第八章 イチョウ林の中の不思議な子

天気……春らしい陽気が、周囲にみなぎっている。暖かい風が吹いて、翠湖には、さざ波が幾重にも立ち並び、魚のうろこのように、きらきらと輝いている。

 パント―は、けさ早く、夜が明けたばかりのころ、もう、うちを出て行った。
「パント―はどこへ行ったの」
妻猫が、けげんそうな顔をしていた。
「イチョウ林だよ」
ぼくは、そっけなく答えた。
「そこへ何をしに行ったの。イチョウ林の中にピアノがあるの」
妻猫がおかしなことを言ったので、ぼくは思わず、噴き出さずにはいられなかった。
「イチョウ林の中にピアノがあるわけないだろう」
「そうだよね」
妻猫が、ばつが悪そうな顔をしていた。
「パント―は学校でピアノを習ったけど、今はもう卒業して、うちにいるので、ピアノが弾けない。パント―が学んだことは何の意味もなかったのでしょうか」
妻猫が、むなしそうな顔をしながら、ため息をついた。
「そんなことはないよ。けっして無駄だったわけじゃないさ」
ぼくは強く否定した。
「どうして」
妻猫が聞き返した。
「どんな経験でも貴重な財産になるからだよ」
ぼくの答に、妻猫がうなずいた。
「パント―が持って生まれた音楽的な才能はゼロに等しかったが、ピアノを学んだときに、信じられないような奇跡が起きて、みんなに感動を与えた。パント―の自信にもなった。『志ある者は成功する』という格言を、パント―が証明したようなものだ。ひたむきさと真面目さがあったから、パント―は多くのテクニックを身につけて、あれほどの演奏ができるようになったのだ」
ぼくは熱心に語った。
「パント―はどうしてイチョウ林に行かなければならないの」
妻猫がまた聞いた。
「そこには不思議な男の子がいるからだ。パント―はその子にひきつけられている」
ぼくは理由を説明した。
「不思議な男の子ですか」
妻猫が首をかしげていた。
「そう、とても不思議な男の子。まるで宇宙からきた子のように不思議な子だ」
ぼくはそう答えた。
「宇宙からきた子ですか。宇宙ってどこにあるの」
妻猫が、きょとんとしていた。
宇宙について説明するためには、まず地球のことから説明しなければならない。以前、ぼくは杜真子の家に住んでいたので、そのころテレビを見ながら、天文学に関する知識を身につけていた。ぼくはそのことを思い出していた。
「ぼくたちが住んでいるところを地球というんだ。太陽や月は地球ではない。地球でないものは、ほかにも、たくさんある。夜空を見上げたら、無数の星が輝いているだろう。あの星が宇宙だ」
ぼくの説明を、妻猫は熱心に聞いていた。
「イチョウ林の中にいる男の子は、地球人の子とはあまりにも違っている。だからぼくは、あの子は宇宙からきた子ではないかと思っているんだ」
ぼくの話を聞いて、妻猫は、その子に強い興味を感じているようだった。
「私もイチョウ林に行って、その子を見てみたいわ」
妻猫が好奇心を、むらむらさせていた。
「じゃあ、これからいっしょに行こうよ」
ぼくは妻猫を誘って、それからまもなく、イチョウ林へ出かけて行った。
 イチョウ林に着いたとき、男の子の子の姿はまだ見えなかった。パント―だけが、イチョウの木の下に、きちんと行儀よく座っているのが見えた。
「お前、ここで何をしているんだ」
ぼくと妻猫は、パント―のそばに走り寄って、聞いた。
「あの子が、このイチョウの木の周りを毎日、くるくる回るので、ここであの子を待っているの」
パント―が、いそいそしていた。
 見たところ、イチョウ林のなかには千本以上のイチョウの木がある。どの木も、ほとんど同じように見えた。
(パント―はどうやって、あの子が毎日、回っている木は、この木だと分かるのだろうか)
ぼくはそう思った。
「お父さん、ほら、見て。ぼくは目印をつけたんだよ」
パント―が、ぼくの心の中を見通していた。
パント―は鼻で匂いを、くんくんかいでから、干し魚の匂いをかぎだして、木の下から掘り出した。そしてまた埋め戻していた。
昨日、その子が回った木の下に、パントーは干し魚を、こっそり埋めて目印にしていたのだ。
「私たち、少し離れたところから、こっそり見ていましょうよ」
妻猫が、ぼくにうながした。
「どうしてだ」
ぼくは、けげんに思って、聞き返した。
「私たちがここにいたら、その子の気が立つかもしれないから」
妻猫がその子の気持ちに思いをはせていた。
「分かったよ、じゃあ、そうしよう」
ぼくと妻猫は、パントーが干し魚を埋めたイチョウの木から少し離れたところにある別のイチョウの木の後ろに隠れて、その子がやってくるのを静かに待っていた。パントーもついてきた。
午後の二時を少し回ったころ、男の子が、イチョウ林に姿を現した。すぐ後ろには、あのベビーシッターもついてきていた。
男の子の目はぱっちりしていた。しかし視線はきょろきょろして定まらずに、ぼんやりしているように見えた。でも方向感覚はしっかりしているようだ。男の子はイチョウ林の中を左に一回、右に一回曲がると、特定のイチョウの木のところに、やってきて、両手を挙げて、くるくる回り始めた。
「あの木は昨日の木と同じかどうか確かめにいってくるよ」
パント―がそう言った。すると妻猫が慌てて制止した。
「行かないほうがいいよ。ここでじっとしていましょうよ。びっくりさせるかもしれないから」
妻猫は男の子の気持ちに思いをはせていた。
「いや、そんなことはないよ。あの子には周りのあらゆるものが、ないのと同じだよ。そうでなかったら、宇宙からきた子なんて、、ぼくは呼ばないよ」
ぼくは妻猫に異を立てた。
 ぼくと妻猫とパントーはそれからまもなく、男の子のほうに走っていった。やはり、ぼくが思っていた通り、男の子は、ぼくたちを空気にしていた。見えていなかったのだ。
 男の子が回っていた木の下を、ごそごそと掘っていたパント―は、目印としていた干し魚を見つけだして、口にくわえていた。
(あー、やっぱり昨日と同じ木だった)
驚きのあまり、ぼくは、思わず、おしっこを、ちびりそうになった。
「信じられないわ。イチョウの木は、こんなにたくさんあって、どれもほとんど同じように見えるのに、どうやって見分けたのでしょう」
妻猫も「驚き、桃の木、山椒の木」いえ、「驚き、桃の木、イチョウの木」といった顔をしていた。 
(もしかしたら……)
ぼくはまたここで、得意の想像力を発揮した。
(宇宙からきたとき、この子はこの木の近くに下りたのではないか)
ぼくはそう思った。
それからまもなく、イチョウ林の中に、次々と、ほかのベビーシッターが子どもを連れて入ってきた。子どもはみんなわんぱく坊主ばかりだった。不思議なことをしている男の子にボールをぶつけたり、足をかけて倒す子もいた。それでも男の子は少しもひるまずに、相変わらず手を挙げて、木の周りをくるくる回っていた。
妻猫は、男の子のそんな様子を見て
「本当にこの子は宇宙人の子ですね。お父さんの言ったことを、信じるわ」
と言った。
男の子の不思議な姿は、ぼくの心に次から次へと疑問を生じさせた。
(どうやって地球にきたのだろうか。お父さんやお母さんはいるのだろうか。どうして宇宙からきた子にベビーシッターがいるのだろうか)
疑問を解き明かしたいという気持ちが、僕の胸に、ぐぐぐっと高まってきて、じっとしていられなくなった。
べビーシッター同士は仲良く集まって、おしゃべりに興じていた。宇宙からきた子をじっと見ながら話していたので、その子のことを話題にしているのが分かった。ぼくには人の話が分かるので、何を話しているのか知りたくてたまらなくなった。ベビーシッターの近くに行って、耳をそばだてると、話の内容が聞こえてきた。
「えっ、三時間も回っているの。はやくやめさせなさいよ」
ベビーシッターの一人が、宇宙人の子のベビーシッターに注意をうながしていた。
「やめさせることができないのよ。私の言うことが聞こえないから」
宇宙人の子のベビーシッターが困りはてたような顔をしていた。腕時計にちらっと目をやってから
「今、五時だから、あと三十分したら、あの子は回るのをやめるわ。それまで待つしかないわ。毎日、そうなのよ」
宇宙人の子のべビーシッターは、難儀しているようだった。
「いったい、どういう神経をしているのでしょうね」
「まったくねえ」。
「時間が来たら、回るのを、ぴたっとやめるの」
「時計は持っていないのでしょ。どうして時間が分かるのかしら」
ベビーシッターは、みんな半信半疑の顔をしていた。
 五時半が近づいたころ、ベビーシッターは、それぞれ自分の腕時計に目をやっていた。
(あと三分……あと二分……あと一分……時間だ。五時半になった)
ベビーシッターは、みんな顔をあげて、宇宙からきた子を見た。すると男の子は回るのをやめて、体の向きをくるっと変えてから、イチョウ林の中から出ていこうとしていた。
「うちへ帰っていくわ」
男の子のべビーシッターが、ほかのべビーシッターに説明していた。
「うちへ帰っていく道順はいつも同じ。変えることはないわ」
男の子の子のベビーシッターの話に、ほかのベビーシッターは耳を傾けていた。
男の子が、そそくそとイチョウ林から出て行ったので、ベビーシッターは、あわててあとを追いかけていった。
 男の子は道を歩く様子も普通の男の子とは変わっていた。何かに触るようにして歩いていたからだ。琉璃長廊と呼ばれている遊歩道まで歩いてきたとき、年配の男の人が数人、ベンチに座って楽器を演奏していた。バイオリンや胡弓やリコーダーやシンバルやアコーディオンの音がにぎやかに鳴り響いていた。京劇の一節を、ろうろうと歌っている人もいた。しかし男の子は音や声には、まったく関心を示さないで、手で男の人の体を触りながら、ゆるゆると通り過ぎていった。男の人は、びっくりして、目を丸くしながら、男の子を見ていた。
「すみません、すみません」
男の子のべビーシッターが、申し訳なさそうに、しきりに謝っていた。
 ベビーシッターは男の子を抱き上げて、足早に琉璃長廊を出ていった。
すると男の子が甲高い声でわめきだした。声は、辺りを、つんざかんばかりに激しかったので、ベビーシッターは男の子を下におろすよりほかなかった。
男の子は向きをくるっと変えると、琉璃長廊に戻っていった。ベビーシッターはそれを見て、あとを追いかけていって、男の人に、また申し訳なさそうに、ぺこぺこと謝っていた。そのあとベビーシッターは、男の人に、つぶやくような声で何か話していた。男の人は、うなずいていた。そして、いたたまれなさそうな目で男の子を見ながら、一人、また一人と、琉璃長廊を出て行った。
男の子は椅子や柱に触ってから、琉璃長廊を出て行った。男の子の前方にアーチ橋が見えてきた。アーチ橋を渡れば公園から外に早く出ることができる。しかし男の子は橋を渡らずに、引き返して、いつもの道順にそって公園から出て行った。