彩乃と別れてから、すぐに奈央子にメールを打った。話したいことがある、遅くなってもいいから今日は部屋に来てほしいといった内容で。
 驚いたことに、10分もしないうちに返信が来た。届いたメールを開くと、こちらも話すことがあるから行くつもりだった、帰りが何時になるとしても待っているというふうに書かれている。
 文面を読んだ途端、一瞬だが決意が萎えかけた。奈央子の「話すこと」とはいったい何だろう、と考えるとつい、悪い想像が浮かんでしまう。きちんと話をして、不安が自分の思い過ごしなら、今度こそ結婚について切り出すつもりだった──しかし思い過ごしでなければ、その決心も意味のないものになってしまう。恐怖心がよみがえってきた。
 だが、今ひとりで考えていてもしかたない。そう無理やり割り切るまでにしばらくかかった。
 それに先ほど、どんな結果になっても受け入れると、覚悟を決めたはずだ。携帯を閉じ、その場に立ち止まって深呼吸をする。ほんの少しでも気持ちを落ち着かせるために。
 幸いにというか、会社へ戻った後は残業の必要もなく、ほぼ定時で退社できた。最寄り駅までの道中に再びメールを送り、これから帰ると報告した。
 その後は脇目も振らずマンションへ急ぐ。普段は約1時間の道のりが、45分ほどに短縮された。
 部屋に着くと、予想通り奈央子が待っていて、柊を出迎えた。すでに7時近いが、見たところ夕食の準備は全くされていない。
 それどころではないほど重大な話があるのだろうと思い、また怖じ気づきそうになる。奈央子の何か思いつめたような固い表情が、予感にだめ押しをしているふうにも見えた。
 スーツの上着を脱いだのみで、ダイニングの椅子に座る。先に座っていた奈央子が顔を上げてこちらを見たが、すぐに目を伏せてしまった。テーブルの上で組み合わせた自分の手をじっと見つめている。
 沈黙がしばらく続いた後、再び奈央子が、今度は思いきったように勢いよく顔を上げた。そして口を開きかける。そのわずかな間に、タイミングを見計らっていた柊は割り込んだ。
 「あのな、奈央子──なんていうか、おれ、今までおまえにすごく甘えていたと思う」
 話し始めるタイミングを奪われたのと、話の内容の唐突さに、奈央子は少しの間憮然とした面持ちになった。しかしその表情は何度かまばたきする間に消えて、相手の話をひととおり聞くための真面目な顔つきへと変化する。
 それに背中を押される心地で、柊は話を続けた。
 「……気づいてないわけじゃなかったけど、深くは考えないようにしてた。正直、奈央子が甘えさせてくれるのが気楽だったから。……けど、逆におまえが甘えてきたことって、考えたらほとんどなかったよな」
 単なる幼なじみと思っていた頃から、柊が奈央子に相談したり愚痴をこぼすのはよくあることだったが、その逆は数えるほどしか記憶にない。それも、本人から言い出した場合となると皆無に近かった。
 就職して以降、慣れない仕事のことで柊がしょっちゅう愚痴らずにはいられなかったように、奈央子にもいろいろ思うことはあったはずである。だが、彼女が何も言わず聞き役に徹しているのをいいことに、自分の言いたいことは遠慮なく吐き出しても、逆に彼女はどうなのかと聞いてみたことはめったになかった。考えることすら少なかった。
 「──それが、おれが気を遣ってやらなかったせいだとしたら、ほんとに悪かったと思う。今さらだろうけど……だから」
 この期に及んでも、その先を口にするのは相当の勇気が必要だった。何とかかき集めて、一日中考えていたことを言葉にして声に出した。
 「だから、もしおまえに愛想つかされてるんだとしても、それはしょうがないと思う。別れたいと思ってるなら、言ってくれればいつでもそうする」
 一息に言って口を閉じ、相手の反応を待った。
 途中までは真面目な顔で聞いていた奈央子は、最後の部分を聞くうちにぽかんとした表情になった。柊を見つめたまま、その表情はまだ変わらない。
 柊も同じく見つめ返していると、急に奈央子の顔から一切の表情が消えた。あまりに突然でしかも予想外だったので、少なからずうろたえていると、
 「────そんなこと考えてたの」
 抑揚のない、おそろしく低い声音で奈央子が言った。直後、立ち上がって柊のそばに来ると、無言で柊の左頬をひっぱたいた。平手で、それほど勢いもなかったから痛みは少ないが、奈央子がそうしたことに対する衝撃は強かった。お互い、相手に手を上げたことはこれまで全くなかったからだ。
 「わたしの話が別れ話かも知れないって思ってたわけ? …………まったく、あんたってどれだけ鈍いのっていうか、ズレてるっていうか……」
 まあどうせ気づいてないと思ってたけど、とつぶやきで奈央子は付け加えた。こちらを見る視線はなにやら奇妙な──少々恨めしげな感じである。しかし理由がわからないので沈黙するしかない。
 そんな柊の様子に奈央子はため息をつき、なぜか泣き笑いに近い表情を浮かべる。それからおもむろに「……あのね」と、顔を柊の耳の方へと近づけてきた。戸惑ったままの柊に、奈央子は小さな声で短く、あることを告白した。
 「……………………え」
 聞かされたことを認識するのに、かなりの間が必要だった──それでもなお、理解にはまだ至っていない。顔を赤らめながら奈央子が言い足す。
 「もうすぐ3ヶ月だって、今日病院で」
 そしてだめ押しのように、自分自身の腹にそっと両手を当てる。そこまでされてはさすがに、理解しないわけにはいかなかった。
 ……いや、本当のところは、子供ができたと奈央子が耳元でささやいた時、最近の彼女の様子──体調が悪そうに見えたことや食事についての疑問など全部が、一気に腑に落ちはしたのだ。
 ただ、情けなくも一度も予測していないことだったからやけに意外に感じられて、頭の中に浸透するのに時間がかかってしまった。どうして全然考えなかったのかと、今は自分があまりにもうかつに思えてならない。その可能性は確かにあったのに。
 さらに話を聞くと、気づいたのは連休前、つまり妙に顔色の悪かったあの日だという。柊の部屋に着いた直後、急に吐き気がして、治まってからあれこれ思い返して「もしかしたら」と考えたらしい。
 「だったら、どうしてあの時言わなかったんだ?」
 実際、柊の目にも何か話したそうに映ったのだ。そう思いながら聞かなかったのだから偉そうには言えないが、そんな重大事をすぐに話さなかった奈央子に、わずかながら腹立ちを感じてしまっていた。
 その感情が声に出たらしく、奈央子は複雑な顔でうつむいた。しばし黙り込んだ後、
 「……怖かったの」
 「え?」
 か細い声が聞き取れなくて思わず聞き返す。
 「そうだとは思ったけど、確実にわかるまでは口に出したくなかったのよ──やっぱりまだ独身だし、今まで大丈夫だったからって油断してた自分が甘かったと思うし……それに」
 奈央子はいったん言葉を切り、息を吸い込む。
 「本当だってわかったら産むかどうするか考えなくちゃいけなくて、そしたら否応なく今の状態を変えざるを得なくなるから……そう考えたらなんだか少し怖かった。中途半端だと思うけど、でも今の状態がすごく居心地がよくて好きだったから、できれば変わらないままでいたかったの。都合が良すぎるのはわかってたけど」
 彼女の言葉を聞きながら、柊は安心と後悔を同時に感じていた。今の状態について、奈央子も同じように考えていた事実は、柊の中の罪悪感を半分ほどに減らしはした。しかし、彼女にそんなふうに思わせた原因は、やはり言うべきことをさっさと言わなかった自分なのだと、あらためて自らの踏ん切りの悪さに嫌気がさす。
 しばらく思いを巡らせてから、柊は椅子から立ち上がり、再び黙ったまま立ち尽くしている奈央子を座らせた。そして、姿勢を低くして彼女と目線を合わせる。「なあ」と声をかけ、奈央子が目をこちらに向けるのに合わせて切り出した。
 「今度の休み、実家に行こうか」
 「えっ?」
 「やっぱ、親に無断で籍を入れるわけにはいかないだろ。いちおう先に報告しないと。……それでも、少なくともおまえの親父さんには怒られそうだけどな。もしかしたら殴られるかも」
 「柊……?」
 不安そうな顔をする奈央子の左手に、柊は自分の右手を重ねて包み込む。その薬指の、最初のクリスマスプレゼントであるプラチナリングの感触を確かめながら、表情をあらためて言葉を続けた。
 「ごめんな、奈央子。おれがトロトロしてたせいで悩まなくてもいいことで悩ませて」
 「そんな、別にそういうわけじゃ」
 「いや、そういうわけだよ。男のおれがちゃんと考えておかなきゃいけないことだったんだ。だから、それこそ今さらだけど、でも大事なことだから言う──結婚しよう。なるべく早く入籍して、一緒に子供を育てていこう、な」
 奈央子は目を見開いた。その反応は予想していたが、まだ不安の残る様子で「産んでいいの?」と尋ねたのには驚いた。反射的に、いくぶん非難するような口調になる。
 「まさか、産まないつもりだったのか?」
 「違う、そうじゃないけど──でも」
 慌てて首を振りながら言った後、奈央子は口ごもってしまった。何か言おうとしつつも、適当な言葉がなかなか出てこないといったふうに見えた。
 数十秒の努力の末、彼女が口に出したのは、
 「……ほんとにいいの? これからいろいろ大変になっちゃうわよ?」
 疑問形ではあったが、確認の言葉だった。先ほどまで声に混ざっていた不安げな調子はほとんど消えている。
 「まあ、な。たぶん一日ものんびりしていられなくなりそうだけど……けど、子供のこと最優先に考えてやらなきゃな。無事に産んで、元気に育つようにしてやるのがおれたちの役目だろ」
 「──ん、そうよね」
 自らに言い聞かせるようにそう言って、奈央子は何度もうなずく。そして、次に顔を上げた時には、今日初めての笑顔を柊に見せた。目にうっすらと涙が浮かんでいる。
 椅子に座ったまま、奈央子は柊の肩に腕を回して抱きついてきた。「ありがとう」と涙まじりにささやく声が聞こえた。
 奈央子への愛おしさ、そして彼女の中にいる小さな命への愛情がにわかに溢れてきて、胸がいっぱいになる。その想いを腕にこめて、柊も奈央子を抱きしめ返した。

 互いの両親への報告を済ませ、婚姻届を出したのは、それから一週間後のことである。


                               - 終 -