第四章 きれいなピアノの先生

天気……春の訪れを告げる天女が本当にやってきた。美しい春の光が柔らかく降りそそぎ、翠湖公園の中には生命力がみなぎっていて、、春の息吹がいっぱい、あふれている。

パント―はまた、惰眠をむさぼり始めていた。
「パント―、早く起きろ。学校に行く時間だ」
ぼくはパントーに声をかけた。
「ぼくは行かない……」
バント―は伸びをしながら、けだるそうに答えた。
「あのコーチはとても怖いから、行きたくない……」
パント―は、なかなか起きようとはしなかった。
「あのコーチに会いに行くんじゃない。ほかのいい先生を探しに行くんだ」
ぼくがそう言うと、パント―が目を丸くして
「本当」
と、聞き返してきた。ぼくがうなずくと、パント―は寝返りを打ってから、がばっと起き上がった。
(パント―は学校が嫌いではなかったんだ。あのコーチに会いたくないと思っていただけだったのだ)
そのことが分かって、ぼくは、ほっとした。
朝食をすませると、ぼくはパント―を連れて、うちを出た。アーチ橋の上に行くと、老いらくさんが、もうすでに来ていて、ぼくたちを待っていてくれた。
ペット曲芸学校に行く道すがら、パント―は、期待に胸をふくらませていた。でも学校に着いたとたん、パント―の顔色が急に変わって、おじけづいているような色が、ありありと、うかがえた。パントーの目は、つり輪がぶらさげてある運動場の一角をじっと見すえていた。あの恐ろしいコーチがむちを振るって怒鳴りながら、犬に輪くぐりを教えていた。パント―はそれを見て、体の向きをくるっと変えて、うちへ帰ろうとした。
「パント―、パント―、ちょっと待てよ」
ぼくは慌ててパント―を追いかけた。
「怖がらなくていいよ。お前が気に入った先生を探しに行くのだから」
 輪くぐりを教えるコーチを避けるようにして、ぼくとパントーと老いらくさんは運動場の反対側に行った。そこにはハードル跳びを教えるところがあった。ハートル跳びを教えるコーチは見たところ、輪くぐりを教えるコーチほど怖そうではなかった。しかし顔の表情は無表情で、氷のように冷たい性格に見えた。
「このコーチは好きになれそうか」
ぼくはパントーの顔色を、うかがった。
「好きじゃない」
パント―が首を横に振った。
「じゃあ、ほかのところへ探しにいこうよ」
パント―が、うなずいた。
 老いらくさんの姿が急に消えて、近くに見あたらないことに、ぼくは、ふっと気がついた。
(どこに行ったのだろう)
そう思いながら、四方八方を見まわした。すると、遠いところから、転がるように急いで戻ってきているのが見えた。ぼくとパント―も、老いらくさんのほうに向かって走っていった。
「どこに行ってたのですか」
ぼくは、息をはあ、はあ切らしながら、聞いた。
「パント―にふさわしい先生を探しに行ってたんだ。穏やかで優しそうな先生を見つけたよ」
老いらくさんが晴れやかな顔をしていた。
「何を教える人ですか」
興味をそそられて、ぼくは聞き返した。
「お前には想像できないだろうなあ」
という答が返ってきた。
もったいぶった言い方に、ぼくはますます、好奇心をかりたてられた。
 ぼくとパント―は老いらくさんについていった。リンゴの形をしたかわいい家の前に来たとき
「ここだよ」
と、老いらくさんが言った。
家のドアは、カギが開いていて、押せばすぐ開くようになっていた。家の中からピアノの音が聞こえてきた。ドアのすき間から、中をそっとのぞくと、何と、ピアノを弾いていたのは人ではなくて猫だった。真っ白い猫がピアノの上を歩きながら、足で音を出していた。猫は一つ置きに並んでいる黒鍵と白鍵の上をモザイクの歩道のように気持ちよく歩いていた。左から右に歩くと、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドという音が鳴っていた。右から左に引き返すと、ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ドという音が鳴っていた。
 猫にピアノを教えていたのは、きれいな女の先生だった。目はぱっちりして、優しそうなまなざしで猫を見ていた。声はとても穏やかで、親しみやすい話し方をする先生だった。
「いいよ。その調子よ。上手だね」
先生は猫なで声で、そう言いながら、猫の気持ちを上手に乗せていた。先生は、手に、ピカピカ光る指揮棒を持っていた。指揮棒を軽やかに振っているときには、猫は鍵盤の上を優雅に、ゆったりと歩いていた。するとピアノからは春風のように浮き浮きする音が出ていた。先生が指揮棒を情熱的に激しく振っているときには、猫は鍵盤の上で、ぴょんぴょん跳びはねて、燃えるような熱い思いを表現していた。するとピアノからは嵐のような荒々しい音が出ていた。
 それを見て、ぼくは猫を巧みに指揮する、このきれいな女の先生のとりこになった。パント―も同じだった。
「ぼくは、この先生が大好きになった」
パント―が、鼻の下を伸ばしていた。
「どうだい、わしには人を見る目があるだろう」
老いらくさんが得意満面の顔をして、ぼくに聞いた。
「ぼくに聞かないでよ。パント―がここにいるじゃない」
ぼくはパント―に聞いた。
「お前はピアノに興味があるか」
「分からない。でも、この優しそうな女の先生がとても好き」
パント―は照れたような顔をしていた。
パント―が、この女の先生にピアノを習いたいと思っているのなら、ぼくは校長にお願いに行かなければならない。ぼくはそう思ってパント―を連れて、校長室に行った。校長は、パント―が輪くぐりを学びたくなくなったことを、もうすでに知っているようだった。
「やはり、わしが思っていた通りだったよ」
予想が当たったことを知って、校長は、にやにやしていた。
「輪くぐりが上手にできる猫は、体がしなやかで美しい。動作も機敏」
 校長が言おうとしていることが、ぼくには分かった。要するに、パント―は太っていて、動きが鈍いから、輪くぐりが上手にできないと言いたいのだろう。
ぼくは心持ちがよくなかったので、校長に
(パント―が輪くぐりを学びたくなくなったのは、太りすぎているためではありません。不器用だからでもありません。鬼のようなコーチが嫌いだからです)
と、言ってやりたかった。でもぼくは、人の言葉は話せないので、どうしようもない。ぼくが、もどかしそうな顔をしていると、校長が
「わしはとても忙しいから、さっさと、うちへ帰り」
と言って、ぼくとパント―を部屋から追い出そうとした。
 それを見て、ぼくは校長に向かって、トレードマークの微笑みを、また浮かべた。校長はぼくの微笑みの魅力に、心底ほれて、いかれているので、もう、部屋から追い出すことはしなかった。校長は猫の写真がいっぱい貼られている壁のほうへ歩いていって
「お前はこの子に何を学ばせたいのか」
と聞いた。
ぼくはジャンプをして、ピアノの写真に体を、どーんとぶつけた。
「えっ、ピアノを学ばせたいのか」
 校長はピアノの写真を指で指しながら、目をパチクリさせていた。
「お前は本当にこれを学ばせたいのか」
ぼくは、にっこり笑った。
「わしがこの前、この子に適性検査をしたとき、音感がまったくなかったじゃないか。どうやってピアノを学ばせるのだ」
校長が、けげんそうな顔をしていた。
 ぼくは校長に向かって、トレードマークの微笑みを、また浮かべた。
「分かった、分かった。じゃあ、もう一度、その子のリズム感をテストしてみよう」
校長はそう言ってから、パント―のそばに行って、手拍子で
「タン、タタ、タンタン、タタ……」
と、リズムを取った。
 ぼくは校長のリズムに合わせて、顔を動かしながら、小さな声でパント―に
「父さんのする通りにしなさい」
と言った。
 でもパント―は、いい加減に顔を動かして、校長のリズムとは、まったく合っていなかった。
「音を聞き取る力がまったくない。リズム感もよくない」
校長はパント―に、失望して、重いため息をついた。
校長がそのあと何と言うか、容易に想像がついた。言われる前に、先手を打って、またまた、校長をしびれさせるような、百万ドルの微笑みで、校長を金縛りにするしかなかった。
「分かった、分かった」
校長は、どうしたらよいか結論が下せずに思案に暮れていた。
「ピアノの李先生が受け入れるかどうか分からないが、明日、返事を聞きに来なさい」
校長はそう言って、ぼくたちにひとまず、うちに帰るように言った。
うちへ帰る途中、パント―が
「校長はどうしてすぐ、ピアノ教室に連れていかなかったの」
と、聞いた。
「校長はピアノの李先生にお前のことをまず話さなければならないから、明日、来るように言ったんだよ」
ぼくは、そう答えた。
(あのきれいな李先生が、音感に乏しいパント―を学生にしてくれるだろうか)ぼくの心に少し不安がよぎった。