第五章 老いらくさんの麗しい思い出
天気……昨夜、降り始めた雨が今日のお昼までずっと降り続いていて、気温が急に何度も下がった。
昨夜、パント―はぐっすり眠っていた。しかし、ぼくは、なかなか寝つけなくて、何度も寝返りを打っていた。
「お父さん、何か心配事でもあるの」
妻猫が聞いた。
「明日、どんな結果が待ってるのかなあと思って」
気がかりでたまらない胸のうちを、ぼくは妻猫に話した。
(パント―がとても気に入っている、ピアノの先生がパント―を学生にしてくれなかったらどうしよう……)
ぼくはそう思うと、気がかりで、ぐっすり寝てなんかいられなかった。
「音感がなくてもパント―を受け入れてくれるかもしれないじゃない」
妻猫がぼくに望みを持たせようとした。気休めを言ってくれているにすぎないと思ったが、その可能性もまったくないわけではない。半分は望みを抱きながら、ぼくは、とろとろと、まどろんでいた。
「お父さん、早く、起きて」
朝早く、ぼくはパント―に呼び起された。
「ピアノの先生に早く会いに行こうよ」
バント―は気がはやっていた。学生になれる可能性は半分しかないことを、パント―はまだ知らないでいる。
「お父さん、早く、早く」
パント―が、しきりに、せきたてたので、いつもは干し魚三切れを朝食にするのに、今朝は二切れ食べただけで、パント―のあとについて外へ出て行った。
老いらくさんは、もうすでに、うちの前まで来ていて、、ぼくたちを待っていてくれた。こんなに早く、老いらくさんが、うちの前まで来ていたとは、ぼくは思ってもいなかった。でもパントーはさほど、驚いてはいないようだった。バントーはずっと以前から、老いらくさんのことを、何をするか分からない不思議な妖怪だと思っていたからだ。
「老いらくさん、早く行こうよ」
朝のあいさつも、そこそこにパント―は老いらくさんを、せきたてた。
道すがら、パント―の心は、これまでにないほど嬉々としていた。期待で高ぶぶっている気持ちを乗せて、パント―は弾むような足取りで、ずっと、ぼくと老いらくさんの前を歩いていた。
「笑い猫、お前は、どうして、そんなにすぐれない顔をしているんだ」
パント―の気持ちとは裏腹に、ぼくの気持ちがいまひとつ、さえないのを見て、老いらくさんが声をかけた。
「わしが、いい先生を見つけてきて、パント―が喜んでいるというのに、お前はどうしてそんな複雑な顔をしているんだ」
老いらくさんが畳みかけてきた。
「ピアノの先生が、パント―を学生にしてくれるかどうか分からないからです。もし、してくれなかったら、パント―の喜びは、ぬか喜びに終わってしまう」
ぼくはパント―に、ほろにがい思いをさせたくなかった。
「大丈夫だよ。心配無用。そんなことは絶対にありえない」
老いらくさんが太鼓判を押した。
「わしには人を見る目がある。けっして見誤ることはない。わしを信用しなさい」
老いらくさんは胸をそらしながら、そう答えた。
「分かるよ。あの先生がいい人であることは分かるよ。ただ問題なのは、パント―のほうだよ」
ぼくは、もじもじしながら言った。
「パント―に何か問題があるのか」
老いらくさんが聞き返した。
「パント―には、まるっきり音感がないんだ」
ぼくは頭を抱えた。
「なーんだ、そんなことを心配していたのか。だったら無用。このわしに音感があるように見えるか」
老いらくさんが逆に問いかけてきた。
「見えません」
ぼくは正直に、そう答えた。
「だろう。確かにわしにも音感はないよ。でもピアノを弾いたことがあるよ。かなりうまく弾けるよ」
老いらくさんが意外なことを言ったので
「へぇー、弾けるの。信じられない」
ぼくは目を丸くしていた。
「話せば長くなるから、あとで話すことにしよう。今はとにかく学校へ急ごう」
老いらくさんはそう言って、せかせかしていた。
ペット曲芸学校に着くと、リンゴの形をした音楽室へ直行して、そこのドアの前にパント―を待たせてから、ぼくは校長室へ、おずおずと昨日の結果を聞きに
行った。校長室の前まで来たとき、ぼくの心臓はぱくぱくして、頭に血がのぼって、もう少しで、ぶっ倒れそうになった。緊張していたというよりも、よくない結果を伝えられたときの無念さが怖かったからだ。覚悟を決めて中に入っていくと、校長がぼくに気がついて、にっこりしながら
「お前たちをピアノの李先生のところに連れて行こう」
と言ってくれた。
ぼくはうれしくてたまらなくなった。感謝感激の念が、心の中に、ふつふつとわいてきて、胸いっぱいに広がっていった。さすが校長は大の猫好きで、猫研究の専門家だけのことはある。名に恥じない、味なことをしてくれた。ありがとうという気持ちを伝えるために、ぼくは、にこにこ笑った。
「あれっ、お前の子供はどこにいるんだ」
パント―の姿が見えないのを気にして、校長が辺りを、きょろきょろ見まわしていた。
ぼくは音楽室のほうへ走っていった。校長もあとからついてきた。音楽室の前まで走ってくると、そこにパント―はいなかった。てっきり、そこで待っているものとばかり思っていたのに、あてが外れた。
(パント―はどこに行ったのだろう。もしかしたら、ドアのすきまから中に入っていったのではないだろうか)
ぼくはそう思いながら、ドアの前で、校長の到着を待った。
校長は息せき切って、音楽室の前までやってくると、ぼくを連れて、中に入っていった。
やはり、思っていた通り、パント―は中にいた。外から不意に入ってきたパント―を、李先生は追い出さなかったのだ。
(ひょっとしたら気に入ってくれたのかも……)
ぼくは、いいことが起こりそうな気がした。
「その猫が、昨日、わしが話していた猫だよ」
校長が李先生にパント―を紹介していた。
「本当にかわいい子猫ちゃんね」
李先生は、にこにこしながら、そう答えていた。
「この子猫ちゃんは、中に入ってきてからずーっと、私が弾くピアノに静かに耳を傾けていたのよ。よほどピアノが好きみたいだわ」
鈴を転がすような李先生の美しい声が、音楽室に柔らかく響いていた。
それを聞いて、ぼくは、むずむずしていた。
(本当はピアノではなくて、李先生が好きなんですよ、この子は)
と、李先生に教えてあげたいくらいだった。
校長はそのあと、李先生にぼくのことを紹介してくれた。
「こちらの猫は、その子のお父さんだ。不思議な猫だよ。笑ったり、人の話が分かるんだ」
「えっ、うそー」
李先生が、きつねに、つままれたような顔をしていた。
「うそじゃないよ。本当だよ。なあ、お前」
ぼくは、こっくりうなずいた。
「本当に……信じられない……じゃあ、私にちょっと笑ってみせてよ」
李先生はそう言いながら、柳のようにしなやかな手で、ぼくを抱きあげた。ぼくはとても気持ちがよかったので、とびっきりの笑顔を見せた。
「わぁ、すごいわ。本当に笑っている。信じられない……とりこになってしまいそう」
李先生は、うっとりした顔をしながら、ぼくのほおにキスをしてくれた。
「わしもその猫の笑顔に魂を奪われて、ふぬけにさせられている。よわったよ」
校長が相好を崩していた。
「この子猫ちゃんに音感があってもなくても、私はぜひピアノを教えたいわ」
李先生がパント―のことを快く引き受けてくれたので、ぼくはとても嬉しかった。
李先生の授業の邪魔にならないように、ぼくと校長は音楽室から出て行った。
ぼくと老いらくさんは音楽室の外でパント―の授業が終わるのを待っていた。
(あっ、そうだ。あの話を聞かなくっちゃ)
ぼくは今朝の話を思い出した。
「老いらくさんは、ピアノをいつ習ったのですか」
ぼくは興味深く思っていた。
「習ったとは言ってないだろ。弾いたことがあると言っただろ」
老いらくさんが仏頂面をしていた。
「細かいことはどうでもいいから、いつ、どこで、どうやって弾いたのか、教えてください」
ぼくは興味がますますわいてきて、やまなかった。
「あれはもうずいぶん昔のことになるなぁ……」
老いらくさんが懐かしそうに思い出を語り始めた。
「わしがまだ若かったころ、頭の中には、よこしまな考えがいっぱいあった。腹の中には、悪だくみが、どろのように、たまってたいた。どれくらい悪事を働いたか分からないくらいだ」
その話は聞き飽きていたので、-ぼくは渋りながら話の腰を折った。
「そんなこと、どうでもいいから、くどくど言わないで、はやくピアノの話をしてくださいよ」
「そんなにせかさないでくれよ。順を追って話しているんだから」
ピアノにまつわる麗しい思い出を老いらくさんは整理しているようだった。
「あれは冬の日のことだった。正月が間近のある日、わしは人の家にこっそり忍び込んでソーセージを食っていた。たらふく食ったあと、うつらうつら舟をこいでいた。するとそのとき、どこからか子猫が一匹やってきた。わしはびっくりして、あわてて逃げようとした。ところが子猫はわしをつかまえようとはしないで、珍しそうに見ているだけだった。生まれてからまもない子猫だったから、ネズミを見つけたら、つかまえて食うということを知らなかったのだろうと思った。そこでわしは突拍子もないことを思いついた。この子猫と友だちになって遊びたいと思ったんじゃ」
老いらくさんの目が輝いていた。老いらくさんが、ぼくと友だちになる前に、ほかの猫とむつまじくしていたとは思ってもいなかった。
「わしと子猫が客間に行くと、ピアノがあった。興味をそそられて、わしはピアノの鍵盤に跳びのった。白鍵の上でぴょんぴょん跳んでいるときは、心も体も浮き浮きするような楽しい音が出た。黒鍵の上でぴょんぴょん跳んでいるときは、深くて重みのある音が出た。体を横にして鍵盤の上を転がると、転がり方によって違った音が出た。ゆっくり転がっているときには、穏やかな音が出て、心が癒されるように感じた。速く転がっているときには、激しい音が出て嵐に打たれているように感じた。音の変化を、わしも子猫も我を忘れるほど夢中になって聞いていた……」
老いらくさんは美しい思い出に酔いしれていた。
「そのあと、どうなったの」
続きを早く知りたくなって、ぼくは身を乗り出すようにして聞いた。
「そのあと、わしは毎日、子猫の家に行った。でももうソーセージを盗み食いすることはしなかった。ただひたすら子猫にピアノを聞かせるためにだけ行っていた。子猫は家から出たことがなかったから、外の世界はまるっきり知らないでいた。外の世界を教えてあげたかったが、わしが話す言葉を子猫は分からなかったから、どうしようもなかった。そこでわしはピアノの音で外の世界を伝えることを、ふっと思いついた。音楽は世界共通の言葉だから、聞いたら、だれにでも分かるからだ。ピアノの低音部は荘厳な音が出るから、暗い夜が明けて、東の空から太陽が昇ってくるのを表現するのにぴったりだ。わしは低音部を使って、その情景を子猫に伝えた。ピアノの高音部は軽やかな音が出るから、小鳥のさえずりを表現するのにぴったりだ。わしは高音部を使って、その情景を子猫に伝えた。両手と両足を広げながら、鍵盤の端から端へ向かってゆっくり歩いていくと、日が暮れて、かぐわしい花の香りが夕風に乗って漂ってきたり、水のように澄みわたった月の光が、こうこうと輝いている情景が子猫に伝わっていった。鍵盤の上を転がっていくと、小川の水がさらさら流れていって、川の上に星がまたたいている情景が子猫に伝わっていった」
老いらくさんはピアノで子猫に伝えた情景を詳しく話してくれた。
「何てロマンチックな話なんでしょう」
美しい話に、ぼくはすっかり酔いしれていた。
「だが夢のような楽しいひとときは、長くは続かなかった。わしが子猫の飼い主に見つかってしまったからだ」
老いらくさんは、ため息をついた。
「それ以来、あの子猫に会ったことがない……」
老いらくさんの切ない思いが伝わってきた。
天気……昨夜、降り始めた雨が今日のお昼までずっと降り続いていて、気温が急に何度も下がった。
昨夜、パント―はぐっすり眠っていた。しかし、ぼくは、なかなか寝つけなくて、何度も寝返りを打っていた。
「お父さん、何か心配事でもあるの」
妻猫が聞いた。
「明日、どんな結果が待ってるのかなあと思って」
気がかりでたまらない胸のうちを、ぼくは妻猫に話した。
(パント―がとても気に入っている、ピアノの先生がパント―を学生にしてくれなかったらどうしよう……)
ぼくはそう思うと、気がかりで、ぐっすり寝てなんかいられなかった。
「音感がなくてもパント―を受け入れてくれるかもしれないじゃない」
妻猫がぼくに望みを持たせようとした。気休めを言ってくれているにすぎないと思ったが、その可能性もまったくないわけではない。半分は望みを抱きながら、ぼくは、とろとろと、まどろんでいた。
「お父さん、早く、起きて」
朝早く、ぼくはパント―に呼び起された。
「ピアノの先生に早く会いに行こうよ」
バント―は気がはやっていた。学生になれる可能性は半分しかないことを、パント―はまだ知らないでいる。
「お父さん、早く、早く」
パント―が、しきりに、せきたてたので、いつもは干し魚三切れを朝食にするのに、今朝は二切れ食べただけで、パント―のあとについて外へ出て行った。
老いらくさんは、もうすでに、うちの前まで来ていて、、ぼくたちを待っていてくれた。こんなに早く、老いらくさんが、うちの前まで来ていたとは、ぼくは思ってもいなかった。でもパントーはさほど、驚いてはいないようだった。バントーはずっと以前から、老いらくさんのことを、何をするか分からない不思議な妖怪だと思っていたからだ。
「老いらくさん、早く行こうよ」
朝のあいさつも、そこそこにパント―は老いらくさんを、せきたてた。
道すがら、パント―の心は、これまでにないほど嬉々としていた。期待で高ぶぶっている気持ちを乗せて、パント―は弾むような足取りで、ずっと、ぼくと老いらくさんの前を歩いていた。
「笑い猫、お前は、どうして、そんなにすぐれない顔をしているんだ」
パント―の気持ちとは裏腹に、ぼくの気持ちがいまひとつ、さえないのを見て、老いらくさんが声をかけた。
「わしが、いい先生を見つけてきて、パント―が喜んでいるというのに、お前はどうしてそんな複雑な顔をしているんだ」
老いらくさんが畳みかけてきた。
「ピアノの先生が、パント―を学生にしてくれるかどうか分からないからです。もし、してくれなかったら、パント―の喜びは、ぬか喜びに終わってしまう」
ぼくはパント―に、ほろにがい思いをさせたくなかった。
「大丈夫だよ。心配無用。そんなことは絶対にありえない」
老いらくさんが太鼓判を押した。
「わしには人を見る目がある。けっして見誤ることはない。わしを信用しなさい」
老いらくさんは胸をそらしながら、そう答えた。
「分かるよ。あの先生がいい人であることは分かるよ。ただ問題なのは、パント―のほうだよ」
ぼくは、もじもじしながら言った。
「パント―に何か問題があるのか」
老いらくさんが聞き返した。
「パント―には、まるっきり音感がないんだ」
ぼくは頭を抱えた。
「なーんだ、そんなことを心配していたのか。だったら無用。このわしに音感があるように見えるか」
老いらくさんが逆に問いかけてきた。
「見えません」
ぼくは正直に、そう答えた。
「だろう。確かにわしにも音感はないよ。でもピアノを弾いたことがあるよ。かなりうまく弾けるよ」
老いらくさんが意外なことを言ったので
「へぇー、弾けるの。信じられない」
ぼくは目を丸くしていた。
「話せば長くなるから、あとで話すことにしよう。今はとにかく学校へ急ごう」
老いらくさんはそう言って、せかせかしていた。
ペット曲芸学校に着くと、リンゴの形をした音楽室へ直行して、そこのドアの前にパント―を待たせてから、ぼくは校長室へ、おずおずと昨日の結果を聞きに
行った。校長室の前まで来たとき、ぼくの心臓はぱくぱくして、頭に血がのぼって、もう少しで、ぶっ倒れそうになった。緊張していたというよりも、よくない結果を伝えられたときの無念さが怖かったからだ。覚悟を決めて中に入っていくと、校長がぼくに気がついて、にっこりしながら
「お前たちをピアノの李先生のところに連れて行こう」
と言ってくれた。
ぼくはうれしくてたまらなくなった。感謝感激の念が、心の中に、ふつふつとわいてきて、胸いっぱいに広がっていった。さすが校長は大の猫好きで、猫研究の専門家だけのことはある。名に恥じない、味なことをしてくれた。ありがとうという気持ちを伝えるために、ぼくは、にこにこ笑った。
「あれっ、お前の子供はどこにいるんだ」
パント―の姿が見えないのを気にして、校長が辺りを、きょろきょろ見まわしていた。
ぼくは音楽室のほうへ走っていった。校長もあとからついてきた。音楽室の前まで走ってくると、そこにパント―はいなかった。てっきり、そこで待っているものとばかり思っていたのに、あてが外れた。
(パント―はどこに行ったのだろう。もしかしたら、ドアのすきまから中に入っていったのではないだろうか)
ぼくはそう思いながら、ドアの前で、校長の到着を待った。
校長は息せき切って、音楽室の前までやってくると、ぼくを連れて、中に入っていった。
やはり、思っていた通り、パント―は中にいた。外から不意に入ってきたパント―を、李先生は追い出さなかったのだ。
(ひょっとしたら気に入ってくれたのかも……)
ぼくは、いいことが起こりそうな気がした。
「その猫が、昨日、わしが話していた猫だよ」
校長が李先生にパント―を紹介していた。
「本当にかわいい子猫ちゃんね」
李先生は、にこにこしながら、そう答えていた。
「この子猫ちゃんは、中に入ってきてからずーっと、私が弾くピアノに静かに耳を傾けていたのよ。よほどピアノが好きみたいだわ」
鈴を転がすような李先生の美しい声が、音楽室に柔らかく響いていた。
それを聞いて、ぼくは、むずむずしていた。
(本当はピアノではなくて、李先生が好きなんですよ、この子は)
と、李先生に教えてあげたいくらいだった。
校長はそのあと、李先生にぼくのことを紹介してくれた。
「こちらの猫は、その子のお父さんだ。不思議な猫だよ。笑ったり、人の話が分かるんだ」
「えっ、うそー」
李先生が、きつねに、つままれたような顔をしていた。
「うそじゃないよ。本当だよ。なあ、お前」
ぼくは、こっくりうなずいた。
「本当に……信じられない……じゃあ、私にちょっと笑ってみせてよ」
李先生はそう言いながら、柳のようにしなやかな手で、ぼくを抱きあげた。ぼくはとても気持ちがよかったので、とびっきりの笑顔を見せた。
「わぁ、すごいわ。本当に笑っている。信じられない……とりこになってしまいそう」
李先生は、うっとりした顔をしながら、ぼくのほおにキスをしてくれた。
「わしもその猫の笑顔に魂を奪われて、ふぬけにさせられている。よわったよ」
校長が相好を崩していた。
「この子猫ちゃんに音感があってもなくても、私はぜひピアノを教えたいわ」
李先生がパント―のことを快く引き受けてくれたので、ぼくはとても嬉しかった。
李先生の授業の邪魔にならないように、ぼくと校長は音楽室から出て行った。
ぼくと老いらくさんは音楽室の外でパント―の授業が終わるのを待っていた。
(あっ、そうだ。あの話を聞かなくっちゃ)
ぼくは今朝の話を思い出した。
「老いらくさんは、ピアノをいつ習ったのですか」
ぼくは興味深く思っていた。
「習ったとは言ってないだろ。弾いたことがあると言っただろ」
老いらくさんが仏頂面をしていた。
「細かいことはどうでもいいから、いつ、どこで、どうやって弾いたのか、教えてください」
ぼくは興味がますますわいてきて、やまなかった。
「あれはもうずいぶん昔のことになるなぁ……」
老いらくさんが懐かしそうに思い出を語り始めた。
「わしがまだ若かったころ、頭の中には、よこしまな考えがいっぱいあった。腹の中には、悪だくみが、どろのように、たまってたいた。どれくらい悪事を働いたか分からないくらいだ」
その話は聞き飽きていたので、-ぼくは渋りながら話の腰を折った。
「そんなこと、どうでもいいから、くどくど言わないで、はやくピアノの話をしてくださいよ」
「そんなにせかさないでくれよ。順を追って話しているんだから」
ピアノにまつわる麗しい思い出を老いらくさんは整理しているようだった。
「あれは冬の日のことだった。正月が間近のある日、わしは人の家にこっそり忍び込んでソーセージを食っていた。たらふく食ったあと、うつらうつら舟をこいでいた。するとそのとき、どこからか子猫が一匹やってきた。わしはびっくりして、あわてて逃げようとした。ところが子猫はわしをつかまえようとはしないで、珍しそうに見ているだけだった。生まれてからまもない子猫だったから、ネズミを見つけたら、つかまえて食うということを知らなかったのだろうと思った。そこでわしは突拍子もないことを思いついた。この子猫と友だちになって遊びたいと思ったんじゃ」
老いらくさんの目が輝いていた。老いらくさんが、ぼくと友だちになる前に、ほかの猫とむつまじくしていたとは思ってもいなかった。
「わしと子猫が客間に行くと、ピアノがあった。興味をそそられて、わしはピアノの鍵盤に跳びのった。白鍵の上でぴょんぴょん跳んでいるときは、心も体も浮き浮きするような楽しい音が出た。黒鍵の上でぴょんぴょん跳んでいるときは、深くて重みのある音が出た。体を横にして鍵盤の上を転がると、転がり方によって違った音が出た。ゆっくり転がっているときには、穏やかな音が出て、心が癒されるように感じた。速く転がっているときには、激しい音が出て嵐に打たれているように感じた。音の変化を、わしも子猫も我を忘れるほど夢中になって聞いていた……」
老いらくさんは美しい思い出に酔いしれていた。
「そのあと、どうなったの」
続きを早く知りたくなって、ぼくは身を乗り出すようにして聞いた。
「そのあと、わしは毎日、子猫の家に行った。でももうソーセージを盗み食いすることはしなかった。ただひたすら子猫にピアノを聞かせるためにだけ行っていた。子猫は家から出たことがなかったから、外の世界はまるっきり知らないでいた。外の世界を教えてあげたかったが、わしが話す言葉を子猫は分からなかったから、どうしようもなかった。そこでわしはピアノの音で外の世界を伝えることを、ふっと思いついた。音楽は世界共通の言葉だから、聞いたら、だれにでも分かるからだ。ピアノの低音部は荘厳な音が出るから、暗い夜が明けて、東の空から太陽が昇ってくるのを表現するのにぴったりだ。わしは低音部を使って、その情景を子猫に伝えた。ピアノの高音部は軽やかな音が出るから、小鳥のさえずりを表現するのにぴったりだ。わしは高音部を使って、その情景を子猫に伝えた。両手と両足を広げながら、鍵盤の端から端へ向かってゆっくり歩いていくと、日が暮れて、かぐわしい花の香りが夕風に乗って漂ってきたり、水のように澄みわたった月の光が、こうこうと輝いている情景が子猫に伝わっていった。鍵盤の上を転がっていくと、小川の水がさらさら流れていって、川の上に星がまたたいている情景が子猫に伝わっていった」
老いらくさんはピアノで子猫に伝えた情景を詳しく話してくれた。
「何てロマンチックな話なんでしょう」
美しい話に、ぼくはすっかり酔いしれていた。
「だが夢のような楽しいひとときは、長くは続かなかった。わしが子猫の飼い主に見つかってしまったからだ」
老いらくさんは、ため息をついた。
「それ以来、あの子猫に会ったことがない……」
老いらくさんの切ない思いが伝わってきた。