生徒会長との交際を断ったのは、彼と一緒にいたくないと、『私が』思ったからです。彼から学ぶべき感情は何もないと」
「…!」
「そして厚かましくとも、願わくばまた奏さんと、親友に戻りたいと…『私は』思いました。だから生徒会長は断ったのです。彼の恋人になるより、あなたのお友達でいる方が良いと」
と、私は言いました。
更に。
「だから奏さん、これからも私の親友でいてくれませんか」
と、私は一番言いたかったことを言いました。
嫌だ無理です、と言われたら、少々…いえ。
かなり困りますが。
そのときは、手を変え品を変え、請願を続けることにしましょう。
とりあえず、今年までに親友に戻れたら、それで満足ですね。
すると。
「な、何それ…。つまり瑠璃華さんは、俺と一緒にいる為に、生徒会長の彼女になるのを諦めたってこと?」
と、奏さんは震える声で聞きました。
「前半は合ってますが、後半は違いますね。別に私は、生徒会長の恋人になることを諦めた訳ではありません。元々私は、彼に好意など欠片も持っていませんから」
と、私は答えました。
「そもそも、私にとって彼は初対面で、実は名前も知らない相手でした。そんな人間と、恋人になりたいとは思いません」
「じ、じゃあ何で一度はOKしたの?」
「それは、『人間交流プログラム』において、人間の感情を理解する為に、恋人がいた方が効率的ではないか、と判断したからです」
「…な、何それ」
と、奏さんは言いました。
「それはつまり、生徒会長からは学べるものが何もないから切り捨てて、俺の方が学べることが多いって思ったから?俺は何?瑠璃華さんにとって、便利な研究材料みたいなもの?」
と、奏さんは聞きました。
「いいえ。奏さんは、私のお友達です。親友です」
「…意味が分からないよ…」
と、奏さんは言いました。
意味が分からない。
つまり、理解不能ということですね。
分かります、その気持ち。
「私も、そうなんです」
「…え…?」
「私も分からないんです。確かに奏さんは、私にとって便利な研究材料…だったはずなのです。でも今私は、あなたを研究材料だとは思えない。あなたを私の友人だと言いたいのです」
と、私は言いました。
そして同時に、私は私の胸を押さえました。
「奏さんに突き放された二日前から、ずっとこの胸の中から、喪失感が消えないんです」
と、私は言いました。
以前、友人だと思っていた、湯野さんと悪癖お友達一行に、冷たくそっぽを向かれたとき。
あのときは、何とも思いませんでした。
彼女達が駄目なら、他の人と友達になれば良い。
すんなりと、あっさりと、そう思えました。
今思えば、それは私が湯野さんと悪癖お友達一行のことを、単なる研究材料としか見ていなかったからなのだと思います。
でも、今は違います。
「生徒会長といると、もう奏さんに近寄っちゃいけない。そう言われたときから、胸の中に喪失感が消えません。とても締め付けられるようで、苦しいです。私はこの感情の名前が、分からないんです」
と、私は言いました。
同時に私はその場にしゃがんで、奏さんと真っ直ぐに視線を合わせました。
「教えてください、奏さん。私はあなたに教えて欲しいんです。この感情が何なのか。人間の感情はどんなものなのか…。これまでも、これからも、私はあなたに教えて欲しいです」
…と、私は言いました。
これが、私の出した結論です。
例え、正しくなくても。正しい選択でなくても。
「私は」、この道を選んだのです。
誰に命じられた訳でもなく、ただ自らの意志で。
「…瑠璃華さん…」
「駄目でしょうか?奏さんにとっては、迷惑でしょうか」
と、私は聞きました。
もし迷惑なのだとしたら…。
私は、きっと…とても、今よりも、深い喪失感に襲われると思います。
想像でしかありませんが、そんな気がするのです。
すると。
「…俺もなんだよ」
と、奏さんは言いました。
瞳に、水滴を溜めて。
「俺も同じ。瑠璃華さんを突き放したときからずっと、瑠璃華さんと同じ喪失感を抱えてる。胸にぽっかり穴が空いたような…苦しい気持ち…」
「…そうなんですか」
と、私は言いました。
では私達、お揃いなんですね。
もし奏さんも、この喪失感の正体が分からないのであれば。
二人仲良く、首を傾げなければならないところです。
しかし。
「そっか、瑠璃華さんも同じ気持ちだったんだ…」
「…奏さんは、この気持ちの名前を知っていますか?この感情の正体…」
「知ってるよ。誰よりよく知ってる」
と、奏さんは言いました。
それは朗報です。
「良かったら、教えて頂けませんか」
と、私は言いました。
それを教えてもらえたなら、私はまた一歩、人間の感情を学習することになります。
「そうだね…教えてあげるよ。俺は…瑠璃華さんの、親友だからね」
と、奏さんは言いました。
「これは、『寂しい』って言うんだ。『寂しい』って感情なんだよ、瑠璃華さん」
「…寂しい…」
と、私は奏さんの言葉を反芻しました。
その感情の名前を呟いた瞬間。
頭の中にかかっていたモヤが、いきなり、一瞬で晴れたように。
消えてなくなってしまいました。
「そうですか…。これが寂しいって感情なんですね」
「そうだよ…。俺も、瑠璃華さんも、寂しいと思ってたんだ」
と、奏さんは言いました。
そうですか。
私は、ずっと寂しいと思ってたんですね。
奏さんと会えなくて、話せなくて、寂しいと。
成程、納得しました。
また一つ、賢くなりましたね。
「あなたはいつも、私の知らない感情を教えてくれますね」
「それはこっちの台詞だよ…。こっちこそ、瑠璃華さんといると、色んな世界が見える。世界が広く見えるよ」
「奇遇ですね。私も同じことを考えていました」
と、私は言いました。
知ってますよ。この現象を何と言うのか。
以心伝心、という奴です。
「…ですから」
と、私は言いました。
「これからも、あなたの隣で、あなたに色んな感情を、教えてもらっては駄目でしょうか。私は、他の誰でもない、奏さんに教えて欲しいんです」
「…俺が教えられることなんて、ほんの少しだけだよ。何せ、俺の世界は狭いからね」
「その世界が知りたいんです。奏さんの見ている世界の景色を、私の見ている世界の景色にしたい」
と、私は言いました。
だってそれって、きっととても素敵だと思いませんか?
ないはずの心が、わくわくするような気持ちになりませんか。
「…」
「…」
と、お互いしばらく無言で見つめ合い。
この無言の応酬はいつまで続くのだろうと、考えていたそのとき。
「…はー…」
と、奏さんは根負けしたように言いました。
無言の応酬は、私の勝利のようですね。
「敵わないなぁ…。瑠璃華さんには…相変わらず…」
と、奏さんは苦笑いをしながら言いました。
笑ってますね。
久し振りに、奏さんの笑顔を見た気がします。
たった二日ぶりなのに。
「ちなみにそれ、俺が駄目って言ったら、どうなるの?」
と、奏さんは聞きました。
えっ。
駄目って言われるんですか?その前振りですか。
しかし、そうですね。駄目だと言われる可能性も、ない訳ではありません。
だとしたら…。
「毎日聞きます。うんと言ってくれる日まで。駄目と言われた日でも、その翌日になれば、また気が変わっている可能性がありますから」
と、私は言いました。
人間は、よく気が変わる生き物ですから。
久露花局長も、昨日チョコレートケーキを食べたのに、
翌日、「あぁ、昨日じゃなくて今日食べとけば良かったー!」などと言ってることが、よくありますし。
「じゃあそれって、俺がはいって言うまで、エンドレスで瑠璃華さんに誘われ続けれるってこと?」
「そうですね。そうなりますね」
「…俺、それ逃げ場ないじゃん…」
と、奏さんは言いました。
「相手の退路を断ち、確実に仕留めるのが狩りのコツです」
「そうか…俺は狩りの獲物なのか…。手強いハンターだなぁ」
「ありがとうございます。そして、一つ助言しておきます」
「何?」
「どうせ逃げ場がないなら、この場で潔く投降し、はいと言っておくのが賢明ではないかと思います」
と、私は言いました。
私は、奏さんがはい、お友達に戻りますと言うまで、毎日追いかけ回すつもりです。
それは正しいことではないのでしょうが、でも。
よく考えたら、碧衣さんも似たようなことしてますし。
特に気にしなくて良いでしょう。
しかし、追いかけ回される奏さんは、きっと苦労されるでしょうから。
今ここで潔く、降伏条約を締結しておくことを、強くおすすめします。
私も、毎日追いかけ回す手間が省けますし。
それに、奏さんがうんと言ってくれるまで、毎日この、寂しいという感情に苛まれ続けるのかと思うと。
それは嫌です。
だから、降伏条約を結ぶことを勧めた次第です。
すると。
「…ふふっ」
と、奏さんは吹き出して笑いました。
また笑いましたね。
私にとっては、あまり笑い事ではないのですが。
「分かった、分かった。降参だよ」
と、奏さんは言いました。
それって…。
「私と、親友に戻ってくれるんですか?」
「うん、そうしよう」
と、奏さんは言いました。
そうですか。それは嬉しいです。
私の中にあった寂しいという感情が、一気に喜びに変わりました。
人間の感情の変化というのは、素晴らしいですね。
たった一言で、これほどまでに他人の気持ちを左右出来るのですから。
そして、この感情を私に教えてくれたのは、目の前にいる奏さんなのです。
これは是非とも、これからも末永く、奏さんに教えてもらわなければなりませんね。
もっともっと、たくさんの感情を。
「ありがとうございます、奏さん」
「ううん…。俺の方こそ、ごめん。なんか意地になって…」
と、奏さんは言いました。
何故、奏さんが謝罪するのでしょう。
「生徒会長が、瑠璃華さんに告白したって聞いて…。瑠璃華さんもそれを受け入れたって聞いて…。それ以来、自分のこと見失ってた。やっぱり、自分なんか瑠璃華さんに釣り合わない人間なんだって…」
「…」
「それで、勝手に瑠璃華さんに八つ当たりしてたんだ。本当馬鹿だよ。ごめん…」
と、奏さんは謝罪しました。
…。
そういえば、生徒会長と交際していた頃(極短期間でしたが)も、釣り合いが取れるとか取れないとか、そんなことをひそひそ言われていた気がしますね。
あれって、どういう意味なんでしょう?
「奏さん。謝罪は別に必要ないのですが、一つ質問をして良いですか?」
「え、何?」
「釣り合いが取れるってどういう意味ですか?誰であれ人間であれば、皆さん平等なのでは?誰と誰を組み合わせようが、人間であれば、天秤は傾きませんよ」
「…」
と、奏さんは呆気に取られたまま無言でした。
何か面白いものでも見えたのでしょうか。
そして。
「ま、まぁ…。瑠璃華さんはそういう人だよね…」
と、奏さんは呟きました。
人ではなく、私は『新世界アンドロイド』なのですが…。
…あ。
「でもさ、その。やっぱり、瑠璃華さんは美人だし賢いし、憧れるとかじゃなくて、好きだなぁって思う側からすると、他の男は皆ライバルな訳であって。そうなると生徒会長は、俺なんか歯が立たない存在だから。それでこう、自分がその…瑠璃華さんを好きだなんて、おこがましいと、そう、」
「分かりました。私は人ではなく、『新世界アンドロイド』ですから」
と、私は奏さんがボソボソ言っているのを、遮るように言いました。
「…はい?」
「だから、人間とは釣り合いが取れないと思ったのですね。納得しました。しかし心配は要りませんよ。私は『人間交流プログラム』を受けている身ですから、今は人間も同然です」
「…」
「人間である奏さんとも、ばっちり釣り合いが取れますから。安心して、私のお友達に戻ってください」
と、私は自信満々に言いました。
しかし。
「…俺、結構頑張って告白してるつもりなんだけど…全然伝わってなくて、むしろ笑える…」
と、奏さんは呟きました。
笑える?
それは良いことです。笑いは、人生を豊かにするようですよ。
笑いの種類にも寄りますが。
さて、ようやく私と奏さんは、お友達に戻ったので。
「それでは早速、バドミントン部に行きましょう。今日は卓球部の練習日じゃありませんからね」
「あ、う、うん」
「やはり、お友達とは素晴らしいものですね。奏さんもそうは思いませんか?」
「…思います…」
と、奏さんは言いました。
そうですか。
「それなら私達は、以心伝心という奴ですね。やはり相性が良いようです。では、今日も元気に交友を深めましょう」
と、私は言いました。
そして、奏さんの車椅子のハンドルを握りました。
何だか懐かしくて、良い感触ですね。
「では行きましょう」
と、私は言いました。
すると。
「…あはは…。この調子じゃあ、気づいてもらえるのはいつになることやら…。でもまぁ…今は、これで良いか…」
と、奏さんは苦笑いで言いました。