「…多分、お母さんは家にいないだろうから」

お母さんは仕事をふたつ掛け持ちしている。

私のお父さんが出張する機会が多くなり始めてから、お母さんは私から逃げるように仕事に勤しんでいくようになった。

なんでか、は言われなくても分かる。私がこういう人間だからだ。努力はしているけれど結果は出せない、そんなちっぽけな人間。

「…そっか。俺もついてくよ」

その声で、私ははっとして考えるのをやめた。

「いや、いいよ…」

「道分かんないでしょ」

確かにそうだ。いくらここから最寄りまで教えてもらったって、ここから私の家までなんてさっぱり分からない。

私がこくりと頷くと、彼は満足げに笑った。

「行こっか」



「ここが昨日会った場所だと思うんだけど」

しばらく歩いた場所で彼が立ち止まったと思うと、そう言った。

「ここから家まで分かる?」

そう聞かれるが、私はがむしゃらに走っただけな上に方向音痴なので分かるわけもない。

「ほら」

彼は私と初めて会ったばかりなのに、なぜ私のことをよく知っているかのように話すのだろう。本当に不思議なひとだ。

「てか俺ら名前教えあってなくない?」

確かに、と私は頷いた。一晩寝た仲なのに…というと紛らわしいが…なぜ二人とも名前を聞かなかったのだろうか。

「じゃあ、まずそっちから」

「そういうのは年上からなんじゃないの」

「レディーファーストだよ」

面倒だなとは思いつつ、まずは私から。

「月果|《つきか》。月に果実の果で、つきか」

つきか、と彼の口がその文字をなぞった。声を出さずに、そっと。

「俺は…莉音。茉莉花の莉に音でリオン」

「莉音ね。よろしくね」




互いに、いい名前だねとかそういう他愛もないことは言わなかった。ただ事務的に名前を紹介し合う、私達はそこから始まった。








「え⁉︎知らない男の家に泊まってるの⁉︎」

「うん」

「わーお…」

目の前にいる私の友人は、それを聞いてかなり驚いていた。確かにそれも無理はないだろう。

普通に考えたら、家出した女子高生を都合よく拾ってくれる男子高生がいるというのはおかしいかもしれない。自分でもそう思うくらい。

でも私はあの家にはもう戻れない。一回だけ荷物を取りに戻ったものの、いつ帰ってくるのかビクビクしながらだったので全てのものを取り出すことはできなかった。

とりあえず持てたのは、スマホと財布と定期、それに教科書とリュック。あとは3日分の服。制服があるからそこまで服はいらないだろう。ちなみに鍵はピッキングで彼…莉音が開けてくれた。

あんまりいい方法ではないけど私がかつて住んでいた家なんだから許してほしい。それにしても、ピッキングができる男子高生なんてそうざらにはいないだろう。

私はとんでもない男に出会ってしまったのかもしれない。そしてその予想の正誤を、私は後に知ることになる。



「家に居候するのは構わないけど、ちゃんと分担しよ?」

学校から帰ってくると、彼からそう言われた。

「そうだね」

何もせずに居候させてもらうのは流石に申し訳ない。ただぼーっとしているよりは、何か仕事をくれた方が嬉しかった。

「月果は料理、できたりする?」







「…できない」

残念ながら料理はからっきしだめだ。全くできないと言われると否定したくはなるけど、普通にできない。

それ以上でもないしそれ以下でもない。

「じゃ掃除を任せるか。掃除はできる?」

「…たぶん?」

私の曖昧な返事は無視されたらしく、物事は彼によってとんとん拍子で決まっていく。

「じゃあ掃除は基本月果な。俺は食事と洗濯、あとお金関係を全てやるから」

「私…掃除だけでいいの?」

私が尋ねると、彼は意地悪げな笑みを見せた。

「さては月果、掃除が簡単だと思ってるだろ?お前も俺が掃除だけを放棄した理由を思い知ることになるよ」

確かに彼の言うことは正しかった。掃除は思ったより大変で、掃除機だけぶんぶんかけていればいいというわけにはいかなかった。

お母さんが普段、大変な思いをして掃除を行っていたことを思い知った。

「ちなみにトイレ掃除とかもあるよ?」

「うえ」

トイレ掃除…忘れてた。トイレ掃除は絶対にやらない、と思っていた。

しかしやる日が来るとは思ってもみなかった。ブラシを握って覚悟を決めると、彼がそれをあっさり奪い取った。

「なーんて。女子にそんなんさせられっかよ」

と言って、彼はそのブラシを使って黙々と作業を始める。

「…ありがと」

「ん?こんなん当たり前だって」

鼻歌を歌いながら、彼はすこし笑ってみせた。…かわいい。

「てなわけで、月果にはトイレ掃除以外の掃除は任せるな?トイレ掃除は俺が歌でストレス発散したいとでも思っときな。実際それもあるし」

…この人、本当に優しいんだな。

そう思うと胸がぽかぽかあたたかかった。








「月果!どこに出かけてたの!」

ふと目をあげると、そこにはお母さんが立っていた。

「心配したんだから。全くもう」

「ごめんなさい…私、お母さんに嫌われてるのかと…」

「そんなことない。月果は私の大事な娘。心の底から愛しているの」

お母さん…。私の目に涙が溜まっていく。

「…なんて、言うと思った?」

その言葉に、私は目を大きく見開いた。感動とは打って変わった別の感情の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。

「あんたは出来損ないなの。私はあんたがそのことをよく分かっているはずだと思ってた。なのになんなの、その反抗的な目つきは。私がいけないっていうの?」

「ちっ、違います…」

「だったらやめなさいよ。ほんと、反吐が出る」

お母さんは大きくため息をついた。

「ごめんなさい…っ」

私はただ謝るしかなかった。

高校生なんていっぱしの大人だと言われるけれど、自分だけじゃまともに生活することなんてできない。

親に見捨てられたら居場所がない。そんな未熟な人間だ。

「月果」







優しく呼びかけられたと思うと、目の前には莉音がいた。

心配げに私の肩を掴んでいる。

「怖い夢見てた?うなされてたから」

どうやら先ほどのは夢だったらしい。ほっと息を吐き出すと、自分が冷や汗をかいていることに気がついた。

「シャワーでも浴びてくれば?まだ朝三時だけど」

さっきの夢の内容がリフレインして、頭がガンガンする。けれど今すぐに寝ることはきっとできない。

「…うん。入らせてもらうね」

シャワーのやさしい水が私を覆う。その音に、私は少しだけ落ち着きを取り戻す。

体を擦ることはなく、ただほんの少しかいた汗を流すだけだからそう長くはかからなかった。

数時間前に使ったタオルで軽く水気を取ると、私はついさっきまで着ていた服に手を伸ばす。

「…?」

気がつくと、それは先程まで着ていた服ではなく綺麗に畳まれた服だった。

「莉音、ありがとう…」

私はその服を急いで着てから彼にお礼を言う。

「ん。レモネードいる?」

「いるっ」

「子供かよ」

即答した私を見てくすりと微笑む彼。その笑顔があまりにも優しくて、そんな彼にドキッとしてしまう。

「はい」

レモネードが注がれたグラスを受け取ると、私は勢いよく飲み始めた。いままで喉が渇いているのを忘れていたかのようだった。






「ど?これ俺の手作りなんだけど」

「てっ、手作り⁉︎」

レモネードは確かに手作りできそうではある。けれど私は作ってみたことはない。

ここまで美味しく作れるとは。

「俺の場合は蜂蜜を加えたりするけどな」

「蜂蜜かぁ…」

確かに入れたら美味しそう。

「ってことは、莉音は甘党?」

「…悪いかよ」

ちょっと口を悪くする彼に、愛しさをおぼえる。

この時、私はあることに気がついた。



これが、“好き”という気持ちそのものだということを。





恋って不思議だ。

見える世界がぜんぜん違う。

よくそういう言葉を耳にするが、実際はそうでもなかった。

恋をしたからって劇的になにかがよくなるわけでもないし、変わったわけでもない。

けれど、気持ち的にふわふわして、なんだか嬉しかった。

一生好きな人なんてできないだろう、そんな風に諦めていたから尚更だった。






私のことを気にかけてくれる人は、私の友人の他に誰もいなかった。

先生は私とお母さんがとても仲が悪いことを知っているのかもしれないが、口を出さない。

所詮先生なんてそんなもんだ、私のお母さんが浮かべる上っ面の笑みに騙されてしまう。それに、お母さんは外でも私のことを馬鹿にする。

「私の娘なんか全く勉強に取り組まないんですよ、ほんと嫌になっちゃう」

お母さんはいつからそう思うようになってしまったんだろう。

私は勉強に真面目に取り組んではいる。一時間取り組んだから休憩しよう、そんな時間帯に限ってお母さんが部屋に入ってくる。

「あんた勉強してんの?あーほらまた遊んでる」

そう言って呆れながら帰っていく。しばらくそんなことは続いたが、もうそれは反論することでもなかった。

反論するだけ無駄だとわかってしまった。だから私は、家に帰らずにギリギリの時間まで学校にいることにした。

「もう完全下校時刻過ぎてるんですけど」

「ごっ、ごめんなさい!」

こんな場面も何回かあった。

きっと勉強してもちっとも頭が良くならない私は、出来損ないの人間なんだろう。

けれどそんな私を気にかけてくれる人がひとり増えた。

そんな人を好きになれた。

そのことが強みになった。









「月果、好きな人できたでしょ」

「え⁉︎」

そう思った一日後、友人はすぐにそれを見抜いた。

「…そうだけど」

ここまで洞察力が鋭いのは彼女くらいだ。

そんな彼女には敵わないと思い、私はこくりと正直に首を縦に振る。

「で?誰なの?」

言っても分からないのにな、と思いながら私はその名を口にする。

「…高二の、莉音って名前の人」

「リオン…」

その名前を聞いた彼女は,眉間に皺を寄せる。

「もしかして、坂口莉音のこと?」

「…そう、だと思う」

確かに家の前にある札には『坂口』と書いてあった気がする。けれどなぜ彼女がそれを…?

「坂口莉音と言ったらここら辺じゃ結構な有名人だと思うよ?だって、『白虎』のメンバーだし」

白虎。いかにも暴走族の名前らしい。暴走族とかに疎い私でさえもそう思える。

「白虎って強いの?」

「当たり前じゃん。つってもここらへんのトップってわけでもないけど。ここの地区では2、3番目くらいかな」

暴走族が何十個もあるうちの2、3番目なんてすごいじゃないか、と上から目線で思う。







「1位は雷神、2位と3位を争ってるのが疾風」

どちらもきっと有名なんだろうけど、聞いたことがない。

「全く、月果はそういうのに疎いんだから。もうちょっと世間を知らなきゃだよ」

なんて言う友達を他所に、私は頬杖をつきながら考える。暴走族って何するもんなの?

まさか私を他チームの人質にして油断させておいて、回収しないとか?絶対やだ、だったら…。そこまで考えたが、首をぶんぶんと振る。

あの家には戻れない。