昼間の空気が少し暖かくなり始めた、3月中旬。
県立T高校では卒業式が行われ、3年生全員が母校での最後の一日を過ごした。
教室での卒業証書授与も、在校生との別れの行事も一通り済んだ、夕方4時過ぎ──陸上部の部室に宏基は一人でいた。つい先ほどまで、2年生が進行役での送別会が行われていたのだ。
他の部員はすでに2次会の会場である、駅前のカラオケボックスに向かっている。宏基は学校を出たところで財布を忘れたことに気づき、部室に戻ってきたのだが……あらためて見ると、ずいぶんな散らかりようである。クラッカーのリボンや紙吹雪が床に散乱し、空になったペットボトルやお菓子の袋もそのままだ。
普段ならこういう場合、マネージャーの誰かが片付けているのだが、率先してやりそうな2年の戸田美咲は今日の幹事だし、2人いる1年生は盛り上がった雰囲気につられて忘れてしまったのかも知れない。
高校生活最後の日なのに、このままにして帰るのは、部室に申し訳ない気がする。せめてゴミだけでも集めておくかなと思い、ゴミ袋はこの部室にあったっけ、と考えながら室内を見回していると、
「財布見つかった?」
ドアが開く音とともに、そう声をかけられる。
振り返ると、まなみが入ってくるところだった。
「ああ、あったけど……おまえ何しに来たんだ?」
まなみは幹事の面々と一緒に、かなり先に行ったはずである。
「あたしも忘れ物──ってのはまぁ口実で、ちょっとこれが」と部室内を指して、
「気になったから。そこのロッカーにゴミ袋の買い置きあるはずだから、何枚か出して」
言われた通りの場所に透明のゴミ袋を見つけ、10枚入りのパックごと引っぱり出した。
しばらくの間、ブレザーの制服の上に学校指定のコートを羽織ったままで、二人ともゴミ集めに専念していた。送別会の主役である3年生、しかも幹部の元代表である自分とまなみが、さして疑問も感じず掃除をしている姿を客観的に見たら、たぶん変だろうなと宏基は思う。
そんなことを考えていたら、無意識のうちに笑ってしまった。燃えるゴミと燃えないゴミの分別に集中していたまなみが、こちらを向く。
「なに、いきなり。思い出し笑い?」
「いや別に。なんでもない」
そう返して宏基は作業に戻ったが、まなみはまだこちらをじっと見ているようだった。
やや間を置いてから、
「彩乃さんとは、その後どう?」
と聞いてきた。宏基が意外に思ってまなみを見ると、相手は意味ありげにニヤリと笑い返した。
「聞いたよ。ギャラリーのいる前で言っちゃったって」
「……ああ、それな」
いろんな意味で隠す理由がなかったので、宏基は頷く。今日声をかけてきた数人の女子にも(中の一人は美咲の妹だったと後で聞いた)、告白の前振りとして聞かれたことだった。
その話が広まっているらしいとは、あの数日後、わざわざ電話をかけてきて詳細を聞こうとした篠崎から耳にしていた。……つくづく、どこに人の目と耳があるか、それがどうつながっているかは予測できない。その時も宏基は否定しなかったが、篠崎が聞きたがる「詳しいこと」は話してやらなかった。わざわざ噂のネタを増やしてやる義務まではない。
自分でも、よくあんなことができたなとは思うのだが──発表の掲示に自分の番号を見つけた時、早く彩乃に伝えたいと思って、メールで居場所を聞いた。うまくすれば構内にいるかもと考えた直後、目線の先、芝生の向こうに彩乃の姿を見つけた。
その途端、何か考える間もなく、文字通りの全速力で走り出していた。驚きで目が飛び出しそうになっている彩乃を前にして、ずっと言いたかったことを伝えることしか頭になかった。
とはいえ、そこまでの行動ですでに、周りの視線を嫌というほど集めてしまっているのには気づいて
いたから、直接的な言葉は口にしなかった。それでも、当然ながら感づく人はいただろう。
不意打ちみたいで彩乃には悪かったと思いつつ、けれど後悔はしていなかった。しばらく前まで、彩乃に対して緊張することがあったのが嘘のように、ある種の自信がついたのが自分でもわかった。
「入学式まで返事待つって? ずいぶん余裕なこと言ったじゃん」
からかうように言われても、不思議なほど気にならなくなっていた。これも合格したことから来る、自信のなせる業だろうか。
それにしても、まなみがその話を持ち出してきたのは、やはり意外に思えた。彩乃についてまなみが聞いてきたのは、告白してきた時だけだったのだ。それ以降、その件に関してはただの一度も口に出さなかった。
「別に、余裕ってわけじゃないけどな」
あの場で答えがほしいと言うのはさすがに無茶だと思ったまでだ。自分が原因での注目だったから、宏基自身はかまわなかったけど、彩乃はいつまでもその中にいたくはなかっただろうし──従姉が、あらためて認識した「失恋」からどれぐらい立ち直っているかもわからない。たとえ短い間でも、冷静に考えてもらった上での答えを聞きたかった。
簡潔にそう答えると、まなみは再び手元に目を落として「そうかなぁ」と呟く。
「考える時間なら、いっぱいあったと思うけど」
言われた意味がつかめず、つい聞き返す。
「誰に?」
「彩乃さんに」
「……なんでだよ」
「だって、あたしが頼んでからもう何ヶ月も経つもん。その間に充分考えてるんじゃない」
──間があった。
「頼んだ、って何を……ていうか大垣、おまえ彩姉に会ったのか? いつ?」
「去年のK大のオープンキャンパスの時。言っとくけどそのために行ったわけじゃないよ。その日来てるかどうかなんて調べようがないし」
その日まなみが彩乃を偶然見かけた経緯と、話した内容をざっと聞かされて、宏基はかなり驚いた。初耳だったのだ。
それと同時に、なんとも表現し難い、複雑な気分に襲われる。余計なことをされたという憤りでも、それを今まで全然知らなかった自分に対する情けなさでも、まなみへの申し訳なさでもなく……反面、それら全部が混ざっているようでもあった。
「ほんとに、今まで全然聞いてなかったの?」
「聞いてなかった」
意外そうに尋ねるまなみに答えながら、そういえば、と宏基は思い出す。正確にいつごろだったかは覚えていないが、電話で話している時、彩乃が何か言いかけて沈黙し、結局何も言わないという妙な間が何度か続いたことがあった。
それから、正月に会った時の不審そうな視線──自分が何かしら不自然な言動をしていただろうかと思ったが、それなら従姉の家族からも指摘されそうなものだと考えて、はっきりと思い当たることはなかった。けれど、もし彩乃が、まなみの言ったことを真面目に考えていたのだとしたら……宏基が何も言わないことこそが不可解だったのかも知れない。
推測でしかないけれど、つじつまは合う。
「なんでそんなこと、おまえが」
「お節介だった? 確かにそうだけど、でもあたしだから言ったんだよ。御園が好きだから」
実にあっさりと、しかし臆せずに宏基の目を見つめながら、まなみは言った。
……諦めていない、というサインをある意味あからさまに出しつつも、具体的なことは絶対に口にしなかった彼女の、2度目の告白だった。
「ずーっと見てたから、あんたの気持ちが真剣なのはよくわかった。だから、あの人にも真剣に考えてほしいって思った。それだけだよ」
きゅっ、とゴミ袋の口を結ぶと同時に、まなみはそれきり黙った。言い訳も、宏基への片想いも、これで終わりにすると宣言するような表情で。
その時、今までで一番、まなみに申し訳なかった……特別だと思えなくて悪かった、という気持ちになった。
しかしそのまま言うのは、まなみにかえって失礼だとさすがに判断がついたので、「そうか」とだけ返した。
短い反応に、まなみはちらりと目線を上げた。
「怒らないんだ、御園」
「……んー、まぁ今さらだろ。気にならないってったら嘘だけど」
本音だった。面と向かって怒るにはタイミングも時期もずれすぎていると思う。……それに、今まで知らなかったことに対する驚きはあっても、明確な怒りを感じたわけではなかった──逆に、まなみらしいとさえ思ってしまった。
彩乃がどう思ったのかはもちろん気になるが……なんとなく、結果的には悪い方向に働いてはいないような気がする。楽観的すぎるかも知れないが、彩乃がいまだにその時のことについて何も言ってきていない事実が、少なくとも気分を害したわけではないという証明のように思える。
引き結ばれていたまなみの口元が、ふと和らぐ。
「彩乃さんて、きれいな人だよね。……うまくいくといいね」
ふっ切った、嫌味もこだわりもない口調だった。 だから宏基も素直に「サンキュ」と返した。
「さてと、いいかげん切り上げて行かないと。あの二人どこに雲隠れしたのかって言われちゃう」
こちらが聞くより先に、燃えるゴミの袋を両手に「缶とペットボトルは御園、持ってね」と指示するまなみは、完璧にマネージャーの顔になっている。
その見事さに安心すると同時におかしくなり、宏基はまなみが背中を向けた隙に少しだけ笑った。
控え室の椅子に座り、彩乃は緊張と闘っていた。
春らしい暖かい日がしばらく前から続き、昨日の入学式当日は汗ばむほどだった。窓から見える講堂裏の桜もすでに満開であるが、それを眺めるような余裕も今はない。
あと30分ほどで、新入生歓迎コンサートの本番である。毎年この時期に、新入部員の勧誘を兼ねて開催されるこのコンサートは、秋の大学祭と並び、サークルにとっての二大行事となっている。
今回の曲目には、各パートに独唱のあるものが選ばれていて、アルトの担当は彩乃だった。
高校時代は合唱部所属で、サークルに入ってからもパートリーダーを引き受けるほどに打ち込んできた合唱だけに、独唱をまかされたのは嬉しかった。
舞台度胸はある方だと思っている。事実、昔から本番での失敗には縁がなかったので、ありがちな多少の緊張はむしろ、気が引きしまって良いと彩乃は考えている。今日の独唱にしても、これまで真面目に練習してきたのだし、満足できるレベルに仕上がったはずだからと、そう心配はしていなかった。
……落ち着かない原因は、別にあるのだ。
──あの時、奈央子には『どうしようかな』と返したものの、本当は、ほぼ答えは決まっていたようなものだった。
けれどそれを、親友に正確に説明することはできなくて、ともかく『もう冗談とは思っていない』から『ちゃんと真面目に考える』ことを約束するだけにとどめた。
なぐさめてもらった日から……いや、本当は夏休みのあの日から、考え続けていたことではあった。
宏基への感情がどういう種類のものなのか。
会う時、話す時に感じる落ち着かなさの理由が何なのか。
長いこと、文字通り初めて会った時から、弟だと思って接してきた相手である。それなのに今さら、異性として認識して意識するようになるなんて、あり得ないと思っていた。だから久々に会った時の妙な緊張も、予想以上に格好良く成長していた従弟に驚いたからなのだと、そう考えていた。
考えようとしていただけかも知れない、と今は思う。彩乃にとって宏基は、どんな時でも目下の存在だった。悪い意味ではなく、ごく純粋に。
そういう相手が、いきなり自分と対等の立場──つまり、この場合は恋愛対象となり得るのに気がついてしまうことが、なにか怖いような……ある種の抵抗みたいな思いがあったのかも知れない。今まで慣れてきた関係が変化することに対しての。
それに、つい最近まで自覚しなかったものの、心の隅には柊に対する想いが残り続けていた。告白してきた中の誰ともつき合う気持ちにならなかったの
と同じく、宏基に対して特別な感情を抱くことも、無意識に拒んでいたのかも知れなかった。
……夏の『彼女になってくれる?』発言を、冗談ではないのかもいう思いの方が大きくなってきたのは、いつからだったろう──そして、冗談でなければいいのに、と思い始めたのは。
従弟を意識していると漠然と自覚しだしたのは、『可愛い』と言われたことに加えて、結果的には宏基の同級生の言葉がきっかけだったろうかと思う。それと同時に奈央子と柊への複雑な感情にも気づき始めて、落ち着くまではそちらの方が彩乃の中で重要だったから、芽生えつつあった気持ちに関してはあまり考えてみるゆとりがなかった。
一人で抱えているには辛かったことを正直に話して、素直に泣くことで、ようやく他を……宏基に対する気持ちを考える余裕が出てきた気がする。
長いこと、人前で泣いたことなどなかった。たまに泣きたいことがあったとしても、人には見せないようにしてきたのだ。なにか、弱みを見せてしまうみたいで嫌だったから。
けれどあの時は、気がついたら泣いていた。
それを恥ずかしいと思いながらも、隣にいるのが宏基であること自体は全く嫌ではなかった。むしろ本当にありがたいと思った──最後まで話を聞いてくれたこと、黙ってなぐさめてくれたことを。
いつの間に、そんなふうに頼れる……頼ってもいいと思える相手になっていたのだろう。
宏基への感情が、従弟に対するもの以上になりつつあるのを彩乃がはっきり感じたのは、たぶんその時だと思う。
最初はそのこと自体に戸惑ってしまったし、宏基の入試や大学の試験といった時期的な問題もあり、直視するのをわざと避けていた面もあった。すでにその時には、夏の発言を冗談だと思う気持ちはかなり薄れていたけど、一抹の疑いはぬぐえていなかった。
しかし合格した宏基が、あれは本気だと明言したことで、問題は自分の方にもあるのだと気づいた。
──宏基は、彩乃の打ち明け話を聞いている。
全てを話してしまっただけに、こうなってしまうと非常に難しい。失恋のショックで、とりあえず身近な人を好きになったと思われないだろうか。
そんなふうに思ってしまうのは、彩乃自身にまだ「立ち直った」という自信がないせいなのだろう。試験中、二度ほど奈央子と柊が二人でいるところを見ている時、完全にこだわりが消えたとは言えない心情だったからだ。
そういう状態で返事をするのは、宏基に対しても失礼な気がした。向こうは真剣なのだから。
……けれど、これから先、一緒にいられればと願う、彩乃の気持ちも本物だった。
正直に伝えて、それでもいいと言ってくれるなら──というのは、やはり都合が良すぎる考えだろうか。
拒否されてもしかたがない。それに嘘をつくのは絶対に嫌だった。だから、やはり正直に言うしかない。
一週間前、彩乃は今日のチケットを1枚、宏基に送った。『一日延ばして悪いけど、この日にちゃんと返事するから、終演後にメールするまで待っててほしい』と書いた手紙を添えて。早くきちんと伝えるべきではあったが、コンサートが終わるまでは、落ち着いた時間が取れそうにないと考えたからだった。
……別に、チケットを送る必要まではなかったのだが、せっかくだから宏基にも聴いてもらいたいと思ったのだ。
来ているかどうかはわからない。けれど来ているかも知れないと思うと、妙にドキドキする。自分で呼んだのに、呼ばなきゃよかったかも、などと思ってしまうぐらいだった。
「瀬尾さん、そろそろスタンバイの時間だよ」
呼びかけに、物思いから覚めて顔を上げる。先ほどまで控え室にいた数名の部員はおらず、今は彩乃と、声をかけてきた同じアルトパートの3年生だけだった。
「え、もうそんな時間?」
「そうだよ、開演まで15分切ったもの……ね、大丈夫? すごく緊張してるみたいだけど」
「──そんなことないよ」
「そう? なんか顔がこわばってたから。ソロパートあるからいつもより緊張するとは思うけど」
「だから大丈夫だって。大丈夫なようにこれまで練習してきたんだし」
自分を奮い立たせる意味を多分にこめて、極力明るい声で、自信ありげに言ってみる。その点は本当にそう思っているし、彩乃が練習熱心なのも有名だから、不自然には聞こえないはずだ。
予想通り「瀬尾さんらしいね」と相手は笑った。彩乃も笑顔を返した。……そう、今は別のことに気をとられている時ではない。
練習の成果を発揮することが第一で、他は全部、それを済ませてからのことだ。
パイプ椅子から立ち上がり、鏡を見ながら全身をチェックする。サークルであつらえた、揃いのブラウスとロングスカートの衣装にも、化粧にも乱れはない。──準備完了、と心の中で呟く。
彩乃は相手を促して、舞台袖へと向かった。
控え室に戻ると、後輩に「お友達が受付に来てますよ」と言われた。衣装を着替えないままで行ってみると、会場である講堂のロビー、そこに設置された受付カウンター(といっても長机を並べただけだが)のすぐそばに奈央子と柊がおり、立ち話をしていた。奈央子には試験が終わる前にチケットを渡しておいた。2枚と希望があり、その通りに渡したので、誰と来るのかは明白だった。もっとも、連れは合唱にあまり興味はないらしいが。
……まだほんの少し、あの二人を見ると寂しいような辛いような、そんな気分になる。けれど試験中に感じたものよりはマシになっているとも思えた。
意外に早く、平気になれるかも知れない。そうであれば嬉しい。
その時、奈央子がこちらを向いたので、彩乃は思いを頭から振り払った。
「おつかれさま。ソロすごく良かったよー。ね?」
満面の笑みで彩乃を誉めた後、奈央子は同意を求めて隣の柊に声をかけた。話を振られた当人は頭をかきながら、
「……んー、おれはそういうのよくわかんないんだけどさ」
ぼそぼそと、非常に正直な言い方をする。奈央子はその頭を小突いた。
「あのね、こういう時は素直に頷けばいいの。いくら興味ないからって、上手いか下手かくらいわかるでしょ。それとも何、まさか下手だと思ったの?」
「そうじゃないけど」
「なら、素直に誉めなさいよ。彩乃がせっかく頑張ってたんだから」
小声での会話だが、距離が近いので全部聞こえていた。相変わらずの力関係に、彩乃は思わず笑って
しまう。
それに気づいた奈央子が慌てて振り返る。
「ごめん。こいつ気配りが足りなさすぎるよねえ。連れて来なきゃよかったかも」
「いいよ別に。まぁ、そういうヤツだってわかってるし」
言いながら睨んでやると、柊はわざとらしく目をそらした。すかさずその耳を軽く引っぱりながら、奈央子は手に持った洋菓子店の紙袋を差し出した。
「これ差し入れ。サークルの人たちと食べて。多めに買ったから足りると思うんだけど……ねえ、ところで」
再び奈央子は小声になり、顔を近づけてくる。
「宏基くんは来てるの?」
「……わからない。チケットは送ったけど」
舞台の上から見た限りでは、宏基の姿は確認できなかった。最後の曲が終わって幕が下りるまでの間しか客席を見回していないし、暗かった後方や脇の席までははっきり見えなかったのだが。
「……もう、返事する期限だよね。ちゃんと考えてあげた?」
奈央子の気遣わしげな声。2回しか会っていない宏基のことを、親友は妙に心配している。この件に関して(奈央子には説明できないことがあるとはいえ)、曖昧な言い方しかしないせいなのだろうとは思うが。あの日も、どうしようかなと呟いた彩乃に対し、『どうしようかな、じゃないって。あれだけ真剣なんだからちゃんと考えてあげないと』と力説したぐらいだ。
当然、言われるまでもなくわかっていた。
今も細かいことは言えないけれど、真面目に考えたのは確かだったから、奈央子の問いにはきちんと頷く。
その直後、周囲のざわめきが大きくなった。
いち早く講堂の出入口に目を向けた柊が、
「……なんだあれ」
呆然とした声で呟くのを耳にして、彩乃と奈央子もそちらに顔を向け──同じく呆然とする。
やたら大きな花束を抱えた、やけに背の高い人物が早足で出入口を入ってくるところだった。ジーンズと薄手のジャケットという服装からすると学生のようだが、顔は花束に隠れて見えない。
(誰?)という共通意識の視線が集中する中、その人物はロビーを数歩入ったところで、花束の陰からひょいと顔をのぞかせた。途端に、彩乃はその場にひっくり返りそうな心地になる。
「彩姉、いたんだ。ちょうどよかった」
「な──」
なにしてんのよ、と言いたかったが言葉にならない。今ここに現れるとは思っていなかったし、この行動も予想外すぎた。
彩乃の戸惑いをよそに、相手はまるで動じた様子がない。注目されていることはわかっているだろうに、何なのだろうこの落ち着きぶりは。
急に腹立たしくなってきた。
これ、と花束を差し出そうとする宏基の腕をひっつかみ、引きずるようにして出入口から外へ出た。一瞬遅れて奈央子か誰かが呼び止めたように思ったが、それどころではない。
ともかく人目を避けるため、講堂の裏手を目指して足早に進んだ。誰もいないのを確認して、壁際に身を寄せる。ここなら上階にある控え室の窓からも死角になるはずだ。
「あんたなにやってんのよ、いったい」
腹立たしい勢いのまま、詰問口調で言う。
しかし宏基は全くひるまず、
「何って、彩姉がチケットくれたから来たんだよ」
いっそ暢気に見えるほどの落ち着いた様子だ。
「──そうだけど。メールするから待ってろって書いたでしょ。忘れたっての?」
「いや、覚えてるけど……待てなかったから」
「……なにが?」
どきりとしたが、続いた言葉は思いがけないものだった。
「感動したって早く伝えたかったから」
「え?」
思わずぽかんとする。宏基は息継ぎを一度してから、さらに続けて言った。
「俺、歌の技術がどうとかはよくわからないけど。だけど、今日の彩姉の歌はすごくよかった……きれいだったと思う。もっと前から聴きに来てればよかった」
ストレートな誉め言葉に、彩乃は腹立たしさを忘れてしまった。代わりに、ひどく照れくさい気持ちで頭がいっぱいになる。
同時に、他の誰に誉められた時よりも、今が一番嬉しいと思った。
「……ありがとう」
普通に言おうと意識しすぎて、少々無愛想な声になってしまう。だが宏基は気にした様子もなく、彩乃に笑いかけてくる。ますます照れくさくなってきて、彩乃は少し目を伏せた。その状態で花束を指し示し、
「で、それは?」
「駅前で花屋探して買ってきた。あんまり手持ちがなかったから、安い種類まとめ買いした感じなんだけど、とにかく大きいのにしたい気分だったから」
淡々とした宏基の説明に、つまり感動の度合いを表したかったわけなのか、とは思い至った。しかし聞きたいのはもっと根本的なことである。
「そうじゃなくて……あのね、あんたってそんなに心臓に悪いことばっかりするヤツだった? 合格発表の時とかも」
驚かされた恨みを声と視線にこめながら言うと、宏基は意外なほど素直に「ごめん」と返した。
「そういうつもりじゃないんだけど──いや、びっくりするのはわかってるんだけど、気がついたら体が動いてるっていうか」
さらに笑みを深めながら、
「自分でもちょっとびっくりしてる。彩姉相手で、ずいぶん思いきったことできるようになったんだなって。でもそれがなんか嬉しい」
全く悪びれない、堂々とした口調で宏基は言う。
……なんだか、うろたえていた自分の方が子供みたいだ。そんなふうに思わされてしまう。
「できれば、これからはそういうこと控えてほしいんだけど」
「これから?」
口に出してから言葉の含みに気づき、彩乃ははっとする。宏基も同じことを考えたようだった。
わずかな間の沈黙。
「──えっと、それでこれ……受け取ってもらえるかな」
あらためて、宏基が花束を差し出してきた。
注意深くそれに手を伸ばしながら、彩乃はふと思い出す。
「なんか、順番が違うよね」
「え?」
「あたし、まだ合格祝いも入学祝いも言ってなかったもの。……おめでとう、宏基」
花束を渡し返す仕草をした彩乃の手を、ごく自然な動作で宏基が押さえた。にわかに表情をあらためる。
「あのさ、合格祝いよりも言ってほしいことがあるんだけど……今、聞いていい?」
──ついにその時が来た、と思った。
彩乃は覚悟を決め、今の自分の気持ちを正直に口にし始める。話している間、宏基は一度も口を挟まなかった。
「……今は、だいぶマシだとは思うけど、まだ全然気にならないってわけでもなくて。そのうちきっと平気になれるとは思う。でも──そんな中途半端な状態であんたの彼女になりたいっていうのは、失礼だって自分でもわかってる。だけどそれは、奈央子たちのこととは関係ないから。信じてもらえるかどうかわからないけど、あんたに対する気持ちは、ちゃんと考えた上で結論出したことだから」
そこまで言い終えて、彩乃は息をついた。
宏基はまだ何も言わない。再び目を伏せてしまったのでわからないが、じっと見つめられているのは感じる。何と言われてもしかたないと思いつつも、もし怒ったりしたらという不安は消せなかった。
強い横風が、少し離れた位置にある桜の樹から花びらを運んでくる。風の音に重なるように、宏基が何かを言った。「え?」と顔を上げて聞き返す。
「それだけ、待ってればいいってこと?」
宏基の声は震えている。興奮しそうになるのを、懸命に抑えているかのようだった。
「彩姉が、それに関して大丈夫になったら、何も問題ないってことだろ。……俺の彼女になってくれること自体はOKだって。違う?」
彩乃が首を振ると、宏基は先ほどよりももっと、大人びた顔で笑った。
「俺、待つのは得意だから。彩姉に好きだって言えるようになるまで何年も我慢したし──彩姉がそのことを気にしなくなるまでつき合う自信あるよ。もちろんその後も」
それに、と彩乃の顔を覗きこみながら、
「俺のこと、好きになってくれてるって思っていいんだよな? ……従弟としてじゃなくて」
間近な宏基の顔に緊張しながら、彩乃は頷く。
「だったらそれでいいよ。彩姉がそう言ってくれるんなら、多少のことは気にしないから」
多少のこと。
宏基は笑いながら、実にあっさりと言いきった。
本当にそう思っていると伝えてくる表情に、彩乃はひどく嬉しくなった。今日初めて、自然に笑みがこぼれる。
笑った拍子に、花束が重みで腕からずり落ちそうになり、慌てて抱え直す。その時ふっと、突然目の前に影が落ちた──と思った直後、花束ごと宏基に抱きしめられているのに気づく。
うわ、と一瞬動揺したが、背中に感じられる手のあたたかさに、すぐに離れようという気をなくしてしまった。……しばらくはこのままでもいいかな、と彩乃は頭を宏基の肩にもたせかける。
先ほどよりも強い風が吹きぬけ、辺りを揺らす。
散らされた桜の花びらが、降るように二人の周りに舞った。
- 終 -