第一章 笑い猫の気がかり
天気……小正月が過ぎた。外はまだ少し寒いが、向かい風は、もう骨身に染みるほど冷たくはない。風の音がとても柔らかくなってきた。春の訪れを告げる天女の軽やかな足音が、もう聞こえてきたかのようだ。
ぼくたちが住んでいる町では、小正月が過ぎると、春節が終わり、新しい生活がまた始まる。子供たちは学校へ行く準備を始めていた。昨日、馬小跳と唐飛と張達と毛超と杜真子は、朝早く、ぼくが住んでいる翠湖公園の山洞にやってきて、今朝の始業式のことについて話していた。
アーヤーとサンパオもまた忙しくなってきた。
「時間が足りないわねぇ……」
「一日が四十八時間あったらいいのに……」
アーヤーもサンパオも、もどかしそうにしていた。
「ぼくは何もすることがないから、退屈で仕方がないよ。アーヤーとサンパオに、ぼくの時間を少し分けてあげることができたらいいのに……」
パント―は、じれったさそうにしていた。
朝食をすませたばかりだというのに、パント―はもう
(早く、お昼にならないかなぁ……)
と、思っていた。昼食をすませると、今度は
(早く、夕方にならないかなぁ……)
と、ぶつぶつ言っていた。パント―はけだるそうに、何度も足や背筋を伸ばしながら、屈伸運動をしていた。
「時間がたつのは本当に遅いねぇ……」
ぶつぶつと、時間に文句を言っているようなありさまだった。
「そのように思うのは、あなたに何もすることがないからですよ」
妻猫がパント―に言った。
「アーヤーとサンパオには、しなければならないことがたくさんあるから、時間がたつのが、とても速く感じられるのですよ」
妻猫が言うのも、もっともだった。
「ぼくだって何かしたいよ」
パント―は真顔で、そう答えた。
「ぼくもアーヤーのように病院に行って、植物状態になっている人に歌を歌って聞かせたり、耳に障害がある人を手伝って、新聞を売ったりしたいよ。サンパオのように、盲導猫になって、目に障害がある人のお役に立ちたいよ。でもぼくには、何もできない」
パント―は、しょんぼりと、うなだれていた。
「お父さんも、お母さんも、こんなぼくを情けないと思っているでしょう」
パントーは、ますます、しょげていた。
ぼくは妻猫と目を合わせた。以心伝心で、お互いの心の中が分かった。
「何を言ってるのよ、パント―。そんなことないわよ。父さんも母さんも、お前のことをそんなふうには少しも思っていないわよ」
妻猫は、パント―のほおに優しくキスをした。
「お前はどうして、そのように思うのよ」
「だってぼくはアーヤーやサンパオのように優秀ではないから」
パント―の心は深い海の底に沈んでいるように思えた。
「母さんの心の中では、パントーもアーヤーもサンパオも、みんな同じよ。お前たち、みんなが、母さんの、大切な、かけがえのない宝よ」
妻猫は、そう言って、いとおしそうに、パント―を抱きしめた。
「この世の中にアーヤーは、ほかにはいない。サンパオも、ほかにはいない。パント―も、ほかにはいない。みんな違って、みんないい」
ぼくも、そう言って、パント―に、熱い思いを伝えた。
「ぼくのような無能な子供でも、かけがえのない宝なの」
パント―は、半信半疑のまなざしを、妻猫に向けた。
「当たり前じゃない。この広い世の中に、パント―は、お前しかいないのよ」
妻猫が間、髪を入れず、そう答えていた。
「父さんと母さんが、お前のことを、どれほど愛しているか、お前はまったく分かっていないんだね」
妻猫が、ぶつくさ言っていた。
「お前はアーヤーやサンパオほど優秀ではないと思っているようだが、お前がまだ自分にふさわしい仕事を見つけていないからだよ。そのような仕事を見つけさえすれば、お前もその日から、アーヤーやサンパオと同じように優秀になれるよ」
ぼくはそう言って、パント―を励ました。
「えっ、ぼくも、人の役に立つようになれるの」
パント―は意外そうな顔をした。
「もちろんだよ。自分で何かをして、自分が優秀であることを証明してみせなければならないよ」
ぼくは、さとすように言った。
「分かるよ。でも、ぼくはいったい何をしたらいいの。それが分からない」
パント―の顔には、戸惑いの色が、ありありと浮かんでいた。
「あせらないでいいよ。パント―」
妻猫がパント―を慰めていた。
「サンパオは盲導犬に習って、盲導猫になることを学んだわ。アーヤーは九官鳥に習って、歌の歌い方や人の言葉の話し方を学んだわ」
お母さんが、きょうだいの例をあげていた。
「ぼくは誰に何を習ったらいいの」
パント―の問いに、ぼくはすぐには答えられなくて、困ってしまった。
こんなときは、ぼくは老いらくさんのところに行って、意見をちょっと聞きたくなる。ぼくに生じた難しい問題のすべてに、老いらくさんが、いつも優れた答を出せるわけではないが、老いらくさんの意見を聞いていると、ヒントを得られることが多いからだ。
翠湖のほとりを歩いていると、いつもすぐ老いらくさんが、やってくるので、ぼくは、うちを出て、翠湖を散策していた。
すると思っていた通り、五分もたたないうちに、老いらくさんが、やってきた。
「春節が終わったばかりだというのに、お前はどうして、そんなに浮かない顔をしているのだ」
老いらくさんが、ぼくの顔色がさえないのを見て話しかけてきた。
「ははーん、分かった。たぶんサンパオのことだろう。わしが知っているかぎり、
今度の春節に、サンパオが家族と一緒に過ごした時間は、六時間三十七分しかなかった。それで……」
老いらくさんは、想像を楽しんでいるように思えた。
いやはや、たまげた。今度の春節の我が家の出来事が、老いらくさんに、そこまで見通されていたとは思ってもいなかった。
「まいったなぁ、どうしてそこまで詳しく……」
驚いて、それ以上、言葉が出てこなかった。
「わしのことを不思議に思っているんだろう」
老いらくさんが、くつくつしていた。
「わしが、そこまで正確に時間を計算できたのは、サンパオに、ぞっこん、ほれ
こんでいるからだよ」
老いらくさんは、すっかり、サンパオのとりこになっているようだった。サンパオの話になると、老いらくさんの話はいつも止まらなくなる。
「待って、待って」
ぼくは慌てて、老いらくさんの話の腰を折った。
「今、ぼくが気がかりに思っているのは、サンパオのことではないよ。パントーのことだよ」
老いらくさんが、意外そうな顔をした。
「そうか、パントーのことか……でもパント―は、いちばん手がかからない子だろう。毎日、食っちゃー寝、食っちゃー寝しているだけの子だから、お前の手を煩わせることは、全然ないだろう」
気楽な生き方をしているように見えるパント―に、老いらくさんは、それほど関心がないようだった。
「手を煩わせないことと、心配いらないこととは全然別だよ」
ぼくは少し、むっとしていた。
「パント―もこれから生きていくなかで、ほかのきょうだいと同じように、何かをしなければならないわけでしょ。でもパント―はいったい何をしたらいいの」
ぼくは真剣な顔をして聞いた。
「そうだねぇ、パント―はアーヤーほど頭がよくないし、サンパオほど仕事ができるわけでもないからねぇ。パント―が何かをしようと思うのなら、パント―の長所を伸ばして、短所ができるだけ出てこないようにしなければねぇ」
老いらくさんは、しばらく考えていた。
「パント―のいちばん良いところは何だ」
老いらくさんの不意な問いに、ぼくはちょっと考えてみた。でもすぐには、これといったものが思い浮かばなかった。
「そうだねぇ、……いちずなところかな」
口から出まかせに、そう答えるしかなかった。
「そうか。パント―にそのような良いところがあるのに、お前はどうして気がかりなんだ」
老いらくさんが小首をかしげていた。
「いちずなことは頭がよいことや、仕事ができることよりも、もっと大切なことだよ。すべての成功者は、みな、同じような長所がある。それは、いちずなことだ。すごい、すごい、お前は、たいした父親だねぇ」
老いらくさんから、くすぐったくなるようなことを言われた。
「パント―にそのような長所があることを、わしもお前もまだ、パント―には話
していないのではないか。父親のお前から、ほめてやれよ」
老いらくさんに相談に来て、やはり良かった。ヒントが得られたからだ。
「お前には、ものを見る目がある。すべての父親にものを見る目があるわけではないよ。分かるか」
老いらくさんは、穏やかな口調で、そう言った。
「パント―の良いところに気がついたのだから、それを存分に発揮できるようにアドバイスをしたらどうだ。個性を生かせるような技術を学ばせたら、パント―の前途は洋々としたものになるにちがいないよ」
老いらくさんの確信にあふれた言葉が、ぼくの琴線に触れた。
「パント―を学校に行かせてはどうか」
老いらくさんが提案した。
「今、世の中には、いろいろな学校が雨後のタケノコのように次々とできてきている。人間が行く学校だけではなくて、猫が行く学校や、犬が行く学校もある。でも、わしはパント―を猫の学校に行かせることには賛成しない」
「どうしてですか」
「猫の学校に行っても、どうせネズミの捕り方を教えるだけに過ぎないからだ。昔からある、そのような古いやり方は、もうとっくに時代遅れだよ。勉強しても何の役にも立たない。無駄になるだけだよ。高度な先端技術や知識を習得しているネズミを捕まえようとしても、まるっきり、捕まえることができない」
老いらくさんは自信にあふれた口調で、そう答えた。
「ではパント―を犬の学校に行かせてもだめですか」
「もちろんだよ」
「ではどこにやればいいのですか」
ぼくは戸惑っていた。すると老いらくさんが、控えめに
「パント―をペット曲芸学校に行かせてはどうかな」
と、提案した。
「そのような学校があるのですか」
「ある、ある、ある。わしは自分の目で見に行ったことがある。今はちょうど新学期が始まって、学生を募集している時季だよ。興味があったら、明日にでもパント―を連れて見学に行ってみたらどうだ」
「でも、うちのパント―は人に飼われているペットではないから、入学できるのでしょうか」
「何を言っているんだ。お前がペットのように、かわいがっているではないか。妻猫がペットのように愛しているではないか。ペットのようにかわいがられている犬や猫は、人に飼われていなくてもペットのようなものだよ」
分かったような、分からないような老いらくさんの話は、なんだか雲をつかむような話だった。でも、そう言われると、まんざら否定できないこともないように思われた。
「分かりました。入学できるかどうかは分かりませんが、明日、パント―を連れて、ペット曲芸学校に行ってみます」
ぼくは老いらくさんに、はっきりと、そう答えた。
第二章 ペット曲芸学校
天気……明るい太陽が、さんさんと輝き、気温が急に、ぐんと上がった。うららかな日の光をいっぱい浴びていると、季節が急に冬から春へと移り変わったように感じられる。
昨日、老いらくさんと別れて、うちに帰ったあと、パント―に
「お前を明日、ペット曲芸学校に連れていくよ」
と話した。パント―は興味を感じたのか、そわそわしていた。そして今朝、まだ夜が明けないうちに、もう起き出した。
朝食をすませると、ぼくとパント―はうちを出た。はるか遠いところに、翠湖公園のアーチ橋が見えていた。橋の上で、老いらくさんが、跳んだり、はねたりしているのが見えた。パント―の目をひくために、そうしているみたいだった。
「老いらくさんも、連れて行こうよ」
パント―が、老いらくさんに気がついてそう言ったので、ぼくは、にんまりした。老いらくさんが道案内をしてくれることになっていたからだ。パント―も、アーヤーもサンパオも妻猫も、老いらくさんがネズミであることは、まだ知らないでいる。得体がしれない不思議な動物だとしか思っていない。
「老いらくさん、ぼくたちを早く、曲芸学校に連れていってください」
そう叫びながら、ぼくとパント―はアーチ橋をめざして、一目散にかけていった。
ぼくたちに気がつくと、老いらくさんは橋の上で跳んだり、はねたりするのをやめて、ぼくたちの前に、転がるようになめらかに、やってきた。
「本当におかしな老いらくさん」
パント―は老いらくさんのそばまでかけていった。
「老いらくさんが、ぼくと、お父さんをペット曲芸学校に連れて行ってくれるの」
パント―が、ぼくに聞いた。
「もちろんだよ。ねぇ老いらくさん」
老いらくさんがうなずいた。
翠湖公園を出ると、老いらくさんは東のほうへ向かっていった。ぼくとパントーも後に続いた。東の空から顔を出したばかりの太陽が、ぼくたちを照らしていたので、ぼくたちの影が長く伸びていた。
「お父さん、ほら見て。ぼくは少しも太っていないよ」
パント―は後ろを振り返って、うれしそうにしていた。
(それはお前の影だよ)
と、教えてやりたかったが、パント―が、今まで見たことがないほど、自分の姿に自信を持っていたので、何も答えないで自信を持たせ続けることにした。
細身の影を本当の姿だとパント―に思い込ませたまま、ぼくとパント―と老いらくさんは東へ東へと歩いて行った。そしてやがて町の郊外まで来たとき、目の前に、お城のように大きくて立派な建物が見えてきた。
「あそこがペット曲芸学校だよ」
老いらくさんが教えてくれた。
学校の周りは高い壁に囲まれていて、壁の色は普段よく見かける白壁ではなくて緑壁だった。壁一面に、うっそうとした樹木が描かれていたからだ。『森林壁』とでも言えるような特異な壁だった。
「このような壁を見たことがあるかい」
老いらくさんが聞いた。
「ありません」
ぼくは建物の立派さに目を見張っていた。
「入り口はどこかなぁ。どこから中に入っていけばいいの」
パント―が困惑したような顔をしていた。ぼくもパント―も目であちこち、入り口らしきところを探していたが、皆目、見当もつかなかった。
「老いらくさんは、知っていますか」
ぼくが聞くと
「いや、わしも知らないよ」
と、そっけない返事が返ってきた。
「壁を乗り越えて入っていこうか」
老いらくさんが、突拍子もない提案をした。
「だめですよ、そんな行儀の悪いことは。だめ、だめ」
ぼくはまゆをひそめた。
「パント―が学校に行くようになったら、必ず、正門から堂々と入らなければならないって、強く言っています。学校の規則を守ることは、勉強することよりも、もっと大切だから」
ぼくはそう言って、壁越えが良くない理由を、老いらくさんに丁重に説明した。
老いらくさんも分かってくれた。
しばらくしてから前方の『森林壁』の上に、金属製の彫刻があるのに、ぼくは気がついた。よく見ると、大きな孔雀が尾羽を広げた立派な彫像が立っていた。遠くから見ると、森林にいる孔雀が羽を広げているかのように思えた。
その孔雀のほうに向かって、ぼくたちは歩いて行った。すると孔雀のすぐ近くまで来たとき、孔雀の羽が二つに分かれて、二枚の扇型をした大きな門となって、ゆっくり開いていった。そこが正門だった。
孔雀門から、なかに入っていくと、正面に大きなゾウの彫刻があって、ゾウの背中にはきれいな建物が建っていた。
「いらっしゃい」
ゾウのおなかの下から、中年の男の人が出てきた。
猫のような雰囲気を感じさせる人だった。その人に親近感を覚えたので、ぼくはパント―を連れて、その人の近くに歩み寄っていった。
「あれっ、人はどこにいるのだろう。飼い主が見当たらないなぁ」
男の人は、ぼくたちの周りに目をきょろきょろやっていた。
「お前たちは自分たちだけでやってきたのか」
男の人は、ぼくたちを見ながら、つぶやくように言った。
ぼくは、こっくり、うなずいた。
「ええっ、お前、わしの話が分かるのか」
ぼくはまた、うなずいた。男の人は、おったまげて目を白黒させていた。
「面白い。おしゃべりしようか」
男の人は夢でも見ているような表情でそう言いながら、しゃがみこんだ。
「わしは猫の研究を専門にしている動物学者だ。この学校の校長でもある。お前たちは、どうしてここにやってきたのか」
校長は親しげな顔をしながら、ぼくとパント―をじっと見ていた。
(猫好きな人のようだと思っていたら、猫研究の専門家だったのか。猫を研究する時間が長くなるにつれて、姿かたちまで猫のようになってきたのかなぁ)
ぼくは、ふっと、そう思った。
ぼくはパント―にこの人は校長で、猫研究の専門家でもあることを話しながら、パント―を校長の前に、押し出すようにした。
「おー、分かったぞ。お前はこの子を、うちの学校に入学させたいんだな」
校長が、ぼくの気持ちを、うまく察してくれた。ぼくはまた、こっくり、うなずいた。
「しかし、学校に入学させるためには、学費を払わなければならないのだぞ。お前たちに飼い主はいないようだが、誰が学費を払うのか」
校長はそう言いながら、立ち上がった。
「せっかく、ここまで来たのだから、しばらく遊んでいきなさい。遊び疲れたらおとなしく、うちへ帰っていきなさい」
校長がそう言って、立ち去ろうとした。ぼくはすぐに、校長の退路を断って、校長の前に、立ちはだかった。そしてそのあと、ぼくのトレードマークの、にっこりした微笑みを浮かべた。
「ええっ、お前は笑えるのか」
校長が、きつねにつままれたような顔をしていた。
「わしは長年、猫の研究をしているが、笑うことができる猫なんて、これまで見たことがないぞ」
校長が、またまた、おったまげていた。ぼくの微笑みが校長の猫研究への新たな興味を、ぐぐぐっと高ぶらせようだった。
校長は、あごに手を当てて、しばらく考えてから
「まぁ、いいか。お前の、うっとりするような微笑みに免じて、お前の願いを聞き入れることにするよ」
学費免除で、パント―の入学を、校長が認めてくれたことが分かったので、ぼくはうれしかった。
校長は、ぼくとパント―を教室棟に連れていくための準備を始めた。教室棟はゾウの彫刻の上に建っている、あの建物のようだ。でも、階段が見当たらない。(どうやって上に登っていけばいいのだろう)
ぼくとパント―は顔を見合わせていた。
しばらくしてから、校長が、ぼくとパント―をゾウの鼻の近くに連れて行った。
すると何と、ゾウの鼻の中に階段が隠されていた。まったく思ってもいなかった。
ぼくとパントーは、ゾウの鼻づたいに背中まで階段を登っていって、それから教室棟の中に入っていった。初めに校長室に案内された。
部屋の壁には、犬や猫が、この学校で磨いたテクニックをふるっている写真が、たくさん貼られていた。壁の一つの面には犬の写真ばかりが貼られていた。コリー犬が跳び上がってフリスビーを上手にキャッチしている写真や、セント-バーナード犬が金属製のロープの上を歩いている写真や、チャウ-チャウ犬が自転車をこいでいる写真や、スピッツ犬が二本足で立って、ダンスのスピンのように、くるくる回っている写真などがたくさん貼られていた。壁の別の面には猫の写真がたくさん貼られていた。算数の計算をしている猫や、ピアノを弾いている猫や、ハードル跳びをしている猫や、輪くぐりをしている猫の写真が貼られていた。
どれも華やかで、まばゆいほどで、見ていると、目が、ちかちかするほどだった。
「お前は子供に何を学ばせたいのか」
校長が聞いた。どの演技も、ため息が出るほど美しくて、思わず心を奪われていたぼくは、ぼうーっとした表情のまま校長を見るのが、せいいっぱいだった。
「まず親や飼い主の希望を聞いて、それから学生の簡単な適性検査をしている」
校長はそう言うと、パント―を抱いて体重計に載せてから、出てきた数字を見て、渋い顔をした。
「重すぎる、重すぎる」
校長が、つぶやいた。パント―には人の話が分からないのが幸いだった。分かっていたら、ひどく傷ついていただろう。
校長はそのあと毛糸玉を、パント―に投げた。パント―はすぐには反応しないで、しばらくしてから、ようやく爪を出してつかんだ。校長はそれを見て
「反応が遅い」
という結論を下した。
校長は次に別のテストをした。本物そっくりのネズミのおもちゃをパント―の前に投げた。鳴き声も本物のネズミそっくりだった。ネズミを見たら、猫は本能的にすぐに飛びかかる習性があるので、今度はさすがにパント―の反応も素早かった。ところが、ネズミを追いかけて、飛びかかって、かむという一連の動作を見ていると、どこかとてもぎこちなかった。校長はそれを見て
「動作が不器用」
という結論を下した。
入門テストはまだ続いた。
校長は携帯電話を出して音楽を流した。校長は、まなこをじっと凝らしながら、パント―がどんな反応をするか、見ていた。ところがパント―は何も反応しなかった。校長はそれを見て
「音感がない」
という結論を下した。
「見ての通りだよ」
どうにも救いようがないという顔を校長があからさまにした。
「お前の子供はこんな具合だから、何を学ばせたらよいのか、わしにもお手上げだよ。お前は子供に何を学ばせたいのだ」
校長が、苦笑いしていた。
パント―の代わりに、ぼくが決めてやることもできるが、そのようにするのはあまり気が進まない。まずパント―に何が好きかを聞いてみよう。興味があることが意欲がいちばん、かきたてられる活力源だからだ。「好きこそものの上手なれ」というではないか。
パント―に学ばせたいことを、ぼくだけの考えでは決められないことを、ぼくは笑みを浮かべながら、気持ちで校長に伝えた。校長はぼくの心の中を察してくれたようだった。
「一晩よく考えてから、明日また子供を連れてここへ来なさい。そのときに何を
学ばせるか伝えなさい」
ぼくは、にっこり、うなずいた。
第三章 パント―が怖がるコーチ
天気……柔らかな春風が、ほおをそっとなでで、くすぐったい。春の訪れを告げる天女のしなやかな手で、そっと触られたような感じがした。
昨日、うちへ帰るとき、パント―が、しょげていなかったので、ぼくは、ほっとした。何かを学んで人の役に立ちたいという意欲が、まだ、ありありと、うかがえたからだ。校長の否定的な見解が、パント―の士気に影響するのではないかと思っていたが、ぼくの杞憂に過ぎなかった。
「お前は何を学びたいのか」
「いろいろなことを学びたいよ」
「何かを学ぶためには、一つ一つ、コツコツと学んでいかなければならないよ」
ぼくは、さとすように言った。
「お前は何に興味があるんだ」
パント―が好きなものを、ぼくは知りたかった。
「興味があることは何でも学んでいいの」
ぼくは、うなずいた。
パント―はちょっと考えていた。
「ぼくは……ぼくは……、輪くぐりに興味がある」
パント―が、ぼそぼそっと答えた。
一晩明けて、けさ、ご飯を食べながら
「輪くぐりを学ぶことにしたんだね」
と、ぼくは念を押すように、パント―に聞いた。
するとパント―が、きょとんとして
「輪くぐり……、どうしてぼくが輪くぐりを学ばなければならないの」
と、聞き返してきた。
(まったく、もう……、パント―には、あきれた。昨日、自分でそう言ったくせに、一晩たったら、もうすっかり忘れてしまっているなんて)
「お前は昨日、輪くぐりに興味があるって言ったじゃないか」
「あー、そうだったね。思い出した。じゃあ、ぼく、輪くぐりを学ぶことにするよ」
パント―の答え方を聞いていると、何でもいいといった感じに聞こえた。
ペット曲芸学校に着いたとき、校門の外には、車がいっぱい止まっていた。そのほとんどは、ペットを連れてきた飼い主の車のように思えた。それらの車を見ているとき、ちょうど学校のチャイムが鳴った。授業が始まったらしい。
昨日、来たときに、孔雀門から中に入れることを知っていたので、ぼくとパント―は、まっすぐ、あの大きなゾウの彫刻があるほうへ歩いていった。
ゾウの鼻づたいに階段を登っていって、ゾウの背中の上に建っている教室棟に入り、それから再び校長室を訪ねた。
「ああ、お前たちか」
校長はいすから立ち上がると、ぼくたちの前にやってきた。
「何を学ばせることにしたか」
校長がぼくに聞いた。
ぼくは壁にたくさん貼ってある写真の中から、猫が輪くぐりをしている写真
にジャンプして体をぶつけた。
「おう、そうか。輪くぐりを学ばせたいのだな」
校長がそう言ったので、ぼくは、にっこり、うなずいた。
「いいだろう。コーチに会わせてやろう」
ぼくとパント―は校長のあとについていった。運動場に来たとき、遠くに、コーチらしき人と三毛猫が一匹見えた。少し離れたところに、車のタイヤぐらいの大きさの赤い輪が、上からつりさげてあるのも見えた。コーチが旗を振ると、三毛猫は輪のほうに向かって矢のように勢いよく走っていって、輪の手前でジャンプして輪を見事にくぐり抜けていた。
「うまいぞ、カオー」
校長が手をパチパチたたいた。
(カオーというのか、あの猫は)
カオーのかっこよい輪くぐりを見て、ぼくもパント―も拍手を送りたいほどだった。
校長の拍手の音を聞いて、気をよくしたカオーは、コーチのそばへ近づいていった。コーチはズボンのポケットから、干し魚を取り出して、上に、ひょいっと
投げた。カオーはジャンプして、干し魚を口でうまく受け止めた。
「わあ、いいなあ。ぼくも食べたい……」
パント―は舌をぺろっと出してから、唇を、なめた。
「やめなさい、みっともない」
ぼくはパント―に注意した。
「輪くぐりを学びたいという猫を連れてきたよ」
校長はコーチのところまで近寄っていった。
コーチがぼくたちのほうを振り向いた。
(おえーっ、ひどく怖そうなやつ。まゆは、つりあがり、目は金属のように冷たい)
ぼくはそう思った。
コーチは、ぼくを見て、それからパント―を見て
「この猫か」
と、校長に聞いた。
「うん、その猫だ」
校長はパント―を指さした。コーチは熊手のような、ごつい手でパント―の首根っこを、ひっかかえると、体重計に載せて、体重を測っていた。
「太っているじゃないか」
コーチはそっけなく、そう言ってから、パント―を体重計から、乱暴な手つきでどーんと下ろした。
パント―には人の話が分からないので、まあよかったが、乱暴に扱われたことで、ひどく傷ついているようだった。
「怖がらなくていいよ。コーチは、ちょっと、からかっただけだよ」
ぼくは間、髪を入れずにパント―を慰めた。
パント―は気を取り直して、いつものような元気さを取り戻した。それを見て
校長が
「この子は性格がいいね」
と言って、ほめてくれた。
校長が帰っていったあと、コーチはパント―をひっさげて、つり輪から二十メートル離れたところにある黄色い線のところまで連れていった。線の上にパントーを下ろすと、腰に巻いていた革ひもを外して、パント―の尻を、ぴしっとたたいた。
「行け」
地面が震えるような鋭い声がした。
「ひいー、いたーい」
パント―は悲鳴を上げながら、つり輪のほうに向かって走っていった。つり輪の前でジャンプを試みたが、タイミングが合わずに、うまく、輪の中をくぐれなかった。
「もどってこーい」
鬼のような鋭いコーチの声がまた響いた。パント―がもどっていくと、コーチはまたパント―の尻に、、ぴしっ、ぴしっと、むちを当てた。
「成功するまで何度でもやらせるからな」
ぼくは心が痛んで、見ていられなくなった。
カオーと呼ばれている三毛猫は、干し魚をくわえて、寝そべりながら、パントーを見ていた。
「お前も、むちを受けたことがあるの」
ぼくはカオーに聞いた。
「初めはみんな、あのように打たれるさ。でも賢かったら、すぐに要領を覚えるので、いつまでも打たれることはないさ。干し魚ももらえる。あんたが連れてきた猫は、とろそうだから、いつまでたってもマスターできないだろうなあ」
パントーを見下したようなカオーの言い方に、ぼくは思わず、かちんと来た。でもここはじっと我慢することにした。
パント―が失敗を繰り返すたびに、コーチの怒鳴り声のボルテージがますます上がり、コーチは汗だくになりながら、狂ったように、激しく、パントーをたたき続けていた。パント―は、意識がもうろうとしてきて、自分が何をしているのか分からなくなってきて、しまいには、地面にぺたんと伸びてしまった。コーチがどんなに激しくむちを当てても、パントーにはもう立ち上がるだけの元気はなかった。
「意気地のないやつ」
コーチは、いまいましそうに、吐き捨てると、カオーを連れて、どこかへ行って
しまった。
「パント―、大丈夫か」
ぼくは心配になって、パント―に、かけ寄った。
「お父さん、ぼく、もう輪くぐりは学びたくないよ」
パント―が弱音を吐いた。
「そうか。分かるよ、でもお前は、輪くぐりに興味があったんだろう」
「でも、あの人は怖いよ」
パント―は、赤鬼のようなコーチの厳しい訓練に、よほど懲りていたように見えた。
パント―を連れて、翠湖公園に帰ったあと、ぼくは、これからどうしたらよいか分からなくなって、やるせない気持ちになった。こんなときには、やはり、老いらくさんに会って、心の中のもどかしい思いを聞いてもらいたい気がする。どこに行ったら、老いらくさんに会えるか、ぼくは知っている。冬が過ぎ去ったばかりの今、公園の梅の花は、もうしぼんでいたが、梅園にはまだ花の残り香があって、かぐわしいにおいが漂っている。老いらくさんは、、そのにおいをかぐために、きっと梅園にいるはずだ。
梅園まで来ると、入り口の門は、ぴったりと閉まっていた。仕方なく、ぼくは塀を乗り越えて、梅園の中に入っていった。やはり思っていた通り、老いらくさんは、梅園にいた。
「何かあったのか」
ぼくの顔色がさえないのを見て、ただならぬ雰囲気を感じたのか、老いらくさんが声をかけてきた。
「何もなかったら、お前がこれまで自分から、わしを訪ねてきたことはなかったからな。きっと何か大変なことがあったんだろう」
老いらくさんが、ぼくの心を察してくれた。
「大変なことというほどのことではないけれど、ただ、パント―が……」
ぼくは、もそもそしていた。
「パント―がどうしたんだ。パント―を連れて、ペット曲芸学校に行ったんだろう。パント―は何を学ぶことにしたんだ」
老いらくさんが興味深そうな顔をしていた。
「パント―は輪くぐりに興味があると言ったから、校長が今日、パント―を練習場に連れて行った。ところが、パント―は、もう学びたくないと言っている」
「どうしてだ」
「コーチが厳しい人だから、パント―が怖がっている」
パント―が輪くぐりを練習していた今日の、一部始終を、ぼくは老いらくさんに話した。
「なるほど、そういうことだったのか。それじゃあ、学びたくなくなるのも無理はないな」
老いらくさんが分かってくれた。
「コーチを怖がっていたら、コーチが好きになれないし、テクニックを習得することもできない。パント―に限らず、お前だって、わしだって、結果は同じだと思う」
老いらくさんは、そう言ってから、しばらく考えにふけっていた。
「笑い猫、わしに提案がある。もしお前が嫌じゃなかったら、わしにパント―の先生役をさせてくれないか」
老いらくさんが、おかしなことを言った。
「何を言ってるんですか。ネズミが猫の先生になるなんて、地球がひっくり返っても、そんなことはありえませんよ」
ぼくは、老いらくさんの奇怪な提案を、きっぱりと、はねつけた。
老いらくさんはそれでも気を悪くしないで
「じゃあ、明日、お前とパント―を連れて、もう一度、ペット曲芸学校に行って、、いい先生を探そうよ」
と言ってくれた。
第四章 きれいなピアノの先生
天気……春の訪れを告げる天女が本当にやってきた。美しい春の光が柔らかく降りそそぎ、翠湖公園の中には生命力がみなぎっていて、、春の息吹がいっぱい、あふれている。
パント―はまた、惰眠をむさぼり始めていた。
「パント―、早く起きろ。学校に行く時間だ」
ぼくはパントーに声をかけた。
「ぼくは行かない……」
バント―は伸びをしながら、けだるそうに答えた。
「あのコーチはとても怖いから、行きたくない……」
パント―は、なかなか起きようとはしなかった。
「あのコーチに会いに行くんじゃない。ほかのいい先生を探しに行くんだ」
ぼくがそう言うと、パント―が目を丸くして
「本当」
と、聞き返してきた。ぼくがうなずくと、パント―は寝返りを打ってから、がばっと起き上がった。
(パント―は学校が嫌いではなかったんだ。あのコーチに会いたくないと思っていただけだったのだ)
そのことが分かって、ぼくは、ほっとした。
朝食をすませると、ぼくはパント―を連れて、うちを出た。アーチ橋の上に行くと、老いらくさんが、もうすでに来ていて、ぼくたちを待っていてくれた。
ペット曲芸学校に行く道すがら、パント―は、期待に胸をふくらませていた。でも学校に着いたとたん、パント―の顔色が急に変わって、おじけづいているような色が、ありありと、うかがえた。パントーの目は、つり輪がぶらさげてある運動場の一角をじっと見すえていた。あの恐ろしいコーチがむちを振るって怒鳴りながら、犬に輪くぐりを教えていた。パント―はそれを見て、体の向きをくるっと変えて、うちへ帰ろうとした。
「パント―、パント―、ちょっと待てよ」
ぼくは慌ててパント―を追いかけた。
「怖がらなくていいよ。お前が気に入った先生を探しに行くのだから」
輪くぐりを教えるコーチを避けるようにして、ぼくとパントーと老いらくさんは運動場の反対側に行った。そこにはハードル跳びを教えるところがあった。ハートル跳びを教えるコーチは見たところ、輪くぐりを教えるコーチほど怖そうではなかった。しかし顔の表情は無表情で、氷のように冷たい性格に見えた。
「このコーチは好きになれそうか」
ぼくはパントーの顔色を、うかがった。
「好きじゃない」
パント―が首を横に振った。
「じゃあ、ほかのところへ探しにいこうよ」
パント―が、うなずいた。
老いらくさんの姿が急に消えて、近くに見あたらないことに、ぼくは、ふっと気がついた。
(どこに行ったのだろう)
そう思いながら、四方八方を見まわした。すると、遠いところから、転がるように急いで戻ってきているのが見えた。ぼくとパント―も、老いらくさんのほうに向かって走っていった。
「どこに行ってたのですか」
ぼくは、息をはあ、はあ切らしながら、聞いた。
「パント―にふさわしい先生を探しに行ってたんだ。穏やかで優しそうな先生を見つけたよ」
老いらくさんが晴れやかな顔をしていた。
「何を教える人ですか」
興味をそそられて、ぼくは聞き返した。
「お前には想像できないだろうなあ」
という答が返ってきた。
もったいぶった言い方に、ぼくはますます、好奇心をかりたてられた。
ぼくとパント―は老いらくさんについていった。リンゴの形をしたかわいい家の前に来たとき
「ここだよ」
と、老いらくさんが言った。
家のドアは、カギが開いていて、押せばすぐ開くようになっていた。家の中からピアノの音が聞こえてきた。ドアのすき間から、中をそっとのぞくと、何と、ピアノを弾いていたのは人ではなくて猫だった。真っ白い猫がピアノの上を歩きながら、足で音を出していた。猫は一つ置きに並んでいる黒鍵と白鍵の上をモザイクの歩道のように気持ちよく歩いていた。左から右に歩くと、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドという音が鳴っていた。右から左に引き返すと、ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ドという音が鳴っていた。
猫にピアノを教えていたのは、きれいな女の先生だった。目はぱっちりして、優しそうなまなざしで猫を見ていた。声はとても穏やかで、親しみやすい話し方をする先生だった。
「いいよ。その調子よ。上手だね」
先生は猫なで声で、そう言いながら、猫の気持ちを上手に乗せていた。先生は、手に、ピカピカ光る指揮棒を持っていた。指揮棒を軽やかに振っているときには、猫は鍵盤の上を優雅に、ゆったりと歩いていた。するとピアノからは春風のように浮き浮きする音が出ていた。先生が指揮棒を情熱的に激しく振っているときには、猫は鍵盤の上で、ぴょんぴょん跳びはねて、燃えるような熱い思いを表現していた。するとピアノからは嵐のような荒々しい音が出ていた。
それを見て、ぼくは猫を巧みに指揮する、このきれいな女の先生のとりこになった。パント―も同じだった。
「ぼくは、この先生が大好きになった」
パント―が、鼻の下を伸ばしていた。
「どうだい、わしには人を見る目があるだろう」
老いらくさんが得意満面の顔をして、ぼくに聞いた。
「ぼくに聞かないでよ。パント―がここにいるじゃない」
ぼくはパント―に聞いた。
「お前はピアノに興味があるか」
「分からない。でも、この優しそうな女の先生がとても好き」
パント―は照れたような顔をしていた。
パント―が、この女の先生にピアノを習いたいと思っているのなら、ぼくは校長にお願いに行かなければならない。ぼくはそう思ってパント―を連れて、校長室に行った。校長は、パント―が輪くぐりを学びたくなくなったことを、もうすでに知っているようだった。
「やはり、わしが思っていた通りだったよ」
予想が当たったことを知って、校長は、にやにやしていた。
「輪くぐりが上手にできる猫は、体がしなやかで美しい。動作も機敏」
校長が言おうとしていることが、ぼくには分かった。要するに、パント―は太っていて、動きが鈍いから、輪くぐりが上手にできないと言いたいのだろう。
ぼくは心持ちがよくなかったので、校長に
(パント―が輪くぐりを学びたくなくなったのは、太りすぎているためではありません。不器用だからでもありません。鬼のようなコーチが嫌いだからです)
と、言ってやりたかった。でもぼくは、人の言葉は話せないので、どうしようもない。ぼくが、もどかしそうな顔をしていると、校長が
「わしはとても忙しいから、さっさと、うちへ帰り」
と言って、ぼくとパント―を部屋から追い出そうとした。
それを見て、ぼくは校長に向かって、トレードマークの微笑みを、また浮かべた。校長はぼくの微笑みの魅力に、心底ほれて、いかれているので、もう、部屋から追い出すことはしなかった。校長は猫の写真がいっぱい貼られている壁のほうへ歩いていって
「お前はこの子に何を学ばせたいのか」
と聞いた。
ぼくはジャンプをして、ピアノの写真に体を、どーんとぶつけた。
「えっ、ピアノを学ばせたいのか」
校長はピアノの写真を指で指しながら、目をパチクリさせていた。
「お前は本当にこれを学ばせたいのか」
ぼくは、にっこり笑った。
「わしがこの前、この子に適性検査をしたとき、音感がまったくなかったじゃないか。どうやってピアノを学ばせるのだ」
校長が、けげんそうな顔をしていた。
ぼくは校長に向かって、トレードマークの微笑みを、また浮かべた。
「分かった、分かった。じゃあ、もう一度、その子のリズム感をテストしてみよう」
校長はそう言ってから、パント―のそばに行って、手拍子で
「タン、タタ、タンタン、タタ……」
と、リズムを取った。
ぼくは校長のリズムに合わせて、顔を動かしながら、小さな声でパント―に
「父さんのする通りにしなさい」
と言った。
でもパント―は、いい加減に顔を動かして、校長のリズムとは、まったく合っていなかった。
「音を聞き取る力がまったくない。リズム感もよくない」
校長はパント―に、失望して、重いため息をついた。
校長がそのあと何と言うか、容易に想像がついた。言われる前に、先手を打って、またまた、校長をしびれさせるような、百万ドルの微笑みで、校長を金縛りにするしかなかった。
「分かった、分かった」
校長は、どうしたらよいか結論が下せずに思案に暮れていた。
「ピアノの李先生が受け入れるかどうか分からないが、明日、返事を聞きに来なさい」
校長はそう言って、ぼくたちにひとまず、うちに帰るように言った。
うちへ帰る途中、パント―が
「校長はどうしてすぐ、ピアノ教室に連れていかなかったの」
と、聞いた。
「校長はピアノの李先生にお前のことをまず話さなければならないから、明日、来るように言ったんだよ」
ぼくは、そう答えた。
(あのきれいな李先生が、音感に乏しいパント―を学生にしてくれるだろうか)ぼくの心に少し不安がよぎった。
第五章 老いらくさんの麗しい思い出
天気……昨夜、降り始めた雨が今日のお昼までずっと降り続いていて、気温が急に何度も下がった。
昨夜、パント―はぐっすり眠っていた。しかし、ぼくは、なかなか寝つけなくて、何度も寝返りを打っていた。
「お父さん、何か心配事でもあるの」
妻猫が聞いた。
「明日、どんな結果が待ってるのかなあと思って」
気がかりでたまらない胸のうちを、ぼくは妻猫に話した。
(パント―がとても気に入っている、ピアノの先生がパント―を学生にしてくれなかったらどうしよう……)
ぼくはそう思うと、気がかりで、ぐっすり寝てなんかいられなかった。
「音感がなくてもパント―を受け入れてくれるかもしれないじゃない」
妻猫がぼくに望みを持たせようとした。気休めを言ってくれているにすぎないと思ったが、その可能性もまったくないわけではない。半分は望みを抱きながら、ぼくは、とろとろと、まどろんでいた。
「お父さん、早く、起きて」
朝早く、ぼくはパント―に呼び起された。
「ピアノの先生に早く会いに行こうよ」
バント―は気がはやっていた。学生になれる可能性は半分しかないことを、パント―はまだ知らないでいる。
「お父さん、早く、早く」
パント―が、しきりに、せきたてたので、いつもは干し魚三切れを朝食にするのに、今朝は二切れ食べただけで、パント―のあとについて外へ出て行った。
老いらくさんは、もうすでに、うちの前まで来ていて、、ぼくたちを待っていてくれた。こんなに早く、老いらくさんが、うちの前まで来ていたとは、ぼくは思ってもいなかった。でもパントーはさほど、驚いてはいないようだった。バントーはずっと以前から、老いらくさんのことを、何をするか分からない不思議な妖怪だと思っていたからだ。
「老いらくさん、早く行こうよ」
朝のあいさつも、そこそこにパント―は老いらくさんを、せきたてた。
道すがら、パント―の心は、これまでにないほど嬉々としていた。期待で高ぶぶっている気持ちを乗せて、パント―は弾むような足取りで、ずっと、ぼくと老いらくさんの前を歩いていた。
「笑い猫、お前は、どうして、そんなにすぐれない顔をしているんだ」
パント―の気持ちとは裏腹に、ぼくの気持ちがいまひとつ、さえないのを見て、老いらくさんが声をかけた。
「わしが、いい先生を見つけてきて、パント―が喜んでいるというのに、お前はどうしてそんな複雑な顔をしているんだ」
老いらくさんが畳みかけてきた。
「ピアノの先生が、パント―を学生にしてくれるかどうか分からないからです。もし、してくれなかったら、パント―の喜びは、ぬか喜びに終わってしまう」
ぼくはパント―に、ほろにがい思いをさせたくなかった。
「大丈夫だよ。心配無用。そんなことは絶対にありえない」
老いらくさんが太鼓判を押した。
「わしには人を見る目がある。けっして見誤ることはない。わしを信用しなさい」
老いらくさんは胸をそらしながら、そう答えた。
「分かるよ。あの先生がいい人であることは分かるよ。ただ問題なのは、パント―のほうだよ」
ぼくは、もじもじしながら言った。
「パント―に何か問題があるのか」
老いらくさんが聞き返した。
「パント―には、まるっきり音感がないんだ」
ぼくは頭を抱えた。
「なーんだ、そんなことを心配していたのか。だったら無用。このわしに音感があるように見えるか」
老いらくさんが逆に問いかけてきた。
「見えません」
ぼくは正直に、そう答えた。
「だろう。確かにわしにも音感はないよ。でもピアノを弾いたことがあるよ。かなりうまく弾けるよ」
老いらくさんが意外なことを言ったので
「へぇー、弾けるの。信じられない」
ぼくは目を丸くしていた。
「話せば長くなるから、あとで話すことにしよう。今はとにかく学校へ急ごう」
老いらくさんはそう言って、せかせかしていた。
ペット曲芸学校に着くと、リンゴの形をした音楽室へ直行して、そこのドアの前にパント―を待たせてから、ぼくは校長室へ、おずおずと昨日の結果を聞きに
行った。校長室の前まで来たとき、ぼくの心臓はぱくぱくして、頭に血がのぼって、もう少しで、ぶっ倒れそうになった。緊張していたというよりも、よくない結果を伝えられたときの無念さが怖かったからだ。覚悟を決めて中に入っていくと、校長がぼくに気がついて、にっこりしながら
「お前たちをピアノの李先生のところに連れて行こう」
と言ってくれた。
ぼくはうれしくてたまらなくなった。感謝感激の念が、心の中に、ふつふつとわいてきて、胸いっぱいに広がっていった。さすが校長は大の猫好きで、猫研究の専門家だけのことはある。名に恥じない、味なことをしてくれた。ありがとうという気持ちを伝えるために、ぼくは、にこにこ笑った。
「あれっ、お前の子供はどこにいるんだ」
パント―の姿が見えないのを気にして、校長が辺りを、きょろきょろ見まわしていた。
ぼくは音楽室のほうへ走っていった。校長もあとからついてきた。音楽室の前まで走ってくると、そこにパント―はいなかった。てっきり、そこで待っているものとばかり思っていたのに、あてが外れた。
(パント―はどこに行ったのだろう。もしかしたら、ドアのすきまから中に入っていったのではないだろうか)
ぼくはそう思いながら、ドアの前で、校長の到着を待った。
校長は息せき切って、音楽室の前までやってくると、ぼくを連れて、中に入っていった。
やはり、思っていた通り、パント―は中にいた。外から不意に入ってきたパント―を、李先生は追い出さなかったのだ。
(ひょっとしたら気に入ってくれたのかも……)
ぼくは、いいことが起こりそうな気がした。
「その猫が、昨日、わしが話していた猫だよ」
校長が李先生にパント―を紹介していた。
「本当にかわいい子猫ちゃんね」
李先生は、にこにこしながら、そう答えていた。
「この子猫ちゃんは、中に入ってきてからずーっと、私が弾くピアノに静かに耳を傾けていたのよ。よほどピアノが好きみたいだわ」
鈴を転がすような李先生の美しい声が、音楽室に柔らかく響いていた。
それを聞いて、ぼくは、むずむずしていた。
(本当はピアノではなくて、李先生が好きなんですよ、この子は)
と、李先生に教えてあげたいくらいだった。
校長はそのあと、李先生にぼくのことを紹介してくれた。
「こちらの猫は、その子のお父さんだ。不思議な猫だよ。笑ったり、人の話が分かるんだ」
「えっ、うそー」
李先生が、きつねに、つままれたような顔をしていた。
「うそじゃないよ。本当だよ。なあ、お前」
ぼくは、こっくりうなずいた。
「本当に……信じられない……じゃあ、私にちょっと笑ってみせてよ」
李先生はそう言いながら、柳のようにしなやかな手で、ぼくを抱きあげた。ぼくはとても気持ちがよかったので、とびっきりの笑顔を見せた。
「わぁ、すごいわ。本当に笑っている。信じられない……とりこになってしまいそう」
李先生は、うっとりした顔をしながら、ぼくのほおにキスをしてくれた。
「わしもその猫の笑顔に魂を奪われて、ふぬけにさせられている。よわったよ」
校長が相好を崩していた。
「この子猫ちゃんに音感があってもなくても、私はぜひピアノを教えたいわ」
李先生がパント―のことを快く引き受けてくれたので、ぼくはとても嬉しかった。
李先生の授業の邪魔にならないように、ぼくと校長は音楽室から出て行った。
ぼくと老いらくさんは音楽室の外でパント―の授業が終わるのを待っていた。
(あっ、そうだ。あの話を聞かなくっちゃ)
ぼくは今朝の話を思い出した。
「老いらくさんは、ピアノをいつ習ったのですか」
ぼくは興味深く思っていた。
「習ったとは言ってないだろ。弾いたことがあると言っただろ」
老いらくさんが仏頂面をしていた。
「細かいことはどうでもいいから、いつ、どこで、どうやって弾いたのか、教えてください」
ぼくは興味がますますわいてきて、やまなかった。
「あれはもうずいぶん昔のことになるなぁ……」
老いらくさんが懐かしそうに思い出を語り始めた。
「わしがまだ若かったころ、頭の中には、よこしまな考えがいっぱいあった。腹の中には、悪だくみが、どろのように、たまってたいた。どれくらい悪事を働いたか分からないくらいだ」
その話は聞き飽きていたので、-ぼくは渋りながら話の腰を折った。
「そんなこと、どうでもいいから、くどくど言わないで、はやくピアノの話をしてくださいよ」
「そんなにせかさないでくれよ。順を追って話しているんだから」
ピアノにまつわる麗しい思い出を老いらくさんは整理しているようだった。
「あれは冬の日のことだった。正月が間近のある日、わしは人の家にこっそり忍び込んでソーセージを食っていた。たらふく食ったあと、うつらうつら舟をこいでいた。するとそのとき、どこからか子猫が一匹やってきた。わしはびっくりして、あわてて逃げようとした。ところが子猫はわしをつかまえようとはしないで、珍しそうに見ているだけだった。生まれてからまもない子猫だったから、ネズミを見つけたら、つかまえて食うということを知らなかったのだろうと思った。そこでわしは突拍子もないことを思いついた。この子猫と友だちになって遊びたいと思ったんじゃ」
老いらくさんの目が輝いていた。老いらくさんが、ぼくと友だちになる前に、ほかの猫とむつまじくしていたとは思ってもいなかった。
「わしと子猫が客間に行くと、ピアノがあった。興味をそそられて、わしはピアノの鍵盤に跳びのった。白鍵の上でぴょんぴょん跳んでいるときは、心も体も浮き浮きするような楽しい音が出た。黒鍵の上でぴょんぴょん跳んでいるときは、深くて重みのある音が出た。体を横にして鍵盤の上を転がると、転がり方によって違った音が出た。ゆっくり転がっているときには、穏やかな音が出て、心が癒されるように感じた。速く転がっているときには、激しい音が出て嵐に打たれているように感じた。音の変化を、わしも子猫も我を忘れるほど夢中になって聞いていた……」
老いらくさんは美しい思い出に酔いしれていた。
「そのあと、どうなったの」
続きを早く知りたくなって、ぼくは身を乗り出すようにして聞いた。
「そのあと、わしは毎日、子猫の家に行った。でももうソーセージを盗み食いすることはしなかった。ただひたすら子猫にピアノを聞かせるためにだけ行っていた。子猫は家から出たことがなかったから、外の世界はまるっきり知らないでいた。外の世界を教えてあげたかったが、わしが話す言葉を子猫は分からなかったから、どうしようもなかった。そこでわしはピアノの音で外の世界を伝えることを、ふっと思いついた。音楽は世界共通の言葉だから、聞いたら、だれにでも分かるからだ。ピアノの低音部は荘厳な音が出るから、暗い夜が明けて、東の空から太陽が昇ってくるのを表現するのにぴったりだ。わしは低音部を使って、その情景を子猫に伝えた。ピアノの高音部は軽やかな音が出るから、小鳥のさえずりを表現するのにぴったりだ。わしは高音部を使って、その情景を子猫に伝えた。両手と両足を広げながら、鍵盤の端から端へ向かってゆっくり歩いていくと、日が暮れて、かぐわしい花の香りが夕風に乗って漂ってきたり、水のように澄みわたった月の光が、こうこうと輝いている情景が子猫に伝わっていった。鍵盤の上を転がっていくと、小川の水がさらさら流れていって、川の上に星がまたたいている情景が子猫に伝わっていった」
老いらくさんはピアノで子猫に伝えた情景を詳しく話してくれた。
「何てロマンチックな話なんでしょう」
美しい話に、ぼくはすっかり酔いしれていた。
「だが夢のような楽しいひとときは、長くは続かなかった。わしが子猫の飼い主に見つかってしまったからだ」
老いらくさんは、ため息をついた。
「それ以来、あの子猫に会ったことがない……」
老いらくさんの切ない思いが伝わってきた。
第六章 宇宙からきた子
天気……春雨がしとしとと絶え間なく降り続いている。雨水はまるで不思議な染料のように草を青緑色に染め、花を色とりどりに美しく染めていく。
校長に音感がないと決めつけられたパント―は、李先生の懇切丁寧な指導のもとで、日ごとに音感がよくなっていった。著しい進歩に周囲の先生たちが目を見張っていた。校長でさえ、それまでの見方を変えるようになっていた。校長は時間があるときにはよく、パント―の授業を見学に来るようになった。見学するたびに、パントーに対する校長の評価はうなぎ登りにあがっていって、パント―の音感にうなるように感じ入っていた。
「まさか、ここまでよくなるとは思ってもいなかったよ」
校長は苦笑いしながら李先生に話しかけていた。
「音感ゼロの猫がこれほど見事なキータッチを習得できるようになるとは想像だにできなかったよ。リズム感もとてもいい。研究に役立つ貴重なことを発見した……」
校長の表情は夢うつつの境をさまよっているように見えた。
李先生はにこにこ笑いながら校長を見ていた。ぼくも、くつくつ笑いながら校長を見ていた。
「この子猫には音感は元々なかったが、優れたところが一つだけあった。それは、ひたむきさだ」
遠くを見つめるような目で、校長がそう言った。
パント―は何をするときも、ひたむきなことは、ぼくは、とっくに気がついていたから、校長の言葉も、ぼくには、それほど新鮮には響かなかった。パント―のひたむきさが、いつかは花を咲かせることがあるかもしれないと、ぼくはこれまでずっと思っていた。
「このことは何を意味するだろうか」
校長は興奮冷めやらぬ表情で話を続けた。
「人であれ、猫であれ、何かを成し遂げようと思ったら、ひたむきさが大切だということだよ」
校長は恍惚とした表情で熱弁を振るっていた。
李先生の学生の中で、パント―は、もしかしたら音楽の才能がいちばん劣っていて、ピアノを習得するための先天的な素質がいちばんなかったかもしれない。しかしパントーは、ほかのどの猫よりも、ひたむきに学ぶことが好きだったから、上達するのがいちばん早かったのだ。ぼくはそう思った。
リンゴの形をした音楽室の外にある芝生に寝そべって、パント―が弾くピアノの音に耳を傾けながら、まどろんでいるひとときが、今のぼくにとって、一日のうちでいちばん満たされる時間だ。
「笑い猫、お前は今、うっとりとして喜びに浸っているんだろう」
老いらくさんが、ぼくの心の中を読んで話しかけてきた。
「お前は本当に素晴らしい父親だよ。サンパオもアーヤーもパント―も、みんな将来性があって前途有望じゃないか。わしはそのことを認めないわけにはいかない。本当にすごいよ」
老いらくさんが、べたほめしてくれた。ぼくはそれを聞いて顔から火の出るような恥ずかしい思いをした。
「そんなにほめないでくださいよ」
ぼくの顔は赤くなっていた。
「ぼくには、ただ子供たちの適性を見る目があっただけですよ。子供たちに備わっていた潜在的な能力や長所に気がついたので、そこを見ただけですよ。子供たちの希望や興味を尊重して、それに添うように導いただけです。そのことがいちばん大切だと思ったからです」
ぼくは謙虚に、そう答えた。
「適性を見る目があること自体、お前は本当にたいしたもんだよ」
老いらくさんがまた持ち上げてくれた。
「自分たちにどのような潜在的な能力があるかないかは、自分ではなかなか分からないことも多いし、周囲から指摘されてやっと分かることも多い。サンパオとアーヤーとパント―の潜在的な能力は、父親のお前がうまく発見して引き出したから、みんな将来性がある有能な子猫になったんだよ」
老いらくさんが、とことん、おだててくれた。
パント―の場合は、持って生まれた先天的な能力が、アーヤーやサンパオの場合と違って、ひどく劣っていたが、それでも、ひたむきに努力したから、極めて短期間のうちに、一定のレベルまで持って来ることができたので、ぼくにとっては、格別な思いとなった。
「パント―のためにコンサートを開きたいと思っています」
ぼくは老いらくさんに提案した。
「それはいい考えだ。パント―の優れた才能は広く知ってもらうだけの価値がある。どこでコンサートを開くつもりか」
老いらくさんが聞いた。
「もちろん翠湖公園です。パント―を知っている友だちをみんな招待して、パント―の音楽的な才能をみんなに見てもらいます」
ぼくは晴れ晴れしい顔をして、老いらくさんに、そう答えた。すると老いらくさんが、くすくす笑った。
「お前の親心には思わず、ほろっとくるよ」
老いらくさんは、そう言ってから、
「でも笑い猫、パント―が学んだのはピアノだろ。お前はピアノをどこから持ってくるんだ」
と聞いた。
「あっ、そうか。それは確かに大きな問題だ。どうして、そのことに思いが至らなかったのだろう」
膨らみかけていたぼくの胸が、急に縮こまっていくように感じた。
このとき、パント―がこの日の授業を終えて、音楽室から出てきた。口には干し魚を二切れ、くわえていた。李先生が、ほうびとしてくれたものだ。パント―は授業を受けるたびに上手になっていくので、毎日、ほうびをもらっている。
パント―はいつもと同じように、一切れ、ぼくにくれた。それから晴れやかな顔をしながら、うちへ走って帰っていった。
ぼくは干し魚を半分にして、老いらくさんにも、分けてあげた。
「笑い猫、お前は今、もどかしい思いをしているのではないのか」
老いらくさんが、ぼくの気持ちに思いをはせていた。
「どうして、そう思うのですか」
ぼくは聞き返した。
「学んだことを実際に役立たせるためには、どうしたらいいかという、その問題で頭を痛めているんじゃないかと思ったんだ」
さすがに老いらくさん。ぼくの心の中が、ずばっと読まれていた。
「パント―はピアノを学んだが、お前たちの家にはピアノがない。そのために学んでも意味がなかったと思っているのではないのか」
気に障るようなことを老いらくさんが言った。
「パント―にピアノを学ばせたことを後悔しているんじゃないのか」
老いらくさんが、口撃を続けた。
「後悔なんか、全然していないよ」
ぼくは、ぶぜんとして言葉を返した。
「ピアノを学ぶことは、パント―が自分で決めたことだし、パント―の気持ちを、ぼくは尊重していたからね。ピアノの練習を通して、楽しさと自信を見出してくれたから、それを何よりも嬉しく思っているよ」
虚心坦懐な胸のうちを、ぼくは淡々と話した。
「ではこれからも学ばせ続けるつもりなんだな」
老いらくさんが確かめるように聞いた。
「もちろんですよ」
ぼくは揺るぎない声でそう答えた。
「パント―は妻猫が生んだ子供ですよ。妻猫が自分の子供に中途半端でやめることを許すわけがないでしょ」
ぼくは、きりっとした口調で言った。
ぼくがどうしてこんなことを言っているのか、老いらくさんなら、きっと分かるはずだ。妻猫が成し遂げた華々しいことを見て知っているからだ。翠湖公園を、たむろしていた、すべての猫が、天をつくばかりにそびえている白い塔のてっぺんに登りたいと思っていた。しかし、妻猫以外には、だれも登ることができなかった。妻猫には、ほかの猫にはない強い信念と、ひたむきな習得心あったので、訓練を途中でやめないで黙々と続けていった。そして、ついに高度な技を習得して、高い塔のてっぺんに登ることができた。ぼくは妻猫を誇らしく思っている。
ぼくと老いらくさんが、パントーが学んでいるペット曲芸学校から翠湖公園に帰ってきたときは、もう午後になっていた。小雨がまた、しとしとと降り始めていた。
パント―は、うちにはいなかった。
(この雨の中を、どこへ行ったのだろう)
ぼくはうちを出て、湖畔に沿って、ぐるっと、ひと回りして探しに行った。湖畔にはいなかった。湖畔の外に広がっているイチョウ林の中に探しに行くと、ようやく、パント―の姿を見つけることができた。
イチョウ林の中は、春の息吹が、みなぎっていて、生き生きとした生命力にあふれていた。みずみずしい若葉が枝から新しく出ていて、きれいな模様を施した小さな扇のような形をしていた。若葉は春雨にしとしとと濡れながら、かすかに揺れ動いていた。
イチョウ林の中には、かさを差した二十歳ぐらいの女の人が一人と、三歳か四歳ぐらいの男の子が一人いた。男の子は女の人から少し離れたところにいて、かさは差してなかった。パント―は男の子のそばにいて、瞳を凝らしながら、男の子の動きをじっと見ていた。
男の子は、おでこが大きくて、まつ毛は長く、目はぱっちりしていて、かわいい子だった。でも視線は定まらないで、どこを見ているのか分からないような感じだった。夢と、うつつのはざまを、ふらふらと、さまよっているようにさえ思えた。男の子は両手を上に挙げて、イチョウの木の周りを、くるくると何度も回っていた。髪の毛も服も、雨に、ぐっしょり濡れていた。しかし少しも気にする様子はないように見えた。男の子の様子を、女の人は、じっと見ていた。女の人は、まだ若かったので、その子のお母さんというよりは、ベビーシッターのお姉さんのように見えた。
「雨が降っているから、早く、うちへ帰ろうよ」
ベビーシッターのお姉さんは男の子に、何度も呼びかけていた。しかしベビーシッターの声は、男の子の耳には少しも聞こえていないようだった。男の子はまったく反応しないで、両手を挙げたまま、イチョウの木の周りを、くるくる回っているだけだった。男の子の目には、ベビーシッターの姿は空気と同じように見えていたようだ。
ベビーシッターは途方に暮れていた。
「あの子、人間、それともロボット」
パント―が、不思議そうな顔をして、ぼくに聞いた。
「人間だよ、もちろん」
ぼくは苦笑した。
「じゃあ、どうして、普通の子と違っているように見えるの」
パント―が首をかしげていた。
ぼくにもよく分からない。確かに、あの子は、普通の子とは、どこか違っている。地球人の子供には思えない。
(もしかしたら宇宙人の子供ではないだろうか)
ぼくは、真面目にそう思った。
第七章 パント―の卒業演奏
天気……春分の日が過ぎて、雨がますます降るようになってきた。春の雨には、栄養分がたくさん含まれていて、万物をうるおし、すくすくと成長させる源となる。数日前、青桐の葉は猫の足ぐらいの大きさだったが、今はもう人の掌ぐらいの大きさになっている。
パント―は今日、ペット曲芸学校を卒業することになった。李先生が卒業演奏を企画したので、ピアノを習っている猫たちの飼い主が見に来ることになっている。パント―には飼い主はいないので、ぼくと妻猫が飼い主の代わりに見に行くことにしていた。
「笑い猫、わしも見に行きたい」
老いらくさんが言った。
「だめだよ。だめ、だめ」
ぼくは強くはねつけた。
「どうしてだめなんだよ。パント―をペット曲芸学校にやってはどうかと勧めたのは、このわしなんだぞ。もしわしが勧めなかったら、パント―の今日の日があると思うか。忘れるなよ」
老いらくさんが不機嫌そうに、かりかりしていた。
「忘れていませんよ。でも今日の演奏会を妻猫も見に行くんです。妻猫はきっと老いらくさんに、ネズミのにおいをかぎ出すので、それを心配しているんです」
ぼくは老いらくさんに、来てもらいたくない事情を話した。
「においを消すために、いつもより多く消臭液を塗っていくよ」
老いらくさんは未練がましく、そう言った。
「それでもやはり用心するに越したことはないよ。もし妻猫に気づかれたら、せっかくこれまで、長年、培ってきたぼくと老いらくさんの友情が、たちまち終わってしまう」
ぼくは、熱心に説得に当たった。
「分かったよ。わしもお前との友情を、これからもずっと続けていきたい。行ったらいけないのなら、行かないことにするよ」
老いらくさんが、しぶしぶ、聞き入れてくれた。
老いらくさんは、それからまもなく帰っていった。
妻猫はパント―の演奏をまだ一度も聞いたことがない。そのために、ぼくよりもずっと今日の演奏会を楽しみにしている。
ペット曲芸学校に着いて、リンゴの形をした音楽室に、ぼくと妻猫とパントーが入ったとき、まだ誰も来ていなかった。
今日の卒業演奏会に出演する猫は全部で五匹。パント―以外の猫の飼い主たちが、それからまもなく続々とやってきた。みんな自分の猫を大事そうに抱えていた。パント―を抱える人はいなかったので
「この猫はどこの猫かな。それとも野良猫」
と、ほかの猫の飼い主たちが、口々に話していた。
ぽくと妻猫は、ほかの猫の飼い主たちの後ろに隠れるようにして見ていた。飼い主たちが自分の家の猫を抱いたまま、パント―と比べていて
「うちの猫がずっときれいだわ」
と、自慢げに話しているのが聞こえた。
妻猫には人の言葉が分からないので、話の内容が理解できなくて、よかった。そうでなかったら、ひどく傷ついていたに違いない。
校長と李先生が音楽室にやってくると、それからまもなく演奏会が始まった。パント―の出番は一番最後だった。李先生がパント―を抱いて鍵盤の上に載せたとき、飼い主たちの間で笑いが起きた。ほほえましい笑いではなくて、せせら笑いであることが、ぼくには分かった。
「みなさん、この猫をばかにするのはおやめください」
校長がいすから立ち上がって、注意をうながした。
「わしも初めてこの猫を見たときは、のろまで、どうしようもない猫だと思った。音感もまったくない猫だったから、この猫にピアノが弾けるわけがないと思った。ところが何と、この猫に信じられないような奇跡が起きたんだ」
校長が晴れやかな顔で、パント―を紹介していた。
校長の話を聞いても、ほかの猫の飼い主たちは、何のことだかよく分からないで、気に留める様子は微塵もなくて、あいかわらず、げらげら笑っていた。
(飼い主たちの心ない嘲笑がパント―の気持ちを動揺させるのではないだろか)
ぼくはそう思って、とても心配していた。しかし杞憂にすぎなかった。パントーは思っていた以上に、とても落ち着いていた。観客席からの野次や冷ややかな視線を少しも気にしないで、ピアノの鍵盤と李先生の指揮棒にだけ注意を払っていた。
李先生の指揮棒がリズミカルに振られていたときには、パント―は蝶のように軽やかに鍵盤の上を行ったり来たりしていた。ピアノからはそのとき様々な大きさの真珠の玉が、ころころと転がっていくような音が出ていた。李先生の指揮棒が力強く、ぐいぐいと振られているときには、パント―は鍵盤の上を小刻みに跳びはねて、魂に訴えるような激しい音を出していた。李先生が緩やかに指揮棒を振っているときには、パント―は鍵盤の上に横になって、太っている体を、まりのように転がしていた。するとそのときは何かを切々と訴えているような妖艶な旋律が流れていた。
「あー、なんて素敵な音楽なんでしょう。パント―が演奏しているなんて、信じられないわ。美しすぎる」
妻猫は、感動のあまり、声を出していた。
「しー、しー」
ぼくは慌てて、妻猫の口をふさいだ。
さっきまでパント―のことを、ばかにしていた人たちも、今はみんな、魅入られたように、しーんとなって、スマートフォンを取り出して、先を争うようにして、パント―の写真を撮っていた。
それからまもなくパントーの卒業演奏が終わり、ぼくと妻猫とパントーは意気揚々として、学校を後にした。
「あー、何て幸せなんでしょう」
妻猫の顔には喜びがあふれていた。
「お父さん」
「何」
「私がこれまで成し遂げた中で、一番誇らしく思っていることは何だか分かりますか」
妻猫がきいた。
「もちろん、あの高い塔のてっぺんに、母さんだけが立つことができたことだろう」
ぼくは自信をもって、そう答えた。
「ぶー、はずれでーす」
妻猫が、茶目っ気たっぷりに、くつくつしていた。
「私が成し遂げた一番の誇りは、三匹の有能な子猫を育てたことですよ」
妻猫の顔が、咲きたてのバラの花のように輝いていた。
確かに、パント―も、アーヤーも、サンパオも、妻猫の優秀な遺伝子をみんな受け継いでいる。パント―は、ひたむきさと真面目さを受け継いだ。アーヤーは美しさと品格を受け継いだ。サンパオは知性を受け継いだ。もちろん、ぼくから子供たちが受け継いだものも、何かあるだろうけど、それは何かなあ……
そんな話に花を咲かせているうちに、ぼくと妻猫とパントーは翠湖公園に帰ってきた。
ところが、またたくまにパント―の姿が見えなくなった。でもどこへ行ったのか、ぼくは知っている。ここ数日、パント―はペット曲芸学校から帰ってくると、いつもイチョウ林へ行っていたからだ。
ぼくはイチョウ林のほうへかけていった。あの、不思議なことをする男の子を探さなければならない。
(あっ、いた)
数日前と同じように、男の子は両手を上に挙げながら、イチョウの木の周りを、くるくる回っていた。男の子の近くにパント―がいて、瞳をじっと凝らしながら男の子を見ていた。
「お前は、いつもここに来て、男の子を見ているが、何がそんなに面白いんだ」
ぼくはパント―に聞いた。
「この子はどうしていつも手を挙げて歩いているのなあと思って」
パント―は目を男の子にくぎ付けにしたまま、そう答えた。
「この子が生まれた星では、みんな、そうやって歩いているのかもしれないよ」
口から出まかせに、ぼくはそう答えた。
「ニャーン、ニャン、ニャーン」
パントーが不意に大きな声で鳴いた。ぼくはびっくりして、はじかれたように跳び上がった。
「何なのだ。いきなり、そんな声を出して。びっくりするじゃないか」
ぼくはパントーを、きつい目で見た。
「ごめんなさい。びっくりさせようと思ったのは、お父さんではなくて、あの男の子のほう」
パントーがそう答えた。
ところが、男の子は何事もなかったかのように、イチョウの木の周りを、くるくる回り続けていた。
「どうしてこの男の子は少しも反応しなかったの」
パント―が不思議そうな顔をしていた。
「この子が生まれた星には音がないので、音が聞こえないのかもしれないよ」
ぼくは想像力をフルに発揮して、そう答えるしかなかった。
「ケンカのふりをしてみようか、びっくりするかどうか……」
パント―が興に乗っていた。ぼくは応じることにした。
ぼくとパント―は、向かい合って、恐ろしい形相をしてにらみあった。歯をむき出して爪を立てて、口からは
「ウー、ガオー、ウー、ウー」
と、ライオンがほえるような鋭い声を出した。地面が揺れるほど迫力満点の演技だった。ところが男の子には全然聞こえないのか、少しも見えないのか、ぼくとパントーの殺気だったケンカの演技には少しも目もくれないで、相変わらず両手を挙げたまま、イチョウの木の周りを、くるくる回っていた。
(この子が生まれた星では、みんな、こうなんだろうか)
ぼくとパント―が熱演したのに、空振りだったことを知って、ぼくは思わず
「あははー」
と、高笑いするしかなかった。
ちょうど、そのとき、男の子がぼくの前を通りかかってきて足を止めた。目は、そのとき、きょろきょろしていなくて、ぼくの顔をじっと見ていた。
(耳が聞こえないわけでも、目が見えないわけでもなかったんだ)
ぼくはそう思った。ぼくが微笑むと、男の子は無表情ながらも何か感じているよな目をしていた。
「この子、お父さんを見ているよ」
パント―が気がついて、そう言った。
「お父さん、もっと笑って。激しく笑って」
パント―にせき立てられて、ぼくはその気になった。ぼくが習得している笑い方の技術のすべてを出した。、がははっと笑ったり、くくくっと笑ったり、ひひひっと笑ったり、ふふふっと笑ったりした。すると男の子は不思議そうな顔をして、
ぼくの笑いをじっと見ていた。能面のような男の子の表情にそのあと変化が生じて、ぼくに、くすくすと笑いかけてきた。
第八章 イチョウ林の中の不思議な子
天気……春らしい陽気が、周囲にみなぎっている。暖かい風が吹いて、翠湖には、さざ波が幾重にも立ち並び、魚のうろこのように、きらきらと輝いている。
パント―は、けさ早く、夜が明けたばかりのころ、もう、うちを出て行った。
「パント―はどこへ行ったの」
妻猫が、けげんそうな顔をしていた。
「イチョウ林だよ」
ぼくは、そっけなく答えた。
「そこへ何をしに行ったの。イチョウ林の中にピアノがあるの」
妻猫がおかしなことを言ったので、ぼくは思わず、噴き出さずにはいられなかった。
「イチョウ林の中にピアノがあるわけないだろう」
「そうだよね」
妻猫が、ばつが悪そうな顔をしていた。
「パント―は学校でピアノを習ったけど、今はもう卒業して、うちにいるので、ピアノが弾けない。パント―が学んだことは何の意味もなかったのでしょうか」
妻猫が、むなしそうな顔をしながら、ため息をついた。
「そんなことはないよ。けっして無駄だったわけじゃないさ」
ぼくは強く否定した。
「どうして」
妻猫が聞き返した。
「どんな経験でも貴重な財産になるからだよ」
ぼくの答に、妻猫がうなずいた。
「パント―が持って生まれた音楽的な才能はゼロに等しかったが、ピアノを学んだときに、信じられないような奇跡が起きて、みんなに感動を与えた。パント―の自信にもなった。『志ある者は成功する』という格言を、パント―が証明したようなものだ。ひたむきさと真面目さがあったから、パント―は多くのテクニックを身につけて、あれほどの演奏ができるようになったのだ」
ぼくは熱心に語った。
「パント―はどうしてイチョウ林に行かなければならないの」
妻猫がまた聞いた。
「そこには不思議な男の子がいるからだ。パント―はその子にひきつけられている」
ぼくは理由を説明した。
「不思議な男の子ですか」
妻猫が首をかしげていた。
「そう、とても不思議な男の子。まるで宇宙からきた子のように不思議な子だ」
ぼくはそう答えた。
「宇宙からきた子ですか。宇宙ってどこにあるの」
妻猫が、きょとんとしていた。
宇宙について説明するためには、まず地球のことから説明しなければならない。以前、ぼくは杜真子の家に住んでいたので、そのころテレビを見ながら、天文学に関する知識を身につけていた。ぼくはそのことを思い出していた。
「ぼくたちが住んでいるところを地球というんだ。太陽や月は地球ではない。地球でないものは、ほかにも、たくさんある。夜空を見上げたら、無数の星が輝いているだろう。あの星が宇宙だ」
ぼくの説明を、妻猫は熱心に聞いていた。
「イチョウ林の中にいる男の子は、地球人の子とはあまりにも違っている。だからぼくは、あの子は宇宙からきた子ではないかと思っているんだ」
ぼくの話を聞いて、妻猫は、その子に強い興味を感じているようだった。
「私もイチョウ林に行って、その子を見てみたいわ」
妻猫が好奇心を、むらむらさせていた。
「じゃあ、これからいっしょに行こうよ」
ぼくは妻猫を誘って、それからまもなく、イチョウ林へ出かけて行った。
イチョウ林に着いたとき、男の子の子の姿はまだ見えなかった。パント―だけが、イチョウの木の下に、きちんと行儀よく座っているのが見えた。
「お前、ここで何をしているんだ」
ぼくと妻猫は、パント―のそばに走り寄って、聞いた。
「あの子が、このイチョウの木の周りを毎日、くるくる回るので、ここであの子を待っているの」
パント―が、いそいそしていた。
見たところ、イチョウ林のなかには千本以上のイチョウの木がある。どの木も、ほとんど同じように見えた。
(パント―はどうやって、あの子が毎日、回っている木は、この木だと分かるのだろうか)
ぼくはそう思った。
「お父さん、ほら、見て。ぼくは目印をつけたんだよ」
パント―が、ぼくの心の中を見通していた。
パント―は鼻で匂いを、くんくんかいでから、干し魚の匂いをかぎだして、木の下から掘り出した。そしてまた埋め戻していた。
昨日、その子が回った木の下に、パントーは干し魚を、こっそり埋めて目印にしていたのだ。
「私たち、少し離れたところから、こっそり見ていましょうよ」
妻猫が、ぼくにうながした。
「どうしてだ」
ぼくは、けげんに思って、聞き返した。
「私たちがここにいたら、その子の気が立つかもしれないから」
妻猫がその子の気持ちに思いをはせていた。
「分かったよ、じゃあ、そうしよう」
ぼくと妻猫は、パントーが干し魚を埋めたイチョウの木から少し離れたところにある別のイチョウの木の後ろに隠れて、その子がやってくるのを静かに待っていた。パントーもついてきた。
午後の二時を少し回ったころ、男の子が、イチョウ林に姿を現した。すぐ後ろには、あのベビーシッターもついてきていた。
男の子の目はぱっちりしていた。しかし視線はきょろきょろして定まらずに、ぼんやりしているように見えた。でも方向感覚はしっかりしているようだ。男の子はイチョウ林の中を左に一回、右に一回曲がると、特定のイチョウの木のところに、やってきて、両手を挙げて、くるくる回り始めた。
「あの木は昨日の木と同じかどうか確かめにいってくるよ」
パント―がそう言った。すると妻猫が慌てて制止した。
「行かないほうがいいよ。ここでじっとしていましょうよ。びっくりさせるかもしれないから」
妻猫は男の子の気持ちに思いをはせていた。
「いや、そんなことはないよ。あの子には周りのあらゆるものが、ないのと同じだよ。そうでなかったら、宇宙からきた子なんて、、ぼくは呼ばないよ」
ぼくは妻猫に異を立てた。
ぼくと妻猫とパントーはそれからまもなく、男の子のほうに走っていった。やはり、ぼくが思っていた通り、男の子は、ぼくたちを空気にしていた。見えていなかったのだ。
男の子が回っていた木の下を、ごそごそと掘っていたパント―は、目印としていた干し魚を見つけだして、口にくわえていた。
(あー、やっぱり昨日と同じ木だった)
驚きのあまり、ぼくは、思わず、おしっこを、ちびりそうになった。
「信じられないわ。イチョウの木は、こんなにたくさんあって、どれもほとんど同じように見えるのに、どうやって見分けたのでしょう」
妻猫も「驚き、桃の木、山椒の木」いえ、「驚き、桃の木、イチョウの木」といった顔をしていた。
(もしかしたら……)
ぼくはまたここで、得意の想像力を発揮した。
(宇宙からきたとき、この子はこの木の近くに下りたのではないか)
ぼくはそう思った。
それからまもなく、イチョウ林の中に、次々と、ほかのベビーシッターが子どもを連れて入ってきた。子どもはみんなわんぱく坊主ばかりだった。不思議なことをしている男の子にボールをぶつけたり、足をかけて倒す子もいた。それでも男の子は少しもひるまずに、相変わらず手を挙げて、木の周りをくるくる回っていた。
妻猫は、男の子のそんな様子を見て
「本当にこの子は宇宙人の子ですね。お父さんの言ったことを、信じるわ」
と言った。
男の子の不思議な姿は、ぼくの心に次から次へと疑問を生じさせた。
(どうやって地球にきたのだろうか。お父さんやお母さんはいるのだろうか。どうして宇宙からきた子にベビーシッターがいるのだろうか)
疑問を解き明かしたいという気持ちが、僕の胸に、ぐぐぐっと高まってきて、じっとしていられなくなった。
べビーシッター同士は仲良く集まって、おしゃべりに興じていた。宇宙からきた子をじっと見ながら話していたので、その子のことを話題にしているのが分かった。ぼくには人の話が分かるので、何を話しているのか知りたくてたまらなくなった。ベビーシッターの近くに行って、耳をそばだてると、話の内容が聞こえてきた。
「えっ、三時間も回っているの。はやくやめさせなさいよ」
ベビーシッターの一人が、宇宙人の子のベビーシッターに注意をうながしていた。
「やめさせることができないのよ。私の言うことが聞こえないから」
宇宙人の子のベビーシッターが困りはてたような顔をしていた。腕時計にちらっと目をやってから
「今、五時だから、あと三十分したら、あの子は回るのをやめるわ。それまで待つしかないわ。毎日、そうなのよ」
宇宙人の子のべビーシッターは、難儀しているようだった。
「いったい、どういう神経をしているのでしょうね」
「まったくねえ」。
「時間が来たら、回るのを、ぴたっとやめるの」
「時計は持っていないのでしょ。どうして時間が分かるのかしら」
ベビーシッターは、みんな半信半疑の顔をしていた。
五時半が近づいたころ、ベビーシッターは、それぞれ自分の腕時計に目をやっていた。
(あと三分……あと二分……あと一分……時間だ。五時半になった)
ベビーシッターは、みんな顔をあげて、宇宙からきた子を見た。すると男の子は回るのをやめて、体の向きをくるっと変えてから、イチョウ林の中から出ていこうとしていた。
「うちへ帰っていくわ」
男の子のべビーシッターが、ほかのべビーシッターに説明していた。
「うちへ帰っていく道順はいつも同じ。変えることはないわ」
男の子の子のベビーシッターの話に、ほかのベビーシッターは耳を傾けていた。
男の子が、そそくそとイチョウ林から出て行ったので、ベビーシッターは、あわててあとを追いかけていった。
男の子は道を歩く様子も普通の男の子とは変わっていた。何かに触るようにして歩いていたからだ。琉璃長廊と呼ばれている遊歩道まで歩いてきたとき、年配の男の人が数人、ベンチに座って楽器を演奏していた。バイオリンや胡弓やリコーダーやシンバルやアコーディオンの音がにぎやかに鳴り響いていた。京劇の一節を、ろうろうと歌っている人もいた。しかし男の子は音や声には、まったく関心を示さないで、手で男の人の体を触りながら、ゆるゆると通り過ぎていった。男の人は、びっくりして、目を丸くしながら、男の子を見ていた。
「すみません、すみません」
男の子のべビーシッターが、申し訳なさそうに、しきりに謝っていた。
ベビーシッターは男の子を抱き上げて、足早に琉璃長廊を出ていった。
すると男の子が甲高い声でわめきだした。声は、辺りを、つんざかんばかりに激しかったので、ベビーシッターは男の子を下におろすよりほかなかった。
男の子は向きをくるっと変えると、琉璃長廊に戻っていった。ベビーシッターはそれを見て、あとを追いかけていって、男の人に、また申し訳なさそうに、ぺこぺこと謝っていた。そのあとベビーシッターは、男の人に、つぶやくような声で何か話していた。男の人は、うなずいていた。そして、いたたまれなさそうな目で男の子を見ながら、一人、また一人と、琉璃長廊を出て行った。
男の子は椅子や柱に触ってから、琉璃長廊を出て行った。男の子の前方にアーチ橋が見えてきた。アーチ橋を渡れば公園から外に早く出ることができる。しかし男の子は橋を渡らずに、引き返して、いつもの道順にそって公園から出て行った。
第九章 パント―の願い
天気……今日は清明節。春も本番になり、気温がかなり上がってきた。町のあちこちで先祖を偲んで、柳の枝で編んだ帽子をかぶっている人を多く見かける。
午前中、雨が降っていたので、ぼくと妻猫とパント―は外に出なかった。
「お父さん、ぼくが今いちぱん願っていることは何だか分かる」
パント―が、ふいに聞いた。
「ピアノをまた弾きたいということだろう。せっかく、お前がピアノを学んだのに、うちにはピアノがないからね」
ぼくは申し訳なさそうに答えた。
「違う、違う」
パント―が首を横に振った。
「ぼくが今いちばん願っていることはピアノをまた弾きたいことじゃないよ」
パント―がはっきりそう言った。
(あれっ、違うのか)
ぼくは意外に思った。
「じゃあ、お前がいちばん願っているものは何なのだ」
ぼくは、ふに落ちなかったので、聞き返した。
「お父さん、当ててよ」
パント―がもったいぶった言い方をした。
ぼくは、しばらく考えた。でも思い浮かばなかった。
「お前の願いが実現するよう、父さんにできることなら何でも手伝ってあげるよ」
ぼくはそう答えた。
「お父さんにできることだよ。お父さんにしかできないことだよ」
「えっ、本当か。そんなことが何かあるかなあ」
ぼくはちょっと考えた。でも思い当たらなかった。
「はやく言えよ」
ぼくはむずむずして落ち着かなかった。
「ぼくに笑い方を教えてくれない」
予想外の答が返ってきたので、ぼくはうまく受け止めることができなかった。
「えっ、何、今、何と言った。もう一度、言って」
ぼくはパント―に聞き返した。
「ぼくに笑い方を教えてくれない」
今度は、はっきりと聞き取ることができた。嬉しくもあった。
「お前はどうして急に、そんなことを思うようになったんだ」
存外のことに、ぼくの心はうまく整理できないでいた。
「宇宙人の子を、地球人の子にしてあげたいの」
パント―は浮き浮きした顔で、そう答えた。パント―の思いやりに、ぼくは心を動かされた。
「お前は優しいなぁ。でも父さんの笑いと、それと、どのような関係があるんだ」
ぼくは率直な疑問を投げかけた。
「あるよ、あるよ。おおありだよ」
パント―がすぐに答を返した。
「あの子はお父さんの笑顔にしか興味を示さなかったじゃない。これはぼくの大発見だよ」
パント―は感動冷めやらぬ顔をしていた。
「あー、そう言われれば、確かにそうだったな。思い出した」
ぼくは、おととい見たイチョウ林の情景が脳裏に浮かんだ。宇宙からきた子が両手を挙げてイチョウの木の周りを、くるくる回っていたとき、ぼくが笑いかけたら、宇宙からきた子は回るのをやめて、ぼくの顔をじっと見ていた。そのとき、あの子の視線はきょろきょろしていなかった。そして、優しそうな目でぼくに笑いかけてきた。
おとといの出来事は、ほんの数分間の出来事にすぎなかった。しかし、その数分間の間は、宇宙からきた子は、地球人の子と少しも変わったところがないように見えた。
「あのときは、たまたま反応しただけかもしれないよ」
ぼくは謙遜した。するとパント―が首を横に振った。
「お父さんの笑顔以外のものに、あの子が反応したのを見たことがないよ。うそだと思うならこれからいっしょにもう一度、イチョウ林に行って確かめてみようよ」
パント―が熱心に誘ったので、ぼくは応じることにした。
午後の二時半に、ぼくとパント―はイチョウ林にやってきた。妻猫もついてきた。宇宙からきた子も、ほとんど同じ時刻にやってきた。あの子はいつも二時半ぴったりに、ここに来ることに決めているようだ。千本以上もあるイチョウの木の中から、特定の木を探し出して、その木の周りを回ることにしているのは、やはり地球にきたとき、たまたま、その木の近くに下りたからかもしれないと、ぼくは思った。特定の木の前に着くと、男の子は、両手を挙げて、木の周りをまた回り始めた。
ぼくと妻猫とパント―は、その子のほうにかけていった。
パント―は男の子の足元に走りつくと、いっしょに回りはじめた。でも男の子はパント―には少しも注意を払わなかった。目はいったいどこを見ているのか、さっぱり分からなかった。
「お父さん、はやく笑って」
パント―が、気もそぞろに言った。
男の子がぼくの前に回ってきたとき、ぼくは、はちきれんほどの思いをこめて破顔一笑した。すると、男の子が目を大きく見開いて、それまでとはうって変わったように表情が生気づいた。高く挙げていた両手を下ろして、ぼくをじっと見ていた。ぼくはひたすら微笑んで、満面の笑みで男の子を見ていた。男の子は、ぼくの笑顔に魅せられたように、ぼくの顔からずっと目を離さなかった。
ぼくがイチョウの木から離れていくと、男の子もイチョウの木から離れて、ぼくについてきた。
「あっ、パオパオ、どこへ行くの……」
ベビーシッターの声がした。ベビーシッターはそれまで、ほかのベビーシッターと、おしゃべりに興じていたが、男の子がぼくのあとについていっているのに気がついて走ってきて、男の子を抱きしめた。
するとそのとたん、男の子が、ベビーシッターの胸に抱きかかえられたまま、地響きがするほど激しくぐずりだした。その様子を見ていたほかのベビーシッターは見るに忍びなくなって、逃げるような足取りで、イチョウ林から出て行った。
「今日はいつもとは違うね」
「そうだね。まだ五時半になっていないのに、どうしたのかしらね。いつもは時計のように正確なのに」
「どうして今日は回るのを途中でやめたのかしら」
「さっき、猫が近くに、いたようだけど……」
ベビーシッターが、口々に話しているのが聞こえてきた。ベビーシッターに見つかって面倒なことに巻き込まれたくないと思ったから、ぼくと妻猫とパントーはイチョウ林をさっと離れることにした。 そしてうちをめざして、一目散に走り始めた。
「お父さん」
走りながら、パント―が聞いた。
「お父さんの笑顔に、あの子が反応したのは偶然じゃなかったことが分かったでしょう」
パント―にそう言われると、反論の仕様がなかった。確かにあの子は、ぼくの笑顔に興味を覚えていた。
「そうだね。父さんも、そう思うよ。それから今日、もう一つ、分かったことがあるよ」
ぼくがそう言うと、パント―が身を乗り出してきた。
「何が分かったの、お父さん」
パント―が耳を傾けていた。
「あの子の名前だよ」
「何と言うの」
パント―が興味深そうな顔をしていた。
「パオパオだよ。ベビーシッターがそう呼んでいたから」
「パオパオか。誰が、つけたのかな」
パントーが小首をかしげていた。
パオパオという名前は、地球人によくある名前だ。あの子のお父さんとお母さんも宇宙人に違いないのに、あの子の名前はどうして地球人の名前と同じなのだろうか。もしかしたら宇宙からきたときに、地球人の家族に引き取ってもらって、その家のお父さんとお母さんに名前をつけてもらったのだろうか。ぼくには謎が深まるばかりだった。
「パオパオという名前は、きっとお母さんがつけたものだわ。子どもはみんな、お母さんのパオパオ(宝物)だからね」
妻猫の母性本能が、ひしひしと伝わってきた。ぼくは、うなずかざるを得なかった。
「あの子のお母さんは、パオパオが地球人の子どもになることを、どんなに望んでいることでしょうね」
妻猫が感傷的になっていた。
「お母さん、ぼくがパオパオを地球人の子どもにしてあげるよ」
パントーが目を輝かせていた。
「ぼくはこれまでずっとサンパオとアーヤーのことを、うらやましく思っていたんだ。サンパオは盲人を助ける盲導猫になったし、アーヤーは人の言葉を話したり、耳が遠い人を手伝って新聞を売ったり、歌を歌って、植物人間を覚醒させることができた。どちらもすごいよ。ぼくもサンパオやアーヤーのように人の役に立つ猫になるよ。パオパオを地球人の子どもにするために頑張るよ」
パント―の熱い思いが、ひしひしと伝わってきた。ぼくと妻猫は感動に震えていた。