「そんなの伯父さんが許すはずない。
一人息子で大切な後継者で、慈恩の結婚相手は子供の頃から決まっているのを僕は知っている。
慈恩だって分かってるはず。
馨月亭の事を一番に大切に考えている慈恩が、そんな突拍子もない事ができるはずがない」

慈恩はそっと私の方を見た。
私は息をひそめてしゃがみ込んだ。
もういなくなったと思ってほしい。
でも、慈恩は私がそこにいると分かっている。

「もし、本当に愛する人に出会ったら…
その時は、俺は全てを投げ捨てるよ。
こう見えても、根っこはロマンチストだから」

慈恩は鼻で笑った。
そして、その言葉は噓っぽい空気に包まれる。
その時の乾いた半笑いに、私は少し幻滅した。
私が聞いていると分かっているから、慈恩は素敵な言葉を並べたのかもしれない。
一瞬、慈恩の性格が分からなくなった。
いや、まだ何も分かってない。
私達は何も始まっていない。
唱馬の後ろ姿は苦悩に満ちていた。
絨毯張りの薄暗い廊下に人の気配は全くなく、重たい空気が流れている。