第七章 パント―の卒業演奏

天気……春分の日が過ぎて、雨がますます降るようになってきた。春の雨には、栄養分がたくさん含まれていて、万物をうるおし、すくすくと成長させる源となる。数日前、青桐の葉は猫の足ぐらいの大きさだったが、今はもう人の掌ぐらいの大きさになっている。

 パント―は今日、ペット曲芸学校を卒業することになった。李先生が卒業演奏を企画したので、ピアノを習っている猫たちの飼い主が見に来ることになっている。パント―には飼い主はいないので、ぼくと妻猫が飼い主の代わりに見に行くことにしていた。
「笑い猫、わしも見に行きたい」
老いらくさんが言った。
「だめだよ。だめ、だめ」
ぼくは強くはねつけた。
「どうしてだめなんだよ。パント―をペット曲芸学校にやってはどうかと勧めたのは、このわしなんだぞ。もしわしが勧めなかったら、パント―の今日の日があると思うか。忘れるなよ」
老いらくさんが不機嫌そうに、かりかりしていた。
「忘れていませんよ。でも今日の演奏会を妻猫も見に行くんです。妻猫はきっと老いらくさんに、ネズミのにおいをかぎ出すので、それを心配しているんです」
ぼくは老いらくさんに、来てもらいたくない事情を話した。
「においを消すために、いつもより多く消臭液を塗っていくよ」
老いらくさんは未練がましく、そう言った。
「それでもやはり用心するに越したことはないよ。もし妻猫に気づかれたら、せっかくこれまで、長年、培ってきたぼくと老いらくさんの友情が、たちまち終わってしまう」
ぼくは、熱心に説得に当たった。
「分かったよ。わしもお前との友情を、これからもずっと続けていきたい。行ったらいけないのなら、行かないことにするよ」
老いらくさんが、しぶしぶ、聞き入れてくれた。
老いらくさんは、それからまもなく帰っていった。
妻猫はパント―の演奏をまだ一度も聞いたことがない。そのために、ぼくよりもずっと今日の演奏会を楽しみにしている。
ペット曲芸学校に着いて、リンゴの形をした音楽室に、ぼくと妻猫とパントーが入ったとき、まだ誰も来ていなかった。
 今日の卒業演奏会に出演する猫は全部で五匹。パント―以外の猫の飼い主たちが、それからまもなく続々とやってきた。みんな自分の猫を大事そうに抱えていた。パント―を抱える人はいなかったので
「この猫はどこの猫かな。それとも野良猫」
と、ほかの猫の飼い主たちが、口々に話していた。
ぽくと妻猫は、ほかの猫の飼い主たちの後ろに隠れるようにして見ていた。飼い主たちが自分の家の猫を抱いたまま、パント―と比べていて
「うちの猫がずっときれいだわ」
と、自慢げに話しているのが聞こえた。
妻猫には人の言葉が分からないので、話の内容が理解できなくて、よかった。そうでなかったら、ひどく傷ついていたに違いない。
校長と李先生が音楽室にやってくると、それからまもなく演奏会が始まった。パント―の出番は一番最後だった。李先生がパント―を抱いて鍵盤の上に載せたとき、飼い主たちの間で笑いが起きた。ほほえましい笑いではなくて、せせら笑いであることが、ぼくには分かった。
「みなさん、この猫をばかにするのはおやめください」
校長がいすから立ち上がって、注意をうながした。
「わしも初めてこの猫を見たときは、のろまで、どうしようもない猫だと思った。音感もまったくない猫だったから、この猫にピアノが弾けるわけがないと思った。ところが何と、この猫に信じられないような奇跡が起きたんだ」
校長が晴れやかな顔で、パント―を紹介していた。
校長の話を聞いても、ほかの猫の飼い主たちは、何のことだかよく分からないで、気に留める様子は微塵もなくて、あいかわらず、げらげら笑っていた。
(飼い主たちの心ない嘲笑がパント―の気持ちを動揺させるのではないだろか)
ぼくはそう思って、とても心配していた。しかし杞憂にすぎなかった。パントーは思っていた以上に、とても落ち着いていた。観客席からの野次や冷ややかな視線を少しも気にしないで、ピアノの鍵盤と李先生の指揮棒にだけ注意を払っていた。
李先生の指揮棒がリズミカルに振られていたときには、パント―は蝶のように軽やかに鍵盤の上を行ったり来たりしていた。ピアノからはそのとき様々な大きさの真珠の玉が、ころころと転がっていくような音が出ていた。李先生の指揮棒が力強く、ぐいぐいと振られているときには、パント―は鍵盤の上を小刻みに跳びはねて、魂に訴えるような激しい音を出していた。李先生が緩やかに指揮棒を振っているときには、パント―は鍵盤の上に横になって、太っている体を、まりのように転がしていた。するとそのときは何かを切々と訴えているような妖艶な旋律が流れていた。
「あー、なんて素敵な音楽なんでしょう。パント―が演奏しているなんて、信じられないわ。美しすぎる」
妻猫は、感動のあまり、声を出していた。
「しー、しー」
ぼくは慌てて、妻猫の口をふさいだ。
さっきまでパント―のことを、ばかにしていた人たちも、今はみんな、魅入られたように、しーんとなって、スマートフォンを取り出して、先を争うようにして、パント―の写真を撮っていた。
それからまもなくパントーの卒業演奏が終わり、ぼくと妻猫とパントーは意気揚々として、学校を後にした。
「あー、何て幸せなんでしょう」
妻猫の顔には喜びがあふれていた。
「お父さん」
「何」
「私がこれまで成し遂げた中で、一番誇らしく思っていることは何だか分かりますか」
妻猫がきいた。
「もちろん、あの高い塔のてっぺんに、母さんだけが立つことができたことだろう」
ぼくは自信をもって、そう答えた。
「ぶー、はずれでーす」
妻猫が、茶目っ気たっぷりに、くつくつしていた。
「私が成し遂げた一番の誇りは、三匹の有能な子猫を育てたことですよ」
妻猫の顔が、咲きたてのバラの花のように輝いていた。
確かに、パント―も、アーヤーも、サンパオも、妻猫の優秀な遺伝子をみんな受け継いでいる。パント―は、ひたむきさと真面目さを受け継いだ。アーヤーは美しさと品格を受け継いだ。サンパオは知性を受け継いだ。もちろん、ぼくから子供たちが受け継いだものも、何かあるだろうけど、それは何かなあ……
そんな話に花を咲かせているうちに、ぼくと妻猫とパントーは翠湖公園に帰ってきた。
ところが、またたくまにパント―の姿が見えなくなった。でもどこへ行ったのか、ぼくは知っている。ここ数日、パント―はペット曲芸学校から帰ってくると、いつもイチョウ林へ行っていたからだ。
ぼくはイチョウ林のほうへかけていった。あの、不思議なことをする男の子を探さなければならない。
(あっ、いた)
数日前と同じように、男の子は両手を上に挙げながら、イチョウの木の周りを、くるくる回っていた。男の子の近くにパント―がいて、瞳をじっと凝らしながら男の子を見ていた。
「お前は、いつもここに来て、男の子を見ているが、何がそんなに面白いんだ」
ぼくはパント―に聞いた。
「この子はどうしていつも手を挙げて歩いているのなあと思って」
パント―は目を男の子にくぎ付けにしたまま、そう答えた。
「この子が生まれた星では、みんな、そうやって歩いているのかもしれないよ」
口から出まかせに、ぼくはそう答えた。
「ニャーン、ニャン、ニャーン」
パントーが不意に大きな声で鳴いた。ぼくはびっくりして、はじかれたように跳び上がった。
「何なのだ。いきなり、そんな声を出して。びっくりするじゃないか」
ぼくはパントーを、きつい目で見た。
「ごめんなさい。びっくりさせようと思ったのは、お父さんではなくて、あの男の子のほう」
パントーがそう答えた。
ところが、男の子は何事もなかったかのように、イチョウの木の周りを、くるくる回り続けていた。
「どうしてこの男の子は少しも反応しなかったの」
パント―が不思議そうな顔をしていた。
「この子が生まれた星には音がないので、音が聞こえないのかもしれないよ」
ぼくは想像力をフルに発揮して、そう答えるしかなかった。
「ケンカのふりをしてみようか、びっくりするかどうか……」
パント―が興に乗っていた。ぼくは応じることにした。
 ぼくとパント―は、向かい合って、恐ろしい形相をしてにらみあった。歯をむき出して爪を立てて、口からは
「ウー、ガオー、ウー、ウー」
と、ライオンがほえるような鋭い声を出した。地面が揺れるほど迫力満点の演技だった。ところが男の子には全然聞こえないのか、少しも見えないのか、ぼくとパントーの殺気だったケンカの演技には少しも目もくれないで、相変わらず両手を挙げたまま、イチョウの木の周りを、くるくる回っていた。
(この子が生まれた星では、みんな、こうなんだろうか)
ぼくとパント―が熱演したのに、空振りだったことを知って、ぼくは思わず
「あははー」
と、高笑いするしかなかった。
ちょうど、そのとき、男の子がぼくの前を通りかかってきて足を止めた。目は、そのとき、きょろきょろしていなくて、ぼくの顔をじっと見ていた。
(耳が聞こえないわけでも、目が見えないわけでもなかったんだ)
ぼくはそう思った。ぼくが微笑むと、男の子は無表情ながらも何か感じているよな目をしていた。
「この子、お父さんを見ているよ」
パント―が気がついて、そう言った。
「お父さん、もっと笑って。激しく笑って」
パント―にせき立てられて、ぼくはその気になった。ぼくが習得している笑い方の技術のすべてを出した。、がははっと笑ったり、くくくっと笑ったり、ひひひっと笑ったり、ふふふっと笑ったりした。すると男の子は不思議そうな顔をして、
ぼくの笑いをじっと見ていた。能面のような男の子の表情にそのあと変化が生じて、ぼくに、くすくすと笑いかけてきた。