「さて、それでは」
と、碧衣さんは言いました。
「言いたいことは言ったので、僕は自分の住処に戻りますね」
「そうですか」
「さっきも言った通り、僕はあなたの研究成果に期待しているので。何か困ったことや分からないことがあったら、聞いてくれて良いですよ」
「分かりました。聞きます」
と、私は答えました。
これは本音です。
久露花局長や、朝比奈副局長でも、分からないことはあるはずです。
そんなとき、同じ『新世界アンドロイド』同士、同じプログラムを受けている者同士、共感出来ることはあるでしょう。
そのときは、碧衣さんに頼ることにしましょう。
紺奈局長さえ絡まなければ、1110番はまともですからね。
え?まるで普段の碧衣さんが、まともではないと言いたいようだ、って?
…気のせいですよ。
「じゃ、連絡待ってますね。さようなら」
「はい、さようなら」
と、私は答えました。
すると同時に、碧衣さんは消えました。
また、ステルス機能で姿を消したのです。
…そういえば。
『人間交流プログラム』を受けている間は、常時通常モードで稼働すること、と局長に言われましたが。
つまり、ステルス機能といった、通常人間には使えない特殊機能は、使わないことになってるはずですが。
思いっきり使ってましたね。
紺奈局長も知っているはずですが、後で怒られないのでしょうか?
…それにしても。
まさか、先に『人間交流プログラム』を受けている『新世界アンドロイド』が、あの1110番だったとは。
…寄りにもよって、ですね。
どうせなら別の『新世界アンドロイド』が良かったと思うのは、これは私に人間の感情が芽生えているのか。
それとも、単に1110番の異常な紺奈局長好きが、面倒臭いと思っているだけでしょうか?
――――――1110番、『アロンダイト』改め。
紺奈碧衣さんに会った、その五日後。
中間試験の結果が、私達の手元に返ってきました。
「瑠璃華さん、瑠璃華さん」
と、奏さんは私に言いました。
片手で車椅子を動かし、片手に解答用紙の束を持って。
「どうしたんですか?」
と、私は尋ねました。
随分と、興奮した様子に見えます。
何か面白いものでも見えたのでしょうか。
「凄いよ、これ」
と、奏さんは解答用紙の束を、私に差し出しました。
良いのでしょうか。私が見ても。
先程、ホームルームのときに、解答用紙の束を返されたときは。
クラスメイト達は、こそこそと点数を隠すように持ち帰っていたので。
何か疚しいものでもあるのだろうか、と思っていたのですが。
奏さんは、普通に見せに来ましたね。
きっと彼には、何も疚しいものはないのでしょう。
「手応えあったから、良いだろうとは思ってたけど。本当に、今までで一番良い点数だったよ」
と、奏さんは言いました。
とても嬉しそうな様子です。
良かったですね。
私は、奏さんに渡された解答用紙を、ぺらぺらと捲ってみました。
成程、どれも90点を越えているか、一番低い点数でも80点台後半です。
…。
「…奏さんは、これで満足なのですか?」
「え?」
「あんなに勉強会を頑張ったのに、こんな点数とは…。期末試験のときは、もっと徹底的に対策しないといけませんね」
と、私は言いました。
私としても、奏さんの成績向上の為に、かなり力を入れたつもりでしたが。
まだまだ、あの程度では足りなかったようです。
「…え、えっと…?自分では、結構良かったと思うんだけど…」
と、奏さんは困惑したように言いました。
「そうなんですか。志が低いですね」
「それは…まぁ、全教科100点も夢じゃない瑠璃華さんに比べたら、これでもまだまだかもしれないけど…」
と、奏さんは言いました。
声のトーンが下がっていますね。落ち込んでいるようです。
何だか私が悲しませたみたいで、嫌ですね。
「でも、90点でそんなに喜ぶということは、以前はきっと、二桁にも満たない点数だったのでしょう?」
「は?」
「それを思えば、とても進歩したと思います。確かに、まだ満点の一割にも満たない点数ですが、それでも着実に、前に進んでいます」
と、私は言いました。
どうでしょう。これが励ましというものです。
碧衣さんのように、上手く出来たでしょうか?
出来なかったことを責めるより、出来たことを褒める。
教育の基本ですね。
「大丈夫です。ゆっくり点数を上げていきましょう。そうですね…次の目標は、200点くらいで…」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って瑠璃華さん。何か勘違いしてる。君は何か、根本的なことを勘違いしてるよ」
「…?私が?何を勘違いしているのですか?」
と、私は尋ねました。
すると。
「…瑠璃華さん。うちの学校の試験は、全部『百点満点』で計算してるから。決して、『千点満点』じゃないから」
と、奏さんは真顔で言いました。
「…」
と、私は無言で、奏さんの顔を見つめました。
そのときの衝撃は、まさに言葉では言い表せないほどでした。
『Neo Sanctus Floralia』でも、試験や実験に対する評価は、よく行われてきましたが。
そのときの点数は、いつだって千点満点で評価されていました。
何なら小数点第二位まで、綿密に計算されていました。
だから星屑学園での定期試験も、てっきり千点満点だと思い込んでいたのです。
そうだったんですか。
百点満点で、百点をオーバーすることはなかったんですね。
「これは大変失礼しました。私は何やら、誤解をしていたようです」
「うん…。凄い誤解だね。俺もびっくりしたよ」
「ということは、奏さんは、かなりの高得点を叩き出したのですね」
と、私は言いました。
百点満点で、全科目の平均点が90点を越えているということは。
相当、優秀な部類に入るのではないでしょうか。
あ、それとも。
「皆さん似たような点数なんですかね?誰しも90点以上取るのは当たり前、という難易度…」
「いやぁ…そんなことはないと思うけど…」
と、奏さんは言いました。
では、確認してみましょう。
私は教室内を見渡し、適当に目をつけた、複数人のクラスメイトの解答用紙を見つめました。
私の目は、自動的にズームが出来るので、半径5キロ以内なら、目の前にあるように見ることが可能です。
…ふむ、成程。
皆さん、点数がバラバラですね。
中には、奏さんのように90点くらい取っているクラスメイトもいますが。
そういう生徒は極めて稀で、多くは70点とか50点とか20点とか、割とバラバラです。
湯野さんの点数も見えてしまいましたが、彼女の平均点は、精々60点に満たないくらいですね。
クラス委員というものは、てっきり成績優秀者がなるものと思っていましたが。
そうでもないようです。
「大体、瑠璃華さんは俺より点数良いでしょ?100点取った科目もあるんじゃない?その時点でおかしいとは思わなかったの?」
と、奏さんは尋ねました。
それは大きな誤解です。
何故なら、私は。
「思いませんでした。私、全科目0点なので」
「えっ…」
と、奏さんは驚愕に目を見開きました。
今度は、奏さんが衝撃を受ける番ですね。
奏さんは、思わずポカンとしていました。
なかなかに、間の抜けた顔になっていますね。
大丈夫でしょうか。
「れ、0点…!?何で!?名前書き忘れた!?」
「いえ、名前は書きましたが…」
「じゃ、じゃあ何で…!?瑠璃華さんなら、百点満点も夢じゃないでしょ?」
「…さっきから、何を慌てているのですか?」
「そりゃ慌てもするでしょ!」
と、奏さんは言いました。
成程。
確かに、人間なら、時には慌てることもあるでしょう。
久露花局長も、今しがた食べようとしていた、高級チョコレートを床に落としたときなどは、とても慌てふためいています。
慌て過ぎて、チョコレートだけではなく、机の上のティーカップと筆記用具まで落として、床を大惨事に招いたこともあるほどです。
しかしそれを見て、私は学びました。
「奏さん。慌てても、良いことは何もありません。ここはゆっくり呼吸をして、ひとまず落ち着きましょう。はい、呼吸を合わせて。ひっひっふー」
「それ違う呼吸!あぁもう!瑠璃華さんって本当、何考えてるのか分かんない!」
と、奏さんは叫ぶように言いました。
私は、落ち着かせる為に言ったのですが。
何故か逆効果だったようです。
人間とは、難しい生き物です。
「大丈夫です、奏さん。私にも、奏さんが今何を考えているのか、分かっていませんから」
「そうでしょうね!」
と、奏さんは言いました。
これは…怒っている?のでしょうか。
何だか、奏さんの語気が荒いです。珍しいですね。
「怒りましたか?」
「え?」
「私は、大切な友達を怒らせてしまったのでしょうか?」
「え、いや…怒ってる訳ではないけど…」
と、奏さんはトーンダウン。
良かった。怒らせている訳ではないようですね。
「で、でも…何で瑠璃華さんが0点なの…?」
「?それは、一問も問題を解いていないからです」
「な、何で!?」
と、奏さんは聞きました。
またヒートアップしてますね。やはり怒っているのでしょうか。
「私は成績には頓着しないので。問題文に目を通したところ、これなら満点を取るのは可能だとは思いましたが、全科目満点を取ってしまっては、むしろ不正を疑われると言いますか、わざわざ空欄を埋めるのが面倒だったと言いますか、諸々の理由がありまして、結局…」
「…ねぇ、瑠璃華さん」
「…何でしょう?」
「どっちかと言うと、二番目の理由の方が強いんでしょ?」
「…」
と、私は無言でした。
凄いですね、奏さん。
私の考えていることが読めるとは、もしかしたら奏さんは、読心術の使い手なのかもしれません。
私には心はありませんけど。
「私が遂行している『人間交流プログラム』は、人間の感情を理解することが目的であって、試験で良い成績を収める必要がないので」
と、私は説明しました。
私の今回の中間試験の目的は、あくまで奏さんとの勉強会を通じて、友人である奏さんとの交友を深めること。
この目的は、試験前日の時点で、既に完遂されていました。
更には試験直後、碧衣さんに遭遇したあの日。
喫茶店でフレンチトーストを食べながら、お互いに更に交友を深めたので。
これでもう御の字だと思っていました。
よって、私自身の試験には、全く手出しをしなかったのですが…。
しかし。
「あぁ、もう…。瑠璃華さん…。そうなんだろうけど、でも成績だけは…。一生に関わるものでもあるんだし…。いや、これは…余計なお世話かもしれないけど…。折角頭良いのに…」
と、奏さんはブツブツと、何かを呟いていました。
何が言いたいのでしょう。
この際ですから、はっきり言ってもらって結構なのですが。
「…俺はね、瑠璃華さん」
「はい」
「瑠璃華さんと一緒に、試験で良い点取って喜びを共有したかったよ」
と、奏さんは言いました。
はっきりと。
…そうだったんですか。
「それは申し訳ありません…。先にそれを知っていれば、そのように対応したのですが…」
と、私は言いました。
奏さんがそんな風に思っていたとは。知りませんでした。
事前に知っていれば良かったのですが。後の祭りという奴ですね。
成程。私達の友情構築は、試験後、今この瞬間まで続いていたのですか。
それは気づきませんでした。
「もう、過ぎたことだから仕方ないけど…。期末。じゃあ、期末試験には、ちゃんと真面目に試験に取り組んでよ?ちゃんとやらないと、補習になっちゃうよ」
「了解しました。期末試験ですね。お友達に頼まれたからには、私も今度は、真面目に試験を解くことをお約束します」
「はい。約束してください」
と、奏さんは言いました。
「では、脳内スケジュール管理システムに、期末試験の日程を刻み込んでおきます。一秒たりとも、一瞬たりとも、決して忘れることのないように…」
「い、いや…そこまで頑張らなくても良いから…」
「いえ。友人の頼みとあらば、私は脳内の全リソースを割いて…」
と、私は言いかけましたが。
そのとき、背後から声がしました。
「ねぇ、ちょっと電波ちゃん」
と、クラスメイトは言いました。
そういえば私は、このクラスに来たとき。
電波ちゃん、というあだ名をつけてもらったんでしたね。
つまり、呼び止められたのは私です。
そしてこの声は、聞き覚えがあります。
振り向いてみると、やはり私の予測通り。
クラス委員の湯野さんが、そこに立っていました。
こうして言葉を交わすのは、久し振りですね。
先程は、勝手にあなたの中間試験の点数を見てしまい、申し訳ありませんでした。
「私に、何か用でしょうか?」
「運動会の種目。電波ちゃんは借り物競争になったから」
「…?」
と、私は首を傾げました。
いきなり、唐突に、何の話でしょう。
何のことか分からないことを、一方的に断定されてしまったのですが。
更に。
「幽霊君は、いつも通り補欠ね。棒奪いの」
と、湯野さんは、奏さんにも言いました。
奏さんは、これが何の話か理解しているのでしょうか?
すると。
「…うん」
と、奏さんは静かに頷きました。
「あと、分かってると思うけど、当日は来ないでよ?」
「…うん。分かってる」
と、奏さんは頷きました。
どうやら奏さんには、これが何の話か分かるようです。
是非とも教えて頂きたいところですが。
まずは、話を持ちかけてきた湯野さんに、直接聞いてみることにしましょう。
「湯野さん。質問しても宜しいでしょうか?」
「何?」
「今の話は、一体何のことですか?私には理解不能です」
と、私は言いました。
「…」
と、湯野さんは無言で、私を睨みました。
そんな不満顔をされても、私は分からないことを分からないと聞いているだけなので。
どうしてあげたら良いのか分かりません。
すると。
「運動会。うちの学校では、来月の頭にあるの」
と、湯野さんは言いました。
良かった。ちゃんと説明してくれました。
何だかぞんざいな言い方ですが、説明してくれているのだから、言い方なんてどうでも良いですね。
「そうなんですね」
「で、その運動会に出場する種目決め。電波ちゃんは借り物競争に出て」
「分かりました」
と、私は答えました。
運動会なら、知ってますよ。
やったことはありませんが、知識として知っています。
生徒達がそれぞれチームに分けられ、走ったり飛んだり泳いだり踊ったり回ったり、様々な種目のスポーツを行って、優勝を競う。
そんな、学校ではお馴染みの、一大イベントですね。
多くの生徒は、そんな一大イベントを楽しみにしているそうですが。
一部の生徒からは、雨でも槍でも斧でも剣でも良いから降ってくれ、と祈られるイベントでもあります。
槍が降ってきたら、それはそれで困る気がしますが。
借り物競争、という種目がどんな競技なのかは、やってみたことがないので分かりませんが。
それは、後で調べてみるとしましょう。
借り物競争…。一体どんな競技なんでしょう。
見知らぬ通行人に声をかけ、金を無心し、いくら借りられたか、その額を競う競技でしょうか?
…興味深いですね。
人は、初対面の人間を相手に、どれだけの額を渡せるのかという実験になります。
そもそも、初対面で声をかけた人にお金を貸してもらえるか、そこから勝負が始まりますね。
そして、声をかけた人が、一定の額を持ち歩いていることも前提になります。
いかに、言葉巧みに相手を懐柔し、お金を貸してもらうか。
いかに、相手から少しでもお金を搾り取れるか。
かなりの心理戦が予想されます。
成程。興味深い種目です。
そんな種目に、転入生の私を出場させてくれるとは。
湯野さんは、確かにあの笑顔は悪癖ですが、心は優しい良い人なのかもしれません。
そんな彼女の気遣いに応える為にも、私は誰よりも言葉巧みに、誰よりも多額の借金をしてきましょう。
もしかしたら、その結果次第で、湯野さんも私と仲良くしてくれる、きっかけになるかもしれません。
まずは、奏さんを幽霊呼ばわりするのを、やめてもらうところから始めましょう。
うん、良い機会ですね。
と、思っていたのですが。
「ちょ…ちょっと待って」
と、奏さんは湯野さんに言いました。
「何よ?」
「何で、瑠璃華さんの種目を勝手に決めたの?種目決めは、本人の希望が優先でしょ?」
と、奏さんは言いました。
…そうなんですか?
「何で、いつの間に勝手に決めてるの?ちゃんと種目の説明をして、瑠璃華さんの希望を聞いてから決めてあげてよ」
と、奏さんは言いました。
すると。
「別に良いでしょ?他の種目に出る子は、もう決まってるの。借り物競争だけ余ってるから、電波ちゃんにはそれに出てもらうのよ」
「あ、余りって…。本人の希望も聞かずに、皆で勝手に決めて、それで余った枠を瑠璃華さんにやらせるなんて…。そんなの、皆がやりたくない種目を、瑠璃華さんに押し付けてるだけだ」
と、湯野さんと、奏さんは口論しました。
…何だか、私を巡って争っていますか?これはそういう状況ですか?
「ちゃんと、瑠璃華さんの希望を聞いてから決めて。一方的に押し付けるなんて、そんなの不公平だ」
と、奏さんは珍しく、怒ったように言いました。
あ、でも、さっきもちょっと怒ってましたね。
すると。
「は?足がない癖に、運動会で一番足引っ張ってた奴が、口出ししないでくれる?」
と、湯野さんは、禁断の一言を口にしました。
…湯野さん。
あなた、今、何て言いましたか?
「っ、それは…」
「あんたがクラスに一人いるせいで、どれだけ皆に迷惑かけてると思ってんの?どうせ当日は休むんだし、あんたには関係ないでしょ?黙っててくれる?」
「…でも…。でも、瑠璃華さんは…俺と違って、運動神経も良いんだし…」
「そういうの関係ないから。どうせ電波ちゃんは、何の種目でも喜ぶよ。ねー電波ちゃん?」
と、湯野さんは、いつもの悪癖笑顔でこちらを見ました。
何故でしょう。
今私は、彼女の横っ面に回し蹴りをしたくて堪らない。
そんな衝動に駆られています。
その衝動を必死に抑えながら。
「…湯野さん」
「何?」
「私は、あなたとは友達になりません」
と、私は言いました。
私のアンドロイド生が始まってから、こんな一大決心をしたのは、初めてかもしれません。
胸の中が、不快感でいっぱいです。
久露花局長が言っていました。
この不快感は、怒りという感情なのだと。