第五章 老いらくさんの麗しい思い出
天気……昨夜、降り始めた雨が今日のお昼までずっと降り続いていて、気温が急に何度も下がった。
昨夜、パント―はぐっすり眠っていた。しかし、ぼくは、なかなか寝つけなくて、何度も寝返りを打っていた。
「お父さん、何か心配事でもあるの」
妻猫が聞いた。
「明日、どんな結果が待ってるのかなあと思って」
気がかりでたまらない胸のうちを、ぼくは妻猫に話した。
(パント―がとても気に入っている、ピアノの先生がパント―を学生にしてくれなかったらどうしよう……)
ぼくはそう思うと、気がかりで、ぐっすり寝てなんかいられなかった。
「音感がなくてもパント―を受け入れてくれるかもしれないじゃない」
妻猫がぼくに望みを持たせようとした。気休めを言ってくれているにすぎないと思ったが、その可能性もまったくないわけではない。半分は望みを抱きながら、ぼくは、とろとろと、まどろんでいた。
「お父さん、早く、起きて」
朝早く、ぼくはパント―に呼び起された。
「ピアノの先生に早く会いに行こうよ」
バント―は気がはやっていた。学生になれる可能性は半分しかないことを、パント―はまだ知らないでいる。
「お父さん、早く、早く」
パント―が、しきりに、せきたてたので、いつもは干し魚三切れを朝食にするのに、今朝は二切れ食べただけで、パント―のあとについて外へ出て行った。
老いらくさんは、もうすでに、うちの前まで来ていて、、ぼくたちを待っていてくれた。こんなに早く、老いらくさんが、うちの前まで来ていたとは、ぼくは思ってもいなかった。でもパントーはさほど、驚いてはいないようだった。バントーはずっと以前から、老いらくさんのことを、何をするか分からない不思議な妖怪だと思っていたからだ。
「老いらくさん、早く行こうよ」
朝のあいさつも、そこそこにパント―は老いらくさんを、せきたてた。
道すがら、パント―の心は、これまでにないほど嬉々としていた。期待で高ぶぶっている気持ちを乗せて、パント―は弾むような足取りで、ずっと、ぼくと老いらくさんの前を歩いていた。
「笑い猫、お前は、どうして、そんなにすぐれない顔をしているんだ」
パント―の気持ちとは裏腹に、ぼくの気持ちがいまひとつ、さえないのを見て、老いらくさんが声をかけた。
「わしが、いい先生を見つけてきて、パント―が喜んでいるというのに、お前はどうしてそんな複雑な顔をしているんだ」
老いらくさんが畳みかけてきた。
「ピアノの先生が、パント―を学生にしてくれるかどうか分からないからです。もし、してくれなかったら、パント―の喜びは、ぬか喜びに終わってしまう」
ぼくはパント―に、ほろにがい思いをさせたくなかった。
「大丈夫だよ。心配無用。そんなことは絶対にありえない」
老いらくさんが太鼓判を押した。
「わしには人を見る目がある。けっして見誤ることはない。わしを信用しなさい」
老いらくさんは胸をそらしながら、そう答えた。
「分かるよ。あの先生がいい人であることは分かるよ。ただ問題なのは、パント―のほうだよ」
ぼくは、もじもじしながら言った。
「パント―に何か問題があるのか」
老いらくさんが聞き返した。
「パント―には、まるっきり音感がないんだ」
ぼくは頭を抱えた。
「なーんだ、そんなことを心配していたのか。だったら無用。このわしに音感があるように見えるか」
老いらくさんが逆に問いかけてきた。
「見えません」
ぼくは正直に、そう答えた。
「だろう。確かにわしにも音感はないよ。でもピアノを弾いたことがあるよ。かなりうまく弾けるよ」
老いらくさんが意外なことを言ったので
「へぇー、弾けるの。信じられない」
ぼくは目を丸くしていた。
「話せば長くなるから、あとで話すことにしよう。今はとにかく学校へ急ごう」
老いらくさんはそう言って、せかせかしていた。
ペット曲芸学校に着くと、リンゴの形をした音楽室へ直行して、そこのドアの前にパント―を待たせてから、ぼくは校長室へ、おずおずと昨日の結果を聞きに
行った。校長室の前まで来たとき、ぼくの心臓はぱくぱくして、頭に血がのぼって、もう少しで、ぶっ倒れそうになった。緊張していたというよりも、よくない結果を伝えられたときの無念さが怖かったからだ。覚悟を決めて中に入っていくと、校長がぼくに気がついて、にっこりしながら
「お前たちをピアノの李先生のところに連れて行こう」
と言ってくれた。
ぼくはうれしくてたまらなくなった。感謝感激の念が、心の中に、ふつふつとわいてきて、胸いっぱいに広がっていった。さすが校長は大の猫好きで、猫研究の専門家だけのことはある。名に恥じない、味なことをしてくれた。ありがとうという気持ちを伝えるために、ぼくは、にこにこ笑った。
「あれっ、お前の子供はどこにいるんだ」
パント―の姿が見えないのを気にして、校長が辺りを、きょろきょろ見まわしていた。
ぼくは音楽室のほうへ走っていった。校長もあとからついてきた。音楽室の前まで走ってくると、そこにパント―はいなかった。てっきり、そこで待っているものとばかり思っていたのに、あてが外れた。
(パント―はどこに行ったのだろう。もしかしたら、ドアのすきまから中に入っていったのではないだろうか)
ぼくはそう思いながら、ドアの前で、校長の到着を待った。
校長は息せき切って、音楽室の前までやってくると、ぼくを連れて、中に入っていった。
やはり、思っていた通り、パント―は中にいた。外から不意に入ってきたパント―を、李先生は追い出さなかったのだ。
(ひょっとしたら気に入ってくれたのかも……)
ぼくは、いいことが起こりそうな気がした。
「その猫が、昨日、わしが話していた猫だよ」
校長が李先生にパント―を紹介していた。
「本当にかわいい子猫ちゃんね」
李先生は、にこにこしながら、そう答えていた。
「この子猫ちゃんは、中に入ってきてからずーっと、私が弾くピアノに静かに耳を傾けていたのよ。よほどピアノが好きみたいだわ」
鈴を転がすような李先生の美しい声が、音楽室に柔らかく響いていた。
それを聞いて、ぼくは、むずむずしていた。
(本当はピアノではなくて、李先生が好きなんですよ、この子は)
と、李先生に教えてあげたいくらいだった。
校長はそのあと、李先生にぼくのことを紹介してくれた。
「こちらの猫は、その子のお父さんだ。不思議な猫だよ。笑ったり、人の話が分かるんだ」
「えっ、うそー」
李先生が、きつねに、つままれたような顔をしていた。
「うそじゃないよ。本当だよ。なあ、お前」
ぼくは、こっくりうなずいた。
「本当に……信じられない……じゃあ、私にちょっと笑ってみせてよ」
李先生はそう言いながら、柳のようにしなやかな手で、ぼくを抱きあげた。ぼくはとても気持ちがよかったので、とびっきりの笑顔を見せた。
「わぁ、すごいわ。本当に笑っている。信じられない……とりこになってしまいそう」
李先生は、うっとりした顔をしながら、ぼくのほおにキスをしてくれた。
「わしもその猫の笑顔に魂を奪われて、ふぬけにさせられている。よわったよ」
校長が相好を崩していた。
「この子猫ちゃんに音感があってもなくても、私はぜひピアノを教えたいわ」
李先生がパント―のことを快く引き受けてくれたので、ぼくはとても嬉しかった。
李先生の授業の邪魔にならないように、ぼくと校長は音楽室から出て行った。
ぼくと老いらくさんは音楽室の外でパント―の授業が終わるのを待っていた。
(あっ、そうだ。あの話を聞かなくっちゃ)
ぼくは今朝の話を思い出した。
「老いらくさんは、ピアノをいつ習ったのですか」
ぼくは興味深く思っていた。
「習ったとは言ってないだろ。弾いたことがあると言っただろ」
老いらくさんが仏頂面をしていた。
「細かいことはどうでもいいから、いつ、どこで、どうやって弾いたのか、教えてください」
ぼくは興味がますますわいてきて、やまなかった。
「あれはもうずいぶん昔のことになるなぁ……」
老いらくさんが懐かしそうに思い出を語り始めた。
「わしがまだ若かったころ、頭の中には、よこしまな考えがいっぱいあった。腹の中には、悪だくみが、どろのように、たまってたいた。どれくらい悪事を働いたか分からないくらいだ」
その話は聞き飽きていたので、-ぼくは渋りながら話の腰を折った。
「そんなこと、どうでもいいから、くどくど言わないで、はやくピアノの話をしてくださいよ」
「そんなにせかさないでくれよ。順を追って話しているんだから」
ピアノにまつわる麗しい思い出を老いらくさんは整理しているようだった。
「あれは冬の日のことだった。正月が間近のある日、わしは人の家にこっそり忍び込んでソーセージを食っていた。たらふく食ったあと、うつらうつら舟をこいでいた。するとそのとき、どこからか子猫が一匹やってきた。わしはびっくりして、あわてて逃げようとした。ところが子猫はわしをつかまえようとはしないで、珍しそうに見ているだけだった。生まれてからまもない子猫だったから、ネズミを見つけたら、つかまえて食うということを知らなかったのだろうと思った。そこでわしは突拍子もないことを思いついた。この子猫と友だちになって遊びたいと思ったんじゃ」
老いらくさんの目が輝いていた。老いらくさんが、ぼくと友だちになる前に、ほかの猫とむつまじくしていたとは思ってもいなかった。
「わしと子猫が客間に行くと、ピアノがあった。興味をそそられて、わしはピアノの鍵盤に跳びのった。白鍵の上でぴょんぴょん跳んでいるときは、心も体も浮き浮きするような楽しい音が出た。黒鍵の上でぴょんぴょん跳んでいるときは、深くて重みのある音が出た。体を横にして鍵盤の上を転がると、転がり方によって違った音が出た。ゆっくり転がっているときには、穏やかな音が出て、心が癒されるように感じた。速く転がっているときには、激しい音が出て嵐に打たれているように感じた。音の変化を、わしも子猫も我を忘れるほど夢中になって聞いていた……」
老いらくさんは美しい思い出に酔いしれていた。
「そのあと、どうなったの」
続きを早く知りたくなって、ぼくは身を乗り出すようにして聞いた。
「そのあと、わしは毎日、子猫の家に行った。でももうソーセージを盗み食いすることはしなかった。ただひたすら子猫にピアノを聞かせるためにだけ行っていた。子猫は家から出たことがなかったから、外の世界はまるっきり知らないでいた。外の世界を教えてあげたかったが、わしが話す言葉を子猫は分からなかったから、どうしようもなかった。そこでわしはピアノの音で外の世界を伝えることを、ふっと思いついた。音楽は世界共通の言葉だから、聞いたら、だれにでも分かるからだ。ピアノの低音部は荘厳な音が出るから、暗い夜が明けて、東の空から太陽が昇ってくるのを表現するのにぴったりだ。わしは低音部を使って、その情景を子猫に伝えた。ピアノの高音部は軽やかな音が出るから、小鳥のさえずりを表現するのにぴったりだ。わしは高音部を使って、その情景を子猫に伝えた。両手と両足を広げながら、鍵盤の端から端へ向かってゆっくり歩いていくと、日が暮れて、かぐわしい花の香りが夕風に乗って漂ってきたり、水のように澄みわたった月の光が、こうこうと輝いている情景が子猫に伝わっていった。鍵盤の上を転がっていくと、小川の水がさらさら流れていって、川の上に星がまたたいている情景が子猫に伝わっていった」
老いらくさんはピアノで子猫に伝えた情景を詳しく話してくれた。
「何てロマンチックな話なんでしょう」
美しい話に、ぼくはすっかり酔いしれていた。
「だが夢のような楽しいひとときは、長くは続かなかった。わしが子猫の飼い主に見つかってしまったからだ」
老いらくさんは、ため息をついた。
「それ以来、あの子猫に会ったことがない……」
老いらくさんの切ない思いが伝わってきた。
第六章 宇宙からきた子
天気……春雨がしとしとと絶え間なく降り続いている。雨水はまるで不思議な染料のように草を青緑色に染め、花を色とりどりに美しく染めていく。
校長に音感がないと決めつけられたパント―は、李先生の懇切丁寧な指導のもとで、日ごとに音感がよくなっていった。著しい進歩に周囲の先生たちが目を見張っていた。校長でさえ、それまでの見方を変えるようになっていた。校長は時間があるときにはよく、パント―の授業を見学に来るようになった。見学するたびに、パントーに対する校長の評価はうなぎ登りにあがっていって、パント―の音感にうなるように感じ入っていた。
「まさか、ここまでよくなるとは思ってもいなかったよ」
校長は苦笑いしながら李先生に話しかけていた。
「音感ゼロの猫がこれほど見事なキータッチを習得できるようになるとは想像だにできなかったよ。リズム感もとてもいい。研究に役立つ貴重なことを発見した……」
校長の表情は夢うつつの境をさまよっているように見えた。
李先生はにこにこ笑いながら校長を見ていた。ぼくも、くつくつ笑いながら校長を見ていた。
「この子猫には音感は元々なかったが、優れたところが一つだけあった。それは、ひたむきさだ」
遠くを見つめるような目で、校長がそう言った。
パント―は何をするときも、ひたむきなことは、ぼくは、とっくに気がついていたから、校長の言葉も、ぼくには、それほど新鮮には響かなかった。パント―のひたむきさが、いつかは花を咲かせることがあるかもしれないと、ぼくはこれまでずっと思っていた。
「このことは何を意味するだろうか」
校長は興奮冷めやらぬ表情で話を続けた。
「人であれ、猫であれ、何かを成し遂げようと思ったら、ひたむきさが大切だということだよ」
校長は恍惚とした表情で熱弁を振るっていた。
李先生の学生の中で、パント―は、もしかしたら音楽の才能がいちばん劣っていて、ピアノを習得するための先天的な素質がいちばんなかったかもしれない。しかしパントーは、ほかのどの猫よりも、ひたむきに学ぶことが好きだったから、上達するのがいちばん早かったのだ。ぼくはそう思った。
リンゴの形をした音楽室の外にある芝生に寝そべって、パント―が弾くピアノの音に耳を傾けながら、まどろんでいるひとときが、今のぼくにとって、一日のうちでいちばん満たされる時間だ。
「笑い猫、お前は今、うっとりとして喜びに浸っているんだろう」
老いらくさんが、ぼくの心の中を読んで話しかけてきた。
「お前は本当に素晴らしい父親だよ。サンパオもアーヤーもパント―も、みんな将来性があって前途有望じゃないか。わしはそのことを認めないわけにはいかない。本当にすごいよ」
老いらくさんが、べたほめしてくれた。ぼくはそれを聞いて顔から火の出るような恥ずかしい思いをした。
「そんなにほめないでくださいよ」
ぼくの顔は赤くなっていた。
「ぼくには、ただ子供たちの適性を見る目があっただけですよ。子供たちに備わっていた潜在的な能力や長所に気がついたので、そこを見ただけですよ。子供たちの希望や興味を尊重して、それに添うように導いただけです。そのことがいちばん大切だと思ったからです」
ぼくは謙虚に、そう答えた。
「適性を見る目があること自体、お前は本当にたいしたもんだよ」
老いらくさんがまた持ち上げてくれた。
「自分たちにどのような潜在的な能力があるかないかは、自分ではなかなか分からないことも多いし、周囲から指摘されてやっと分かることも多い。サンパオとアーヤーとパント―の潜在的な能力は、父親のお前がうまく発見して引き出したから、みんな将来性がある有能な子猫になったんだよ」
老いらくさんが、とことん、おだててくれた。
パント―の場合は、持って生まれた先天的な能力が、アーヤーやサンパオの場合と違って、ひどく劣っていたが、それでも、ひたむきに努力したから、極めて短期間のうちに、一定のレベルまで持って来ることができたので、ぼくにとっては、格別な思いとなった。
「パント―のためにコンサートを開きたいと思っています」
ぼくは老いらくさんに提案した。
「それはいい考えだ。パント―の優れた才能は広く知ってもらうだけの価値がある。どこでコンサートを開くつもりか」
老いらくさんが聞いた。
「もちろん翠湖公園です。パント―を知っている友だちをみんな招待して、パント―の音楽的な才能をみんなに見てもらいます」
ぼくは晴れ晴れしい顔をして、老いらくさんに、そう答えた。すると老いらくさんが、くすくす笑った。
「お前の親心には思わず、ほろっとくるよ」
老いらくさんは、そう言ってから、
「でも笑い猫、パント―が学んだのはピアノだろ。お前はピアノをどこから持ってくるんだ」
と聞いた。
「あっ、そうか。それは確かに大きな問題だ。どうして、そのことに思いが至らなかったのだろう」
膨らみかけていたぼくの胸が、急に縮こまっていくように感じた。
このとき、パント―がこの日の授業を終えて、音楽室から出てきた。口には干し魚を二切れ、くわえていた。李先生が、ほうびとしてくれたものだ。パント―は授業を受けるたびに上手になっていくので、毎日、ほうびをもらっている。
パント―はいつもと同じように、一切れ、ぼくにくれた。それから晴れやかな顔をしながら、うちへ走って帰っていった。
ぼくは干し魚を半分にして、老いらくさんにも、分けてあげた。
「笑い猫、お前は今、もどかしい思いをしているのではないのか」
老いらくさんが、ぼくの気持ちに思いをはせていた。
「どうして、そう思うのですか」
ぼくは聞き返した。
「学んだことを実際に役立たせるためには、どうしたらいいかという、その問題で頭を痛めているんじゃないかと思ったんだ」
さすがに老いらくさん。ぼくの心の中が、ずばっと読まれていた。
「パント―はピアノを学んだが、お前たちの家にはピアノがない。そのために学んでも意味がなかったと思っているのではないのか」
気に障るようなことを老いらくさんが言った。
「パント―にピアノを学ばせたことを後悔しているんじゃないのか」
老いらくさんが、口撃を続けた。
「後悔なんか、全然していないよ」
ぼくは、ぶぜんとして言葉を返した。
「ピアノを学ぶことは、パント―が自分で決めたことだし、パント―の気持ちを、ぼくは尊重していたからね。ピアノの練習を通して、楽しさと自信を見出してくれたから、それを何よりも嬉しく思っているよ」
虚心坦懐な胸のうちを、ぼくは淡々と話した。
「ではこれからも学ばせ続けるつもりなんだな」
老いらくさんが確かめるように聞いた。
「もちろんですよ」
ぼくは揺るぎない声でそう答えた。
「パント―は妻猫が生んだ子供ですよ。妻猫が自分の子供に中途半端でやめることを許すわけがないでしょ」
ぼくは、きりっとした口調で言った。
ぼくがどうしてこんなことを言っているのか、老いらくさんなら、きっと分かるはずだ。妻猫が成し遂げた華々しいことを見て知っているからだ。翠湖公園を、たむろしていた、すべての猫が、天をつくばかりにそびえている白い塔のてっぺんに登りたいと思っていた。しかし、妻猫以外には、だれも登ることができなかった。妻猫には、ほかの猫にはない強い信念と、ひたむきな習得心あったので、訓練を途中でやめないで黙々と続けていった。そして、ついに高度な技を習得して、高い塔のてっぺんに登ることができた。ぼくは妻猫を誇らしく思っている。
ぼくと老いらくさんが、パントーが学んでいるペット曲芸学校から翠湖公園に帰ってきたときは、もう午後になっていた。小雨がまた、しとしとと降り始めていた。
パント―は、うちにはいなかった。
(この雨の中を、どこへ行ったのだろう)
ぼくはうちを出て、湖畔に沿って、ぐるっと、ひと回りして探しに行った。湖畔にはいなかった。湖畔の外に広がっているイチョウ林の中に探しに行くと、ようやく、パント―の姿を見つけることができた。
イチョウ林の中は、春の息吹が、みなぎっていて、生き生きとした生命力にあふれていた。みずみずしい若葉が枝から新しく出ていて、きれいな模様を施した小さな扇のような形をしていた。若葉は春雨にしとしとと濡れながら、かすかに揺れ動いていた。
イチョウ林の中には、かさを差した二十歳ぐらいの女の人が一人と、三歳か四歳ぐらいの男の子が一人いた。男の子は女の人から少し離れたところにいて、かさは差してなかった。パント―は男の子のそばにいて、瞳を凝らしながら、男の子の動きをじっと見ていた。
男の子は、おでこが大きくて、まつ毛は長く、目はぱっちりしていて、かわいい子だった。でも視線は定まらないで、どこを見ているのか分からないような感じだった。夢と、うつつのはざまを、ふらふらと、さまよっているようにさえ思えた。男の子は両手を上に挙げて、イチョウの木の周りを、くるくると何度も回っていた。髪の毛も服も、雨に、ぐっしょり濡れていた。しかし少しも気にする様子はないように見えた。男の子の様子を、女の人は、じっと見ていた。女の人は、まだ若かったので、その子のお母さんというよりは、ベビーシッターのお姉さんのように見えた。
「雨が降っているから、早く、うちへ帰ろうよ」
ベビーシッターのお姉さんは男の子に、何度も呼びかけていた。しかしベビーシッターの声は、男の子の耳には少しも聞こえていないようだった。男の子はまったく反応しないで、両手を挙げたまま、イチョウの木の周りを、くるくる回っているだけだった。男の子の目には、ベビーシッターの姿は空気と同じように見えていたようだ。
ベビーシッターは途方に暮れていた。
「あの子、人間、それともロボット」
パント―が、不思議そうな顔をして、ぼくに聞いた。
「人間だよ、もちろん」
ぼくは苦笑した。
「じゃあ、どうして、普通の子と違っているように見えるの」
パント―が首をかしげていた。
ぼくにもよく分からない。確かに、あの子は、普通の子とは、どこか違っている。地球人の子供には思えない。
(もしかしたら宇宙人の子供ではないだろうか)
ぼくは、真面目にそう思った。
第七章 パント―の卒業演奏
天気……春分の日が過ぎて、雨がますます降るようになってきた。春の雨には、栄養分がたくさん含まれていて、万物をうるおし、すくすくと成長させる源となる。数日前、青桐の葉は猫の足ぐらいの大きさだったが、今はもう人の掌ぐらいの大きさになっている。
パント―は今日、ペット曲芸学校を卒業することになった。李先生が卒業演奏を企画したので、ピアノを習っている猫たちの飼い主が見に来ることになっている。パント―には飼い主はいないので、ぼくと妻猫が飼い主の代わりに見に行くことにしていた。
「笑い猫、わしも見に行きたい」
老いらくさんが言った。
「だめだよ。だめ、だめ」
ぼくは強くはねつけた。
「どうしてだめなんだよ。パント―をペット曲芸学校にやってはどうかと勧めたのは、このわしなんだぞ。もしわしが勧めなかったら、パント―の今日の日があると思うか。忘れるなよ」
老いらくさんが不機嫌そうに、かりかりしていた。
「忘れていませんよ。でも今日の演奏会を妻猫も見に行くんです。妻猫はきっと老いらくさんに、ネズミのにおいをかぎ出すので、それを心配しているんです」
ぼくは老いらくさんに、来てもらいたくない事情を話した。
「においを消すために、いつもより多く消臭液を塗っていくよ」
老いらくさんは未練がましく、そう言った。
「それでもやはり用心するに越したことはないよ。もし妻猫に気づかれたら、せっかくこれまで、長年、培ってきたぼくと老いらくさんの友情が、たちまち終わってしまう」
ぼくは、熱心に説得に当たった。
「分かったよ。わしもお前との友情を、これからもずっと続けていきたい。行ったらいけないのなら、行かないことにするよ」
老いらくさんが、しぶしぶ、聞き入れてくれた。
老いらくさんは、それからまもなく帰っていった。
妻猫はパント―の演奏をまだ一度も聞いたことがない。そのために、ぼくよりもずっと今日の演奏会を楽しみにしている。
ペット曲芸学校に着いて、リンゴの形をした音楽室に、ぼくと妻猫とパントーが入ったとき、まだ誰も来ていなかった。
今日の卒業演奏会に出演する猫は全部で五匹。パント―以外の猫の飼い主たちが、それからまもなく続々とやってきた。みんな自分の猫を大事そうに抱えていた。パント―を抱える人はいなかったので
「この猫はどこの猫かな。それとも野良猫」
と、ほかの猫の飼い主たちが、口々に話していた。
ぽくと妻猫は、ほかの猫の飼い主たちの後ろに隠れるようにして見ていた。飼い主たちが自分の家の猫を抱いたまま、パント―と比べていて
「うちの猫がずっときれいだわ」
と、自慢げに話しているのが聞こえた。
妻猫には人の言葉が分からないので、話の内容が理解できなくて、よかった。そうでなかったら、ひどく傷ついていたに違いない。
校長と李先生が音楽室にやってくると、それからまもなく演奏会が始まった。パント―の出番は一番最後だった。李先生がパント―を抱いて鍵盤の上に載せたとき、飼い主たちの間で笑いが起きた。ほほえましい笑いではなくて、せせら笑いであることが、ぼくには分かった。
「みなさん、この猫をばかにするのはおやめください」
校長がいすから立ち上がって、注意をうながした。
「わしも初めてこの猫を見たときは、のろまで、どうしようもない猫だと思った。音感もまったくない猫だったから、この猫にピアノが弾けるわけがないと思った。ところが何と、この猫に信じられないような奇跡が起きたんだ」
校長が晴れやかな顔で、パント―を紹介していた。
校長の話を聞いても、ほかの猫の飼い主たちは、何のことだかよく分からないで、気に留める様子は微塵もなくて、あいかわらず、げらげら笑っていた。
(飼い主たちの心ない嘲笑がパント―の気持ちを動揺させるのではないだろか)
ぼくはそう思って、とても心配していた。しかし杞憂にすぎなかった。パントーは思っていた以上に、とても落ち着いていた。観客席からの野次や冷ややかな視線を少しも気にしないで、ピアノの鍵盤と李先生の指揮棒にだけ注意を払っていた。
李先生の指揮棒がリズミカルに振られていたときには、パント―は蝶のように軽やかに鍵盤の上を行ったり来たりしていた。ピアノからはそのとき様々な大きさの真珠の玉が、ころころと転がっていくような音が出ていた。李先生の指揮棒が力強く、ぐいぐいと振られているときには、パント―は鍵盤の上を小刻みに跳びはねて、魂に訴えるような激しい音を出していた。李先生が緩やかに指揮棒を振っているときには、パント―は鍵盤の上に横になって、太っている体を、まりのように転がしていた。するとそのときは何かを切々と訴えているような妖艶な旋律が流れていた。
「あー、なんて素敵な音楽なんでしょう。パント―が演奏しているなんて、信じられないわ。美しすぎる」
妻猫は、感動のあまり、声を出していた。
「しー、しー」
ぼくは慌てて、妻猫の口をふさいだ。
さっきまでパント―のことを、ばかにしていた人たちも、今はみんな、魅入られたように、しーんとなって、スマートフォンを取り出して、先を争うようにして、パント―の写真を撮っていた。
それからまもなくパントーの卒業演奏が終わり、ぼくと妻猫とパントーは意気揚々として、学校を後にした。
「あー、何て幸せなんでしょう」
妻猫の顔には喜びがあふれていた。
「お父さん」
「何」
「私がこれまで成し遂げた中で、一番誇らしく思っていることは何だか分かりますか」
妻猫がきいた。
「もちろん、あの高い塔のてっぺんに、母さんだけが立つことができたことだろう」
ぼくは自信をもって、そう答えた。
「ぶー、はずれでーす」
妻猫が、茶目っ気たっぷりに、くつくつしていた。
「私が成し遂げた一番の誇りは、三匹の有能な子猫を育てたことですよ」
妻猫の顔が、咲きたてのバラの花のように輝いていた。
確かに、パント―も、アーヤーも、サンパオも、妻猫の優秀な遺伝子をみんな受け継いでいる。パント―は、ひたむきさと真面目さを受け継いだ。アーヤーは美しさと品格を受け継いだ。サンパオは知性を受け継いだ。もちろん、ぼくから子供たちが受け継いだものも、何かあるだろうけど、それは何かなあ……
そんな話に花を咲かせているうちに、ぼくと妻猫とパントーは翠湖公園に帰ってきた。
ところが、またたくまにパント―の姿が見えなくなった。でもどこへ行ったのか、ぼくは知っている。ここ数日、パント―はペット曲芸学校から帰ってくると、いつもイチョウ林へ行っていたからだ。
ぼくはイチョウ林のほうへかけていった。あの、不思議なことをする男の子を探さなければならない。
(あっ、いた)
数日前と同じように、男の子は両手を上に挙げながら、イチョウの木の周りを、くるくる回っていた。男の子の近くにパント―がいて、瞳をじっと凝らしながら男の子を見ていた。
「お前は、いつもここに来て、男の子を見ているが、何がそんなに面白いんだ」
ぼくはパント―に聞いた。
「この子はどうしていつも手を挙げて歩いているのなあと思って」
パント―は目を男の子にくぎ付けにしたまま、そう答えた。
「この子が生まれた星では、みんな、そうやって歩いているのかもしれないよ」
口から出まかせに、ぼくはそう答えた。
「ニャーン、ニャン、ニャーン」
パントーが不意に大きな声で鳴いた。ぼくはびっくりして、はじかれたように跳び上がった。
「何なのだ。いきなり、そんな声を出して。びっくりするじゃないか」
ぼくはパントーを、きつい目で見た。
「ごめんなさい。びっくりさせようと思ったのは、お父さんではなくて、あの男の子のほう」
パントーがそう答えた。
ところが、男の子は何事もなかったかのように、イチョウの木の周りを、くるくる回り続けていた。
「どうしてこの男の子は少しも反応しなかったの」
パント―が不思議そうな顔をしていた。
「この子が生まれた星には音がないので、音が聞こえないのかもしれないよ」
ぼくは想像力をフルに発揮して、そう答えるしかなかった。
「ケンカのふりをしてみようか、びっくりするかどうか……」
パント―が興に乗っていた。ぼくは応じることにした。
ぼくとパント―は、向かい合って、恐ろしい形相をしてにらみあった。歯をむき出して爪を立てて、口からは
「ウー、ガオー、ウー、ウー」
と、ライオンがほえるような鋭い声を出した。地面が揺れるほど迫力満点の演技だった。ところが男の子には全然聞こえないのか、少しも見えないのか、ぼくとパントーの殺気だったケンカの演技には少しも目もくれないで、相変わらず両手を挙げたまま、イチョウの木の周りを、くるくる回っていた。
(この子が生まれた星では、みんな、こうなんだろうか)
ぼくとパント―が熱演したのに、空振りだったことを知って、ぼくは思わず
「あははー」
と、高笑いするしかなかった。
ちょうど、そのとき、男の子がぼくの前を通りかかってきて足を止めた。目は、そのとき、きょろきょろしていなくて、ぼくの顔をじっと見ていた。
(耳が聞こえないわけでも、目が見えないわけでもなかったんだ)
ぼくはそう思った。ぼくが微笑むと、男の子は無表情ながらも何か感じているよな目をしていた。
「この子、お父さんを見ているよ」
パント―が気がついて、そう言った。
「お父さん、もっと笑って。激しく笑って」
パント―にせき立てられて、ぼくはその気になった。ぼくが習得している笑い方の技術のすべてを出した。、がははっと笑ったり、くくくっと笑ったり、ひひひっと笑ったり、ふふふっと笑ったりした。すると男の子は不思議そうな顔をして、
ぼくの笑いをじっと見ていた。能面のような男の子の表情にそのあと変化が生じて、ぼくに、くすくすと笑いかけてきた。
第八章 イチョウ林の中の不思議な子
天気……春らしい陽気が、周囲にみなぎっている。暖かい風が吹いて、翠湖には、さざ波が幾重にも立ち並び、魚のうろこのように、きらきらと輝いている。
パント―は、けさ早く、夜が明けたばかりのころ、もう、うちを出て行った。
「パント―はどこへ行ったの」
妻猫が、けげんそうな顔をしていた。
「イチョウ林だよ」
ぼくは、そっけなく答えた。
「そこへ何をしに行ったの。イチョウ林の中にピアノがあるの」
妻猫がおかしなことを言ったので、ぼくは思わず、噴き出さずにはいられなかった。
「イチョウ林の中にピアノがあるわけないだろう」
「そうだよね」
妻猫が、ばつが悪そうな顔をしていた。
「パント―は学校でピアノを習ったけど、今はもう卒業して、うちにいるので、ピアノが弾けない。パント―が学んだことは何の意味もなかったのでしょうか」
妻猫が、むなしそうな顔をしながら、ため息をついた。
「そんなことはないよ。けっして無駄だったわけじゃないさ」
ぼくは強く否定した。
「どうして」
妻猫が聞き返した。
「どんな経験でも貴重な財産になるからだよ」
ぼくの答に、妻猫がうなずいた。
「パント―が持って生まれた音楽的な才能はゼロに等しかったが、ピアノを学んだときに、信じられないような奇跡が起きて、みんなに感動を与えた。パント―の自信にもなった。『志ある者は成功する』という格言を、パント―が証明したようなものだ。ひたむきさと真面目さがあったから、パント―は多くのテクニックを身につけて、あれほどの演奏ができるようになったのだ」
ぼくは熱心に語った。
「パント―はどうしてイチョウ林に行かなければならないの」
妻猫がまた聞いた。
「そこには不思議な男の子がいるからだ。パント―はその子にひきつけられている」
ぼくは理由を説明した。
「不思議な男の子ですか」
妻猫が首をかしげていた。
「そう、とても不思議な男の子。まるで宇宙からきた子のように不思議な子だ」
ぼくはそう答えた。
「宇宙からきた子ですか。宇宙ってどこにあるの」
妻猫が、きょとんとしていた。
宇宙について説明するためには、まず地球のことから説明しなければならない。以前、ぼくは杜真子の家に住んでいたので、そのころテレビを見ながら、天文学に関する知識を身につけていた。ぼくはそのことを思い出していた。
「ぼくたちが住んでいるところを地球というんだ。太陽や月は地球ではない。地球でないものは、ほかにも、たくさんある。夜空を見上げたら、無数の星が輝いているだろう。あの星が宇宙だ」
ぼくの説明を、妻猫は熱心に聞いていた。
「イチョウ林の中にいる男の子は、地球人の子とはあまりにも違っている。だからぼくは、あの子は宇宙からきた子ではないかと思っているんだ」
ぼくの話を聞いて、妻猫は、その子に強い興味を感じているようだった。
「私もイチョウ林に行って、その子を見てみたいわ」
妻猫が好奇心を、むらむらさせていた。
「じゃあ、これからいっしょに行こうよ」
ぼくは妻猫を誘って、それからまもなく、イチョウ林へ出かけて行った。
イチョウ林に着いたとき、男の子の子の姿はまだ見えなかった。パント―だけが、イチョウの木の下に、きちんと行儀よく座っているのが見えた。
「お前、ここで何をしているんだ」
ぼくと妻猫は、パント―のそばに走り寄って、聞いた。
「あの子が、このイチョウの木の周りを毎日、くるくる回るので、ここであの子を待っているの」
パント―が、いそいそしていた。
見たところ、イチョウ林のなかには千本以上のイチョウの木がある。どの木も、ほとんど同じように見えた。
(パント―はどうやって、あの子が毎日、回っている木は、この木だと分かるのだろうか)
ぼくはそう思った。
「お父さん、ほら、見て。ぼくは目印をつけたんだよ」
パント―が、ぼくの心の中を見通していた。
パント―は鼻で匂いを、くんくんかいでから、干し魚の匂いをかぎだして、木の下から掘り出した。そしてまた埋め戻していた。
昨日、その子が回った木の下に、パントーは干し魚を、こっそり埋めて目印にしていたのだ。
「私たち、少し離れたところから、こっそり見ていましょうよ」
妻猫が、ぼくにうながした。
「どうしてだ」
ぼくは、けげんに思って、聞き返した。
「私たちがここにいたら、その子の気が立つかもしれないから」
妻猫がその子の気持ちに思いをはせていた。
「分かったよ、じゃあ、そうしよう」
ぼくと妻猫は、パントーが干し魚を埋めたイチョウの木から少し離れたところにある別のイチョウの木の後ろに隠れて、その子がやってくるのを静かに待っていた。パントーもついてきた。
午後の二時を少し回ったころ、男の子が、イチョウ林に姿を現した。すぐ後ろには、あのベビーシッターもついてきていた。
男の子の目はぱっちりしていた。しかし視線はきょろきょろして定まらずに、ぼんやりしているように見えた。でも方向感覚はしっかりしているようだ。男の子はイチョウ林の中を左に一回、右に一回曲がると、特定のイチョウの木のところに、やってきて、両手を挙げて、くるくる回り始めた。
「あの木は昨日の木と同じかどうか確かめにいってくるよ」
パント―がそう言った。すると妻猫が慌てて制止した。
「行かないほうがいいよ。ここでじっとしていましょうよ。びっくりさせるかもしれないから」
妻猫は男の子の気持ちに思いをはせていた。
「いや、そんなことはないよ。あの子には周りのあらゆるものが、ないのと同じだよ。そうでなかったら、宇宙からきた子なんて、、ぼくは呼ばないよ」
ぼくは妻猫に異を立てた。
ぼくと妻猫とパントーはそれからまもなく、男の子のほうに走っていった。やはり、ぼくが思っていた通り、男の子は、ぼくたちを空気にしていた。見えていなかったのだ。
男の子が回っていた木の下を、ごそごそと掘っていたパント―は、目印としていた干し魚を見つけだして、口にくわえていた。
(あー、やっぱり昨日と同じ木だった)
驚きのあまり、ぼくは、思わず、おしっこを、ちびりそうになった。
「信じられないわ。イチョウの木は、こんなにたくさんあって、どれもほとんど同じように見えるのに、どうやって見分けたのでしょう」
妻猫も「驚き、桃の木、山椒の木」いえ、「驚き、桃の木、イチョウの木」といった顔をしていた。
(もしかしたら……)
ぼくはまたここで、得意の想像力を発揮した。
(宇宙からきたとき、この子はこの木の近くに下りたのではないか)
ぼくはそう思った。
それからまもなく、イチョウ林の中に、次々と、ほかのベビーシッターが子どもを連れて入ってきた。子どもはみんなわんぱく坊主ばかりだった。不思議なことをしている男の子にボールをぶつけたり、足をかけて倒す子もいた。それでも男の子は少しもひるまずに、相変わらず手を挙げて、木の周りをくるくる回っていた。
妻猫は、男の子のそんな様子を見て
「本当にこの子は宇宙人の子ですね。お父さんの言ったことを、信じるわ」
と言った。
男の子の不思議な姿は、ぼくの心に次から次へと疑問を生じさせた。
(どうやって地球にきたのだろうか。お父さんやお母さんはいるのだろうか。どうして宇宙からきた子にベビーシッターがいるのだろうか)
疑問を解き明かしたいという気持ちが、僕の胸に、ぐぐぐっと高まってきて、じっとしていられなくなった。
べビーシッター同士は仲良く集まって、おしゃべりに興じていた。宇宙からきた子をじっと見ながら話していたので、その子のことを話題にしているのが分かった。ぼくには人の話が分かるので、何を話しているのか知りたくてたまらなくなった。ベビーシッターの近くに行って、耳をそばだてると、話の内容が聞こえてきた。
「えっ、三時間も回っているの。はやくやめさせなさいよ」
ベビーシッターの一人が、宇宙人の子のベビーシッターに注意をうながしていた。
「やめさせることができないのよ。私の言うことが聞こえないから」
宇宙人の子のベビーシッターが困りはてたような顔をしていた。腕時計にちらっと目をやってから
「今、五時だから、あと三十分したら、あの子は回るのをやめるわ。それまで待つしかないわ。毎日、そうなのよ」
宇宙人の子のべビーシッターは、難儀しているようだった。
「いったい、どういう神経をしているのでしょうね」
「まったくねえ」。
「時間が来たら、回るのを、ぴたっとやめるの」
「時計は持っていないのでしょ。どうして時間が分かるのかしら」
ベビーシッターは、みんな半信半疑の顔をしていた。
五時半が近づいたころ、ベビーシッターは、それぞれ自分の腕時計に目をやっていた。
(あと三分……あと二分……あと一分……時間だ。五時半になった)
ベビーシッターは、みんな顔をあげて、宇宙からきた子を見た。すると男の子は回るのをやめて、体の向きをくるっと変えてから、イチョウ林の中から出ていこうとしていた。
「うちへ帰っていくわ」
男の子のべビーシッターが、ほかのべビーシッターに説明していた。
「うちへ帰っていく道順はいつも同じ。変えることはないわ」
男の子の子のベビーシッターの話に、ほかのベビーシッターは耳を傾けていた。
男の子が、そそくそとイチョウ林から出て行ったので、ベビーシッターは、あわててあとを追いかけていった。
男の子は道を歩く様子も普通の男の子とは変わっていた。何かに触るようにして歩いていたからだ。琉璃長廊と呼ばれている遊歩道まで歩いてきたとき、年配の男の人が数人、ベンチに座って楽器を演奏していた。バイオリンや胡弓やリコーダーやシンバルやアコーディオンの音がにぎやかに鳴り響いていた。京劇の一節を、ろうろうと歌っている人もいた。しかし男の子は音や声には、まったく関心を示さないで、手で男の人の体を触りながら、ゆるゆると通り過ぎていった。男の人は、びっくりして、目を丸くしながら、男の子を見ていた。
「すみません、すみません」
男の子のべビーシッターが、申し訳なさそうに、しきりに謝っていた。
ベビーシッターは男の子を抱き上げて、足早に琉璃長廊を出ていった。
すると男の子が甲高い声でわめきだした。声は、辺りを、つんざかんばかりに激しかったので、ベビーシッターは男の子を下におろすよりほかなかった。
男の子は向きをくるっと変えると、琉璃長廊に戻っていった。ベビーシッターはそれを見て、あとを追いかけていって、男の人に、また申し訳なさそうに、ぺこぺこと謝っていた。そのあとベビーシッターは、男の人に、つぶやくような声で何か話していた。男の人は、うなずいていた。そして、いたたまれなさそうな目で男の子を見ながら、一人、また一人と、琉璃長廊を出て行った。
男の子は椅子や柱に触ってから、琉璃長廊を出て行った。男の子の前方にアーチ橋が見えてきた。アーチ橋を渡れば公園から外に早く出ることができる。しかし男の子は橋を渡らずに、引き返して、いつもの道順にそって公園から出て行った。
第九章 パント―の願い
天気……今日は清明節。春も本番になり、気温がかなり上がってきた。町のあちこちで先祖を偲んで、柳の枝で編んだ帽子をかぶっている人を多く見かける。
午前中、雨が降っていたので、ぼくと妻猫とパント―は外に出なかった。
「お父さん、ぼくが今いちぱん願っていることは何だか分かる」
パント―が、ふいに聞いた。
「ピアノをまた弾きたいということだろう。せっかく、お前がピアノを学んだのに、うちにはピアノがないからね」
ぼくは申し訳なさそうに答えた。
「違う、違う」
パント―が首を横に振った。
「ぼくが今いちばん願っていることはピアノをまた弾きたいことじゃないよ」
パント―がはっきりそう言った。
(あれっ、違うのか)
ぼくは意外に思った。
「じゃあ、お前がいちばん願っているものは何なのだ」
ぼくは、ふに落ちなかったので、聞き返した。
「お父さん、当ててよ」
パント―がもったいぶった言い方をした。
ぼくは、しばらく考えた。でも思い浮かばなかった。
「お前の願いが実現するよう、父さんにできることなら何でも手伝ってあげるよ」
ぼくはそう答えた。
「お父さんにできることだよ。お父さんにしかできないことだよ」
「えっ、本当か。そんなことが何かあるかなあ」
ぼくはちょっと考えた。でも思い当たらなかった。
「はやく言えよ」
ぼくはむずむずして落ち着かなかった。
「ぼくに笑い方を教えてくれない」
予想外の答が返ってきたので、ぼくはうまく受け止めることができなかった。
「えっ、何、今、何と言った。もう一度、言って」
ぼくはパント―に聞き返した。
「ぼくに笑い方を教えてくれない」
今度は、はっきりと聞き取ることができた。嬉しくもあった。
「お前はどうして急に、そんなことを思うようになったんだ」
存外のことに、ぼくの心はうまく整理できないでいた。
「宇宙人の子を、地球人の子にしてあげたいの」
パント―は浮き浮きした顔で、そう答えた。パント―の思いやりに、ぼくは心を動かされた。
「お前は優しいなぁ。でも父さんの笑いと、それと、どのような関係があるんだ」
ぼくは率直な疑問を投げかけた。
「あるよ、あるよ。おおありだよ」
パント―がすぐに答を返した。
「あの子はお父さんの笑顔にしか興味を示さなかったじゃない。これはぼくの大発見だよ」
パント―は感動冷めやらぬ顔をしていた。
「あー、そう言われれば、確かにそうだったな。思い出した」
ぼくは、おととい見たイチョウ林の情景が脳裏に浮かんだ。宇宙からきた子が両手を挙げてイチョウの木の周りを、くるくる回っていたとき、ぼくが笑いかけたら、宇宙からきた子は回るのをやめて、ぼくの顔をじっと見ていた。そのとき、あの子の視線はきょろきょろしていなかった。そして、優しそうな目でぼくに笑いかけてきた。
おとといの出来事は、ほんの数分間の出来事にすぎなかった。しかし、その数分間の間は、宇宙からきた子は、地球人の子と少しも変わったところがないように見えた。
「あのときは、たまたま反応しただけかもしれないよ」
ぼくは謙遜した。するとパント―が首を横に振った。
「お父さんの笑顔以外のものに、あの子が反応したのを見たことがないよ。うそだと思うならこれからいっしょにもう一度、イチョウ林に行って確かめてみようよ」
パント―が熱心に誘ったので、ぼくは応じることにした。
午後の二時半に、ぼくとパント―はイチョウ林にやってきた。妻猫もついてきた。宇宙からきた子も、ほとんど同じ時刻にやってきた。あの子はいつも二時半ぴったりに、ここに来ることに決めているようだ。千本以上もあるイチョウの木の中から、特定の木を探し出して、その木の周りを回ることにしているのは、やはり地球にきたとき、たまたま、その木の近くに下りたからかもしれないと、ぼくは思った。特定の木の前に着くと、男の子は、両手を挙げて、木の周りをまた回り始めた。
ぼくと妻猫とパント―は、その子のほうにかけていった。
パント―は男の子の足元に走りつくと、いっしょに回りはじめた。でも男の子はパント―には少しも注意を払わなかった。目はいったいどこを見ているのか、さっぱり分からなかった。
「お父さん、はやく笑って」
パント―が、気もそぞろに言った。
男の子がぼくの前に回ってきたとき、ぼくは、はちきれんほどの思いをこめて破顔一笑した。すると、男の子が目を大きく見開いて、それまでとはうって変わったように表情が生気づいた。高く挙げていた両手を下ろして、ぼくをじっと見ていた。ぼくはひたすら微笑んで、満面の笑みで男の子を見ていた。男の子は、ぼくの笑顔に魅せられたように、ぼくの顔からずっと目を離さなかった。
ぼくがイチョウの木から離れていくと、男の子もイチョウの木から離れて、ぼくについてきた。
「あっ、パオパオ、どこへ行くの……」
ベビーシッターの声がした。ベビーシッターはそれまで、ほかのベビーシッターと、おしゃべりに興じていたが、男の子がぼくのあとについていっているのに気がついて走ってきて、男の子を抱きしめた。
するとそのとたん、男の子が、ベビーシッターの胸に抱きかかえられたまま、地響きがするほど激しくぐずりだした。その様子を見ていたほかのベビーシッターは見るに忍びなくなって、逃げるような足取りで、イチョウ林から出て行った。
「今日はいつもとは違うね」
「そうだね。まだ五時半になっていないのに、どうしたのかしらね。いつもは時計のように正確なのに」
「どうして今日は回るのを途中でやめたのかしら」
「さっき、猫が近くに、いたようだけど……」
ベビーシッターが、口々に話しているのが聞こえてきた。ベビーシッターに見つかって面倒なことに巻き込まれたくないと思ったから、ぼくと妻猫とパントーはイチョウ林をさっと離れることにした。 そしてうちをめざして、一目散に走り始めた。
「お父さん」
走りながら、パント―が聞いた。
「お父さんの笑顔に、あの子が反応したのは偶然じゃなかったことが分かったでしょう」
パント―にそう言われると、反論の仕様がなかった。確かにあの子は、ぼくの笑顔に興味を覚えていた。
「そうだね。父さんも、そう思うよ。それから今日、もう一つ、分かったことがあるよ」
ぼくがそう言うと、パント―が身を乗り出してきた。
「何が分かったの、お父さん」
パント―が耳を傾けていた。
「あの子の名前だよ」
「何と言うの」
パント―が興味深そうな顔をしていた。
「パオパオだよ。ベビーシッターがそう呼んでいたから」
「パオパオか。誰が、つけたのかな」
パントーが小首をかしげていた。
パオパオという名前は、地球人によくある名前だ。あの子のお父さんとお母さんも宇宙人に違いないのに、あの子の名前はどうして地球人の名前と同じなのだろうか。もしかしたら宇宙からきたときに、地球人の家族に引き取ってもらって、その家のお父さんとお母さんに名前をつけてもらったのだろうか。ぼくには謎が深まるばかりだった。
「パオパオという名前は、きっとお母さんがつけたものだわ。子どもはみんな、お母さんのパオパオ(宝物)だからね」
妻猫の母性本能が、ひしひしと伝わってきた。ぼくは、うなずかざるを得なかった。
「あの子のお母さんは、パオパオが地球人の子どもになることを、どんなに望んでいることでしょうね」
妻猫が感傷的になっていた。
「お母さん、ぼくがパオパオを地球人の子どもにしてあげるよ」
パントーが目を輝かせていた。
「ぼくはこれまでずっとサンパオとアーヤーのことを、うらやましく思っていたんだ。サンパオは盲人を助ける盲導猫になったし、アーヤーは人の言葉を話したり、耳が遠い人を手伝って新聞を売ったり、歌を歌って、植物人間を覚醒させることができた。どちらもすごいよ。ぼくもサンパオやアーヤーのように人の役に立つ猫になるよ。パオパオを地球人の子どもにするために頑張るよ」
パント―の熱い思いが、ひしひしと伝わってきた。ぼくと妻猫は感動に震えていた。
第十章 笑える猫になりたい
天気……昨夜は一晩中、雨が降っていた。朝になっても霧雨がしとしとと降り続き、景色がぼんやり、かすんで見えた。雨に煙って見える景色は、情趣を描いた水墨画のような不透明感にあふれていた。午後になって、雨はやみ、目の前の景色がだんだん、はっきり見えてくるようになった。
ぼくは、パント―に笑い方を教えることにした。
午前中ずっと雨が降り続いていたので、公園に人はまばらだった。ぼくはパント―を連れて、公園の中の八角亭に行った。そこには屋根があるので、雨宿りができる。水墨画のように美しい雨の日の情景を、濡れないで観賞することができる場所でもある。
「お父さんは、子どものころ、誰に笑い方を教わったの」
パント―が興味深そうな顔をしていた。
「誰からも教わっていないよ」
ぼくは、そっけなく答えた。
「ということは……生まれつき笑えたっていうこと」
パント―が目を丸くしていた。
「そうでもないよ。杜真子のうちに行ってから笑えるようになったんだ」
ぼくは、子どものころを思い出していた。
「杜真子って言えば、あの猫顔をした、きれいな女の子でしょ。ぼくたちに、いつもキャットフードやミニトマトを持ってきてくれる」
「うん、あの子だよ」
ぼくの心の中で、美しい追憶が走馬灯のように、ゆっくりと回り始めていた。
「あの子は、ぼくがいちばん好きな子だ。あの子といっしょに過ごして、とても楽しかった日々のことを、ぼくは一生、忘れない」
万感たる思いが胸の中に、こみあげてきた。
「じゃあ、杜真子が教えてくれたんだね」
パント―が聞いた。
「いや、違う」
ぼくは首を横に振った。
「でも杜真子のおかげで、お父さんは笑えるようになったんでしょう」
ぼくは熱い思いを語り始めた。
「杜真子は見た目にはとても活発で元気な女の子に見える。でも、実際には少し違っていて、心の中に、いつもやるせない思いを抱えている。毎朝、目が覚めるとすぐにお母さんの厳しい監視の目にさらされる。すること、なすことのすべてをお母さんに言われるままのことしかできないからだ。自由に羽を伸ばすことができないので、杜真子は家ではいつも部屋に閉じこもっていて、もんもんとした胸のうちを、ぼくに打ち明けていた。杜真子の愚痴を毎日聞いているうちに、ぼくはだんだん人の言葉が分かるようになってきた」
パント―は、ぼくの話を興味深そうに聞いていた。
「そうだったの」
目からうろこが落ちたような顔をしながら、パント―がうなずいた。
「もし、ぼくにも誰か、毎日話しかけてくれる人がいたら、人の話が分かるようになるかなあ」
パント―が思いをはせていた。
「杜真子の喜びや苦しみや、人に知られたくないことを、ぼくはみんな知っている。杜真子とぼくは、それらをみんな分かち合ってきたからね。ぼくが初めて笑ったのは、杜真子がお腹の皮がよじれるほど、おかしいことを話してくれたときだった。杜真子がげらげら笑っているのを見て、ぼくもおかしくなって、そのとき、ぼくの顔にも、人が笑っているような顔が自然と浮かんでいたんだ。それを見て杜真子が、おったまげたような顔をしながら、『えっ、お前、笑えるんだ。摩訶不思議、摩訶不思議』と、言って、ひっくり返るほど驚いていた。それを見て、ぼくの顔が笑っているように見えることに、ぼくは自信が持てるようになって、それ以来、ぼくは笑い猫と呼ばれるようになったんだ」
忘れられない大切な思い出を、ほくはパント―に綿々と話した。
「じゃあ、お父さんの笑いは人に習ったり、自分で練習したのでなくて、自然と出てくるようになったんですね」
パント―がぼくの言いたいことを分かってくれた。
「そうだよ。父さんは、いろいろな笑い方ができるし、それぞれの笑い方で、違った気持ちを伝えることができるんだ」
ぼくの話にパント―がうなずいた。
「父さんは杜真子が大好きだから、杜真子に会うといつも、百万ドルの美しい微笑みが、父さんの顔いっぱいに、わーっと広がるんだ。その微笑みこそ、父さんのトレードマークなのだ。人の気持ちをなびかせたいときには、すぐにその笑顔を浮かべるようにしている。するとみんな、ころっと、まいってしまう。杜真子が楽しそうにしているときには、がはがは笑う。怒っているときには、くくくっと、苦虫をかみつぶしたような顔で笑う。杜真子が、いとこの馬小跳と……」
「馬小跳、知ってる、知ってる。いつもぼくたちに食べ物をもってきてくれる、あの男の子でしょう。ぼく、あの子大好き」
パント―が明るい声で言った。
「父さんも、馬小跳がとても好きだよ。馬小跳がすることは、ほとんど何でも好きだよ。でも一つだけ、好きじゃないことがある。杜真子とよく言い争うことだ。男の子は、ささいなことで女の子と言い争うべきではないよ。二人がケンカをするたびに、ぼくの心の中に馬小跳に対する不満の気持ちが、むらむらとわいてくるので、ぼくは馬小跳に向かって、にたにたと笑う。すると、馬小跳は体に鳥肌が立ってきて怖くなり、その場に居ても立ってもいられなくなって、ケンカをやめて、すごすごと白旗を掲げて、その場から去っていく」
ぼくはそう話した。これだけ多く話したのだから、ぼくの笑いは心の中から自然と出てくるものであることを、パント―はよく分かってくれたと思う。むろん気持ちだけではなくて、いささか訓練をしなければ笑いの表情が作れないのは、いうまでもない。パント―の顔はとても太っているので、頬の筋肉が張り出していて、目がくぼんで見える。それにパントーは大の運動嫌いだから、顔に、ほとんど表情がない。笑い顔を作るために、パントーがまず練習しなければならないことは、顔の表情を生き生きとさせることだ。
「あごを下げて口を左右に引いてから開けなさい。口に隙間がどれくらいあるか、父さんが見てみよう」
パント―は言われたとおりにしようとしていた。でもパントーがどんなに頑張っても口を左右に引いているようには、ほとんど見えなかった。頬の筋肉が多すぎて邪魔をしていたからだ。
「さあ、もっと頑張って、口を左右に引いてから開けなさい、このように」
ぼくは実践をしてみせた。ぼくの感覚としては、口元が首につくほど近くなっているような感じだった。パント―はぼくがするのを見て、自分なりに一生懸命、頑張っていた。でもやはりパント―の口はまだ十分に開いていなかった。
「頑張れ、頑張れ、パント―、頑張れ」
ぼくは声をかけてパント―を奮い立たせた。
「もう頑張っているよ、お父さん」
パント―は、もうこれ以上、自分にはできないといった顔をしていた。
パント―の頬の筋肉が実際、少し多すぎたから、どんなに頑張っても、口を大きく開けることができないでいた。
(口を左右に引いたり、開けたりできなくて、どうして笑いの表情を作りだすことができるだろうか)
ぼくはパントーの先行きに不安を感じていた。
パントーが笑いのテクニックを習得するために口の形を作ることは、少し時間がかかるようだった。次にぼくは耳を動かすことを教えなければと思った。耳も顔の表情作りに役に立つと思ったからだ。
「パントー、耳を動かせるか、このように」
ぼくはまた実践をしてみせた。まず左の耳を動かした。上下に小刻みに、ぴくぴく動かした。次に右の耳を動かした。右の耳も上下にリズミカルに動いた。そのあと両方の耳を同時に動かした。どちらの耳も、ぶるぶると震えるように動いた。
「お父さんの耳、すごい」
パント―があっけに取られていた。
「耳を動かせないと、笑えるようにならないの」
パント―が聞いた。
「お父さんの耳がこのように動くのは。顔の筋肉が引き締まっていて、弾力性があるからだよ。そのために生き生きとした笑顔が作れるんだ」
ぼくの説明に、パント―がうなずいた。
「笑顔が作れるようになるためには、気持ちだけでなくて、実際に口の形を整えたり、開けたり、耳を動かしたりして、様々なトレーニングをしなければならない。そうすることで生き生きとした笑顔が作れるようになる。たゆまなくトレーニングをすることで、見た目に美しい笑顔が生み出せるようになる」
説得力にあふれるぼくの話が、パント―のやる気をうながした。
「ぼく、今からすぐトレーニングを始めるよ」
パント―がそう言った。ぼくはパント―を連れて梅園に行った。花が咲いている春の初めのころは、人が多くて、とてもにぎやかだ。しかし、春たけなわの今は、梅の花はもうすでに散っていて、梅園の中は、ひっそりしていた。
梅園の中に古い井戸がある。中をのぞくと、水は一点の曇りもない鏡のように澄んでいて、ぼくの影が映った。笑うと笑い顔が映った。パント―にも井戸のふちにつかまらせて、中をのぞかせた。
「パント―、何か見えないか」
パント―は落ちないように気をつけながら、中をじっとのぞきこんでいた。
「猫が二匹、見えるよ」
パント―が答えた。
「井戸の中にどうして猫がいるの」
パントーが真顔でそうきいた。ぼくはそれを聞いて、おかしくてたまらなかったから思わず、がははっと笑った。
「あれっ、あの猫も笑っているよ。お父さんと同じように笑っているよ」
パント―はまだ気がついていないようだった。
「その猫は父さんだよ。そしてもう一匹の猫はパントーだよ」
ぼくはパント―に水鏡に姿が映っていることを説明した。
パント―はこれまで鏡を見たことがなかったので、自分がどのような姿をしているのか、全然分からないでいた。水鏡に映った自分の姿を、パント―は今日、初めて見たのだった。
「ぼくの顔は本当にに太っているね。アーヤーのようにきれいじゃないし、サンパオのように、かっこよくない」
パント―の心は深い井戸の底に沈んでいくように見えた。
「何を言うんだ、パント―。お前にも、いいところがたくさんあるじゃないか。いい猫だよ、パントーは」
ぼくはすぐにそう言って、パント―を慰めてやった。
「お前が笑えるようになったら、もっと素晴らしい猫になる」
パント―は、うなずいた。
それからまもなく、パント―は井戸端でトレーニングを始めた。毎日、暗くなるまで顔を水鏡に映して笑顔を作る練習をしたり、井戸の周りを走って、体をスリムにして、頬の筋肉を減らそうとしていた。日がとっぷり暮れて、水鏡に姿が映らなくなったころ、パント―はようやく、うちへ帰ってきた。
第十一章 微笑みは不思議な力
天気……ここ数日、晴天が続いていて、昼間は初夏のように汗ばむ陽気だ。子ど
もたちは夏服に衣替えして登校している。男の子は半そでのTシャツに半ズボン、女の子は白い半そでのブラウスにチェックのミニスカートをはいている。
パントーがトレーニングを始めてから二週間がたった。その間、周囲の景色には大きな変化が生じていた。翠湖のほとりでは、柳の新緑がさわさわと揺れて、しなやかな枝が水面に風情豊かに垂れるようになった。ぼくが大好きなヒヤシンスの花は、二週間前に咲き始めたが、今はもう盛りを過ぎていた。
自然の変化もさることながら、パント―の変化も大きくて、目を見張るほどになった。ぐうたらで、のんびり屋のパント―が、毎朝、せかせかと外に出ていくようになったからだ。老いらくさんがびっくりして、ぼくのところに聞きに来た。
「お前のうちのパント―は毎日、梅園に行って、一日中、そこにいるが、お前、知っているか」
「えっ、そうなんですか。知らなかった」
ぼくは、わざと、とぼけた答え方をした。
「どうして知っているんですか」
ぼくは、老いらくさんに、逆に聞き返した。
「不思議に思って、パント―のあとをつけていったんだ。梅園でパント―が何をしているか、お前は知っているか」
「知らない。何かびっくりするようなことでもしているのですか」
ぼくは気が気でないふりをした。
「梅園に古い井戸があるのを知っているか」
「はい、知っています。パント―がそこで何をしているんですか。はやく言ってください」
ぼくは気が立っているふりをした。
「パント―は一日中、井戸の周りにいて、中をのぞきこんだり、外を走ったりしている」
老いらくさんが、心中、穏やかでない顔をしていた。
「いつもは能天気のパント―が真剣そのものの顔をしているので、何か大きな悩みを抱えていて、はやまったことをするんじゃないかと思って、気になって仕方がないんじゃ」
パントーの姿が老いらくさんには、そのように映っていたのかと思うと、おかしくなった。
「心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫ですよ。パント―が真剣な顔をして井戸の中をのぞいているのは、水に映った自分の顔を見るためですよ。飛び込むためじゃありません」
ぼくは、そう答えて、がはがはと笑った。
「何、自分の顔を水に映して眺めているんだって」
老いらくさんが理解に苦しむような顔をしていた。
「あの太った顔を毎日見て、どこが面白いんだ。パント―はいつからナルシシストになったのだ」
老いらくさんが、あきれたような顔をしていた。
「パント―はナルシシストじゃありません。井戸の水を鏡にして、毎日、口の形を整えたり、耳を動かすトレーニングをしているんです」
ぼくが説明すると、老いらくさんが、あっけにとられていた。
「どうしてそんなことをしているんだ」
老いらくさんが目を丸くしていた。
「パント―は、ぼくのように笑える猫になりたいと思っているんです」
老いらくさんはまだ納得がいかないような顔をしていた。
「宇宙からきた子を地球人の子にしてあげたいというのが、パント―の願いだから、そのためには笑いを用いるのがいちばんだと考えているんです」
老いらくさんはまだ合点がいかないような顔をしていた。
「宇宙からきた子……、地球人の子…何だ、そりゃあ。わしには、さっぱり分からん」
いくら知恵が回る、老いらくさんでも、意味がよく分からなくて、開いた口が塞がらないでいた。
ぼくは老いらくさんに宇宙からきた子のことを話して聞かせた。
「その子にとって、ぼくの笑顔以外のものは、すべて空気と同じなんです。まったく興味を示さない。ぼくの笑顔だけがあの子を閉じこもった世界から外に連れ出すことができるのです。信じられますか」
「そうか。そういうことも、ないことはないだろう」
老いらくさんがあっさりそう言ったので、ぼくは意外に思った。
「お前は魅力あふれる素晴らしい猫だし、その魅力の九十九パーセントは笑えることにある。誰もがそう思っている。お前の笑いに心を惹かれないものは、人だって、動物だって、エイリアンだっていないだろう」
老いらくさんにほめられて、ぼくは何だか、きまりがわるくなった。
「でも笑い猫、お前の笑顔と、パント―が井戸のふちで口や耳を動かしたり、井戸の周りを走ることと、どう関係があるのだ。わしには、さっぱり分からん」
老いらくさんは理解に苦しんでいるようだった。
「ぼくの笑顔は心の中から自然とわいてきたものなんです。パント―にも、そのことは、はっきりと話しています。しかし笑っているような表情を作るためには、それなりにトレーニングもしなければならないのです。頬のぜい肉を減らしたり、口や耳を動かすトレーニングを行って初めて、生き生きとした笑顔が作れるようになるんです」
ぼくの説明に老いらくさんは、静かに聞き入っていた。
パント―は、とても不器用な子猫だが、真面目で、ひたむきなところがあるので、ここ数日、トレーニングの効果が目に見えて現れてきた。耳が少し動くようにもなってきた。口も左右に、わずかに広がるようになってきた。頬の筋肉も幾分、引き締まってきた。
昨日の夕方、パント―が梅園でのトレーニングを終えて帰ってきたとき、これまで見たことがないような、嬉しそうな顔をしていた。
「お父さん、お母さん、ぼく笑えるようになったよ」
「えっ、本当に」
妻猫がびっくりしていた。
「本当だよ」
パントーの声が、ゴムまりのように弾んでいた。
「じゃあ、さっそく、父さんと母さんに笑ってみせてよ」
妻猫は矢も楯もたまらないような顔をしていた。
パント―はぼくと妻猫を、前に座らせてから、感謝の念を深くこめたようなまなざしで、じっと見つめていた。するとそのとき、パント―の目が三日月のように細くなって、口元が両側に広がり、笑っているような表情が顔に本当に浮かんでいた。
「本当だ。確かに笑っている」
妻猫の声がうわずっていた。
「うちのパント―が笑えるようになったんだ」
妻猫は興奮のあまり、声が震えていた。
パント―は笑い方を本当に習得していた。無理に作りだしたような、不自然な笑い方ではなくて、心の底から自然とわきでてきたような生き生きとした笑顔を浮かべていた。
昨日まではパント―の頬の筋肉は硬いところがまだ残っていた。口の開け方も不十分だったから、上手に笑えないでいた。ところが今日は、昨日までとは全然違っていた。
(どうして急にこんなに、きらきらと輝くような美しい笑顔が作れるようになったのだろう)
ぼくは不思議に思っていた。パントーが、ぼくの心を察してくれた。
「今までは練習するときに、水に映った自分の顔に向かって笑っていたんだ。でも今日は水に映った顔をあの子だと思って笑ったんだ。そうしたら、急に自然な笑顔が出せるようになったんだ」
パント―が笑い方のコツを覚えたことを楽しそうに話した。
「その通りだよ、パント―。それこそ、自分の心の中から自然と、わき出てきた笑顔だよ」
ぼくは、そう答えた。
パント―は午後、イチョウ林に行くことにした。ぼくと妻猫もいっしょについていくことにした。ぼくと妻猫は、イチョウの木から少し離れたところに隠れて、パント―がパオパオの前で笑って見せたり、、その笑いがパオパオを惹きつけるかどうか、こっそり観察することにした。
午後の二時半、パオパオがいつもの通り、イチョウ林に入ってきた。いつも回っているイチョウの木の下まで、歩いてくると、両手を挙げて、くるくると回り始めた。一回、二回、三回……パオパオは自分の世界に閉じこもったまま、大きな目をきらきらさせながら回っていた。しかし視線はうつろで定まらず、焦点がぼやけていた。
パント―がパオパオの足元に走って行って、パオパオといっしょに回り始めた。
しかしパオパオにはパント―の姿がまるっきり見えないのか、まったく空気にしていた。
「パント―ったら、いっしょについて回らなくていいよ。はやくパオパオに笑顔を見せてあげなさいよ」
妻猫がパント―に、気をもんでいた。ぼくがパント―のところに走っていこうとすると
「行かないほうがいい。パント―に自分で徐々に気づかせるのよ」
と言って、妻猫に制止された。
情に、ほだされない妻猫の理性的な愛に、ぼくはいつも感心せざるを得ない。妻猫は子どものことを命のように愛しているが、常軌を逸した愛でもなければ、べたべたした愛でもなくて、いつも理性的に愛している。
ぼくと妻猫はパント―がすることに対しては、本当に辛抱強く待たなければならない。時間をかけてやっと気がつくことが多いからだ。アーヤーや、サンパオに比べたら、パント―は、確かにとても、とろい。性格だから仕方がない。
パントーはパオパオといっしょに何回、イチョウの木の周りを回ったか知らないが、しばらくしてからパント―はようやく回るのをやめた。パオパオから三、四メートル離れたところまで走っていくと、そこにきちんと行儀よく座って、パオパオに静かに微笑みかけた。
「パント―の笑顔は何て、きれいなんでしょう。まるで満開のボタンのようだわ」
妻猫が感動していた。ぼくもパントーの笑顔を見て、まるで天使の微笑みを見ているように思えた。
パオパオがそれからまもなく歩くのをやめて、パント―をじっと見ていた。パオパオの目は、もう、うつろではなかった。
パオパオは。パントーのほうに、ゆっくりと近づいてきた。パント―の前まで来ると、パオパオは地面に腰を下ろして、パント―の顔を間近で、まじまじと見つめていた。
パント―は目を三日月にした。口を品よく開けて、パオパオに、微笑みかけていた。それを見てパオパオも笑った。くっくっくっ……という笑い声も出ていた。
そのとき、パオパオのベビーシッターが少し離れたところから近づいてくるのが見えた。
「あら、パオパオ、どうしたの。地面に腰を下ろして、何をしているの」
ベビーシッターは、けげんそうな顔をして、パオパオに声をかけた。
ベビーシッターが近づいてくるのを見て、バントーは、そそくさと逃げるようにして、パオパオの近くから去っていった。
パント―がいなくなったのに気がつくと、パオパオの笑顔が消えた。パオパオは、ベビーシッターに抱かれると、顔の表情が一変して、わあわあと激しい声で泣き出した。パオパオは本当に不可解な子どもだ。
(宇宙人の子どもはみんな、こうなんだろうか)
ぼくはそう思った。
それからまもなく、ぼくと妻猫は体の向きを変えて、パント―のあとを追っていった。ぼくと妻猫がイチョウ林から出ても、胸を引き裂くようなパオパオの泣き声がまだ聞こえていた。
第十二章 パント―初めてうちを離れる
天気……昨夜、雨が降ったが、今日はうららかな、よい天気だ。この町では、今の時季になると、明るい陽射しが降り注ぐよい天気と、春雨がしとしと降るしめやかな天気が交互にやってきて、空模様が一定しない。
昨日、夕ご飯を食べるとき、うちのなかは喜びであふれていた。ぼくと妻猫は心がとろけるほどうれしくてたまらなかったから、普段はめったに口にしないシロップ漬けの魚缶を食べたり、シャンパンを飲んだりした。
「地球上に、もう一匹、笑える猫が現れた。パント―だ」
ぼくは誇らしげに、妻猫にそう言った。妻猫は明るい顔をしてうなずいた。ところが当のパント―は、ぼくと妻猫が思っているほど感動していなかった。それほど喜びに浸っている風でもなかった。
「パント―、どうしてそんなに浮かない顔をしているの。もっと嬉しそうな顔をしなさいよ。今日はお前にとって、とてもおめでたい日でしょう」
妻猫が、けげんそうな顔をしていた。
「パオパオの耳をつんざくような泣き声が今も心に聞こえてくるんだ。パオパオは今どうしているんだろうと思うと……」
パント―はパオパオのことをまだ気にかけていた。
一夜明けて今朝になっても、パントーはご飯を食べるときに、まだ憂えていて、心が海の底に沈んでいるように見えた。
「まだパオパオのことを思ってるのか」
「うん」
パント―が空気の抜けた風船のような声で答えた。
「昨日の夜、夢を見たんだ。パオパオが激しく泣いている夢を……」
パント―の心のうずきが、ちくちくと伝わってきた。
「安心しろよ、今日の午後、またパント―に会えるじゃないか」
ぼくはそう言って、パント―を慰めた。
午後の二時半、パオパオはいつもの通り、イチョウ林にやってきた。パオパオが普段はどこで何をしているのか知らないが、まるで時計のように正確にいつも時間ぴったりにイチョウ林にやってくる。
(あの子が生まれた星の人はみんな、ああなんだろうか)
ぼくにとってそれもまた謎の一つだった。
これまでとは違って、今日、パオパオをエスコートしてきたのは、ベビーシッターのほかに、もう少し年上の男の人と女の人も一人ずついた。
(もしかしたらパオパオのお父さんとお母さんではないだろうか)
ぼくはそう思った。
いつもとは違うことに、もう一つ気がついた。パオパオが今日はイチョウの木の周りを両手を挙げて回ることはしないで、木の下にじっと立っていたからだ。大きな目も、いつもとは違って、うつろではなくて、何かを待っているような生き生きとした目をしていた。パオパオをエスコートしてきた人たちは、、辺りをきょろきょろ見まわしながら、何かを探していた。じりじりした表情をしていたので、なかなか見つけられなくて、苛立っているように見えた。
(だれかを待っているのだろうか。もしかしたら、パント―では……)
ぼくは大胆な予測をした。
「パント―、行け。お前を待っているぞ」
ぼくはパント―を、けしかけた。でもパント―は、ちゅうちょしていた。
(もしかしたら、パント―は、あの男の人と女の人を怖がっているのかもしれない)
ぼくはそう思った。
「パオパオのお父さんとお母さんだと思うよ。たぶん、いい人だよ」
パントーを安心させるために、ぼくはそう言った。しかしパント―は口をとがらせていた。
「どうしてそう言えるの」
パント―の心から警戒心がまだ解けないでいた。
「姿を見たら分かるよ。つべこべ言わないで、はやく行けよ」
ぼくはパントーに発破をかけた。パント―が、押し出されるようにして出て行った。
「あっ、来た来た、あの猫よ、お父さん、お母さん」
ベビーシッターが嬉々とした声をあげた。
(やはりぼくが思っていた通りだった。あの人たちはパント―を待っていたのだ)
男の人と女の人は、やはりパオパオのお父さんとお母さんだった。パオパオのお父さんとお母さんは、パント―のことをベビーシッターから聞いて、興味をもってやってきたのだ。
パオパオのお父さんとお母さんは、火のような熱いまなざしで、パント―を見ていた。
「おいで、おいで、こっちへ、おいで」
パオパオのお母さんが腰を低くして、両手を広げた。でも警戒心が強いパント―は、その場にじっとしていて、パオパオのお母さんの腕の中に飛び込んでいこうとはしなかった。飛び込んでいったら、何をされるか分からないと思っていたようだ。
そのとき、パオパオが両手を挙げながら、ゆっくりと、パントーのほうに近づいてきた。それを見てパント―がにっこり笑った。するとパオパオも笑った。パオパオは、そのときは、地球にいる普通の子と、少しも区別がつかなかいほどだった。
パオパオのお母さんがポケットから、ハンカチを取り出して涙をぬぐっているのが見えた。お父さんは唇をぶるぶると小刻みに振るわせていた。パオパオのお父さんとお母さんの胸の中に、言い知れぬ熱い思いが、ふつふつと、こみあげているように思えた。もしかしたらパオパオのお父さんとお母さんはこれまで、パオパオが笑っているところを一度も見たことがなかったのかもしれない。
パオパオのお父さんとお母さんがパオパオに注意を払っているすきに、ぼくは近くにあるイチョウの木の裏に、さっと隠れて、お父さんとお母さんの話に耳をそばだてた。
「信じられないわ、パオパオが笑うなんて。夢みたい、夢みたい」
パオパオのお母さんが放心状態で、そう繰り返していた。
パオパオのお父さんも激しい感情に突き動かされていて、男の人独特の愛情表現法とでも言ったらいいのだろうか、、パオパオを抱きかかえると、頭の上に高々と抱え上げて喜びを表していた。
パオパオはびっくりして、わーと泣き出した。お父さんは慌ててパオパオを下におろした。
パオパオは泣きながら、パント―の前まで歩いてきた。パント―を見ると、パオパオは泣くのをやめた。パント―の顔には春の日差しのような明るさがあふれていたからだ。パント―がパオパオに微笑んでいるのを見て、パオパオも微笑みを返した。パオパオの目にはパント―しかなかった。パント―の目にもパオパオしかなかった。
「この猫をうちに連れて帰れないものかしら。でも飼い主さんがいるでしょうから無理よね……」
パオパオのお母さんが、やるせない顔をしていた。
「この猫に飼い主はいないようだわ。この公園に住んでいる野良猫みたい」
ベビーシッターがそう言った。
「えっ、そうなの。だとすれば、うちに連れて帰ってもいいということ」
パオパオのお母さんが目を輝かせていた。ベビーシッターがうなずいた。
「この猫はパオパオが好きなようだわ。パオパオもこの猫が好き。そうでしょう、パオパオ」
パオパオのお母さんが聞いた。でもパオパオにはお母さんの言っていることが聞こえていないようだった。
(宇宙からきた子だから、地球人の話は聞いても分からないのだろうか)
ぼくはそう思った。
パオパオのお母さんがパオパオにまた聞いた。
「この猫をうちに連れて帰ろうか」
「うん」
パオパオが、蚊の鳴くような小さな声で、ぼそぼそっと反応した。
「あれっ、パオパオが今、何か話さなかった。聞こえなかった」
空耳かと思って、パオパオのお母さんが、お父さんに確かめていた。
「聞こえた、聞こえた。うんと言った」
お父さんが声を弾ませていた。
ぼくにも聞こえた。確かに聞こえた。
これまで泣き声以外にパオパオの意思表示を聞いたことがなかったので、ぼくは新鮮な驚きを感じていた。
パオパオのお母さんも感極まったのか、ほろほろと、また涙を流し始めていた。パオパオは、もしかしたら、おうむ返しに反応しただけだったのかもしれない。たとえそうであったとしても、言葉が話せたということは、地球人の子どもになれる可能性を秘めていると言える。
パオパオのお母さんはパントーを愛おしげに抱きかかえた。パオパオのお父さんはパオパオを狂おしげに抱いた。
それからまもなく、パオパオのお父さんとお母さんとベビーシッターは、夢でも見ているかのような優しい表情をしながら、イチョウ林から出て行った。
(あとについていこうか、いくまいか)
ぼくは少し、迷った。もしかしたら、もうこれっきり、パントーと会えなくなるかもしれない。そう思って後ろ髪を引かれる思いがした。しかし、きっぱりと心を決めて、ついていかないことにした。
うちへ帰ってくると、お母さんが、けげんそうな顔で
「あれっ、パント―は」
と、聞いた。
「パオパオのうちへ行ったよ」
ぼくはそう答えてから、イチョウ林の中で今日起きたことを、妻猫に話した。パオパオのお父さんとお母さんが感激して、涙をいっぱい浮かべていたことを話すと、妻猫の目にも涙がきらきらと光っていた。
「バント―がいなくなって、お母さん、寂しいでしょう」
妻猫の気持ちに、ぼくは思いをはせた。
「何を言っているんですか、お父さん。どうして私が寂しがらなければならないんですか」
妻猫が、きりっとした口調で言葉を返してきた。
「だってパント―が急にうちを出て行ったから、とても寂しいのではないかと思って……」
ぼくはしんみりと答えた。
「急だとは思っていないわ。パント―がパオパオのために力を貸したいと思ったあの日から、パント―がいつかは、うちを出ていくだろうと思っていたわ。そのための心の準備はいつでもできていたわ。寂しいどころか、嬉しいわ。パント―が自分の願いを実現させるためには、やはりパオパオのうちに行くのがいちばんですからね。こんなに順調にいくとは思ってもいなかったわ」
妻猫が晴れ晴れした顔をしていた。
(なんて賢いお母さんなんだろう)
ぼくはそう思った。情に流されない妻猫の理性的な愛に、ぼくは感心せざるを得なかった。パント―とアーヤーとサンパオの成長過程において、こんなにも物事をわきまえた妻猫が正しく導いてくれるのだから、ぼくが子どもたちの将来に心配することなど何もないだろう。
第十三章 宇宙からきた子の救い主
天気……翠湖の湖面の色は空の色とともに移り変わる。雲ひとつない青空が広がっているときは、湖面は翡翠のように透き通り、うららかな陽ざしが湖面に映って、まばゆいばかりに、きらきらと輝いている。
昨夜遅く、ぼくと妻猫がぐっすり眠っていると、外から突然、ぜいぜいという荒い息遣いが聞こえてきた。びっくりして目を覚ますと、うちの入り口に何と、パントーが立っていた。
「あれっ、パント―、どうして戻ってきたんだ」
意外に思ったので、ぼくは、きょとんとしていた。
「ぼ、ぼくは……これまで、うち以外で寝たことがないので、眠れなくて、それで……それで……戻ってきたんだ」
パント―は激しい息づかいが収まらないまま、妻猫のそばに行って、ごろんと横になった。
「やっぱりお母さんのそばにいると安心して眠れるよ」
パント―は心がとろけるような顔をしていた。
「お前はもう赤ちゃんじゃないんだから、いつかはお母さんのもとを離れなければならないときがくるんだよ、サンパオやアーヤーのように、いつかは自立して……」
お母さんが言い終わらないうちに、パント―はもう、すやすやと、寝息を立てていた。
一夜明けて、けさ早く、夜がまだ明けないうちに、パントーは、ご飯も食べないで、パオパオのうちへ帰る準備を、ばたばたと始めた。
「パオパオが目を覚ましたときに、ぼくの姿が見えなかったら、きっと大声で泣き出すに違いないからね」
パント―はそう言いながら、あたふたと出て行った。ぼくも朝ご飯を食べないで、急いでパント―のあとを追っていった。パント―に追いついたあと
「パオパオのうちが分かるか」
と、聞いた。
「うん、公園のすぐ近くだよ」
パント―が走りながら答えた。
パオパオのうちは翠湖公園のすぐ近くにあるだろうと、ぼくも思っていた。ベビーシッターが毎日パオパオを連れて公園のイチョウ林に散歩に来ていたからだ。
十分も走らないうちに、パント―は公園の近くにある高層マンションの前に来て、その前で足を止めた。
「ここだよ。パオパオはここに住んでいる」
パント―が言った。
「昨日の夜、お前はどうやって出てきたんだ」
「玄関横の小窓のすき間から出てきた」
「どの窓か覚えているか」
「覚えていない。でも窓辺で、ちりんちりんと音が鳴っていた」
「それは風鈴の音だろう。じゃあこれから風鈴が下がっている窓を探そう」
ぼくとパント―は窓辺の風鈴を頼りにパオパオのうちを探すことにした。十八階建てのマンションの下から、一つずつ、くまなく見ていった。九階まで登って来たときに風鈴が下がっている窓を見つけた。
「ここか」
ぼくが聞くと、パント―は頭を上げて、窓をじっと見ていた。
「そうみたい」
パント―が答えた。
ぼくとパント―は風鈴が下がっている小窓にはい上がって、すき間から中をちょっと、のぞいてみた。すると目がちかちかするほどきれいな子ども部屋が見えた。部屋の中には宇宙船の形をしたベッドが置かれていた。
(宇宙からきた子は、このようなベッドで寝るのだろうか)
ぼくはそう思った。
パント―に聞くまでもなく、ここがパオパオの部屋だとぼくは、はっきりそう思った。
ぼくとパント―は小窓のすき間をくぐり抜けて、家の中に入って、子ども部屋をのぞいた。しかしパオパオは部屋にはいなかった。
(どこにいるのだろう)
そう思っていると、部屋の外から声が聞こえてきた。だれかがパント―のことを、パンちゃんと呼んでいる声も聞こえてきた。パントーはパンパンに太っているので、そう呼んでいるのだろうと、ぼくは思った。
ぼくとパントーは抜き足差し足で子ども部屋を出て、隣にある客室に忍び込んだ。
ぼくはこれまで杜真子や馬小跳の家の客室を見たことがある。どちらもとても、きれいな部屋だ。それに比べると、この家の客室は、杜真子や馬小跳のうちの客室とは雰囲気が全然違っていた。すべての家具が壁から二メートルぐらい離して置かれていたからだ。家具と壁の間に、通り道がわざと作ってあって、そのために客室が狭くて整然としていないように思えた。
ぼくとパントーは、床まで垂れているカーテンの後ろに、ささっと走っていって、そこに体を隠した。カーテンのすき間から外を見ると、パオパオが両手で壁を触りながら、壁伝いに歩いているのが見えた。ベビーシッターが片手にお椀、片手にスプーンを持ちながら、パオパオのあとを追っていた。パオパオが、なかなか、ご飯を食べようとしないので、ベビーシッターは閉口していた。やっとのことで、パオパオの口に食べ物を入れると、パオパオは嚙みもせず、飲みもせずに、口の中に、ずっと、くわえたままだった。
(パオパオは宇宙からきた子だから、地球人の食べ物は好きではないのだろうか)
ぼくはそう思いながら見ていた。
「パオパオが、昨日の夕方のように、ちゃんと食べてくれたらいいのにね」
パオパオのお母さんも途方に暮れていた。パオパオはお母さんの手も相当焼かせているようだった。
「昨日の夕方は、パンちゃんが、うちにいて、ご飯を食べているのを見て、パオパオもご飯を食べていたわ」
ベビーシッターが昨日のことを思い出していた。
「本当にね。パンちゃんは、いつ出て行ったのだろう。いったいどこへ行ったのだろう」
パオパオのお母さんが、ふーっと、ため息をついていた。
「十中八九、翠湖公園に帰っていったと思うわ。私、これからパオパオを連れて、翠湖公園に探しに行ってきます」
ベビーシッターがきっぱりと言った。
それを聞いて、ぼくは、じっとしていられなくなった。
「パントー、はやくいけ」
ぼくはパント―をカーテンの陰から押し出した。パント―はパオパオのほうに近づいていった。
「あっ、いた」
ベビーシッターが頓狂な声をあげた。
「もう、パンちゃん、どこに行ってたのよー」
驚きと嬉しさが入り混じったような声で、ベビーシッターが、そう言った。
「来てほしいと思ったら、すぐ来るし、ちょっと目を離したら、いなくなるし……」
パント―の神出鬼没な出入りに、ベビーシッターは。あっけにとられていた。
「落ち着きなさい。パンちゃんや、パオパオの気持ちに影響するといけないから」
パオパオのお母さんが、ベビーシッターをなだめようとしていた。
パオパオは今までずっと壁を触りながら歩いていたのに、パント―が近づいてくると、急に向きを変えて腰を下ろして、大きな目で、パント―をじっと見ていた。パント―が口を開けて目を三日月にすると、パントーの顔に、きらきらと輝く美しい笑みが浮かんでいた。パオパオはそれを見て、つられるように笑った。
パント―はそのあと食堂に入っていった。するとパオパオもパント―について食堂に入っていった。パント―が食卓の上に乗ると、パオパオは食卓のいすに座った。
「パンちゃんに、はやくご飯を食べさせなさい」
パオパオのお母さんがベビーシッターに指示を与えていた。ベビーシッターは軽くうなずいてから小碗に盛ったご飯に、ひき肉を混ぜたものを、パント―に与えた。パント―は、ぱくぱくと、ひき肉ご飯を食べていた。パント―は食欲旺盛だから、何でもおいしそうに食べる。
パオパオは大きな目を見開いて、パント―が食べている様子をじっと見ていた。そしてそのうちに、食指が動かされて、自分も食べてみたいという気持ちになってきたようだった。その機をうまくとらえて、べビーシッターがお椀をパオパオの前に差し出した。するとパオパオが今度はすぐに、ぱくぱくと食べ始めた。
「おー、パオパオが、ご飯を食べたいと思うようになったよ」
ベビーシッターの声は感動のあまり、ギターのトレモロのように震えていた。パオパオのお母さんもひどく感激して、声をのみながら、涙をぽろぽろこぼしていた。
パオパオはまたたく間に、ご飯をきれいに平らげた。ベビーシッターは空になったお碗をパオパオのお母さんに見せて
「パオパオがこれまでこんなに多くご飯を食べたことはなかったわ」
と言っていた。
「パンちゃん、分かる。あなたはパオパオの救い主よ。パンちゃんだけが、パオパオを普通の子どもにすることができるのよ。ねぇ、お願い。もうパオパオから離れないで。いいでしょ」
パオパオのお母さんが、猫なで声で、パントーにそう言った。
パント―には人の話は分からないので、きょとんという顔をしていた。しかし以心伝心というのだろうか、パオパオのお母さんが言ったことを、パント―は心の中で何となく理解したようにも見えた。
この日、パント―は、夜になっても、うちへ帰ってこなかった。