第三章 パント―が怖がるコーチ

天気……柔らかな春風が、ほおをそっとなでで、くすぐったい。春の訪れを告げる天女のしなやかな手で、そっと触られたような感じがした。

昨日、うちへ帰るとき、パント―が、しょげていなかったので、ぼくは、ほっとした。何かを学んで人の役に立ちたいという意欲が、まだ、ありありと、うかがえたからだ。校長の否定的な見解が、パント―の士気に影響するのではないかと思っていたが、ぼくの杞憂に過ぎなかった。
「お前は何を学びたいのか」
「いろいろなことを学びたいよ」
「何かを学ぶためには、一つ一つ、コツコツと学んでいかなければならないよ」
ぼくは、さとすように言った。
「お前は何に興味があるんだ」
パント―が好きなものを、ぼくは知りたかった。
「興味があることは何でも学んでいいの」
ぼくは、うなずいた。
パント―はちょっと考えていた。
「ぼくは……ぼくは……、輪くぐりに興味がある」
パント―が、ぼそぼそっと答えた。
 一晩明けて、けさ、ご飯を食べながら
「輪くぐりを学ぶことにしたんだね」
と、ぼくは念を押すように、パント―に聞いた。
するとパント―が、きょとんとして
「輪くぐり……、どうしてぼくが輪くぐりを学ばなければならないの」
と、聞き返してきた。
(まったく、もう……、パント―には、あきれた。昨日、自分でそう言ったくせに、一晩たったら、もうすっかり忘れてしまっているなんて)
「お前は昨日、輪くぐりに興味があるって言ったじゃないか」
「あー、そうだったね。思い出した。じゃあ、ぼく、輪くぐりを学ぶことにするよ」
パント―の答え方を聞いていると、何でもいいといった感じに聞こえた。
ペット曲芸学校に着いたとき、校門の外には、車がいっぱい止まっていた。そのほとんどは、ペットを連れてきた飼い主の車のように思えた。それらの車を見ているとき、ちょうど学校のチャイムが鳴った。授業が始まったらしい。
昨日、来たときに、孔雀門から中に入れることを知っていたので、ぼくとパント―は、まっすぐ、あの大きなゾウの彫刻があるほうへ歩いていった。
ゾウの鼻づたいに階段を登っていって、ゾウの背中の上に建っている教室棟に入り、それから再び校長室を訪ねた。
「ああ、お前たちか」
校長はいすから立ち上がると、ぼくたちの前にやってきた。
「何を学ばせることにしたか」
校長がぼくに聞いた。
ぼくは壁にたくさん貼ってある写真の中から、猫が輪くぐりをしている写真
にジャンプして体をぶつけた。
「おう、そうか。輪くぐりを学ばせたいのだな」
校長がそう言ったので、ぼくは、にっこり、うなずいた。
「いいだろう。コーチに会わせてやろう」
ぼくとパント―は校長のあとについていった。運動場に来たとき、遠くに、コーチらしき人と三毛猫が一匹見えた。少し離れたところに、車のタイヤぐらいの大きさの赤い輪が、上からつりさげてあるのも見えた。コーチが旗を振ると、三毛猫は輪のほうに向かって矢のように勢いよく走っていって、輪の手前でジャンプして輪を見事にくぐり抜けていた。
「うまいぞ、カオー」
校長が手をパチパチたたいた。
(カオーというのか、あの猫は)
カオーのかっこよい輪くぐりを見て、ぼくもパント―も拍手を送りたいほどだった。
 校長の拍手の音を聞いて、気をよくしたカオーは、コーチのそばへ近づいていった。コーチはズボンのポケットから、干し魚を取り出して、上に、ひょいっと
投げた。カオーはジャンプして、干し魚を口でうまく受け止めた。
「わあ、いいなあ。ぼくも食べたい……」
パント―は舌をぺろっと出してから、唇を、なめた。
「やめなさい、みっともない」
ぼくはパント―に注意した。
「輪くぐりを学びたいという猫を連れてきたよ」
校長はコーチのところまで近寄っていった。
コーチがぼくたちのほうを振り向いた。
(おえーっ、ひどく怖そうなやつ。まゆは、つりあがり、目は金属のように冷たい)
ぼくはそう思った。
コーチは、ぼくを見て、それからパント―を見て
「この猫か」
と、校長に聞いた。
「うん、その猫だ」
校長はパント―を指さした。コーチは熊手のような、ごつい手でパント―の首根っこを、ひっかかえると、体重計に載せて、体重を測っていた。
「太っているじゃないか」
コーチはそっけなく、そう言ってから、パント―を体重計から、乱暴な手つきでどーんと下ろした。
 パント―には人の話が分からないので、まあよかったが、乱暴に扱われたことで、ひどく傷ついているようだった。
「怖がらなくていいよ。コーチは、ちょっと、からかっただけだよ」
ぼくは間、髪を入れずにパント―を慰めた。
 パント―は気を取り直して、いつものような元気さを取り戻した。それを見て
校長が
「この子は性格がいいね」
と言って、ほめてくれた。 
校長が帰っていったあと、コーチはパント―をひっさげて、つり輪から二十メートル離れたところにある黄色い線のところまで連れていった。線の上にパントーを下ろすと、腰に巻いていた革ひもを外して、パント―の尻を、ぴしっとたたいた。
「行け」
地面が震えるような鋭い声がした。
「ひいー、いたーい」
パント―は悲鳴を上げながら、つり輪のほうに向かって走っていった。つり輪の前でジャンプを試みたが、タイミングが合わずに、うまく、輪の中をくぐれなかった。
「もどってこーい」
鬼のような鋭いコーチの声がまた響いた。パント―がもどっていくと、コーチはまたパント―の尻に、、ぴしっ、ぴしっと、むちを当てた。
「成功するまで何度でもやらせるからな」
ぼくは心が痛んで、見ていられなくなった。
カオーと呼ばれている三毛猫は、干し魚をくわえて、寝そべりながら、パントーを見ていた。
「お前も、むちを受けたことがあるの」
ぼくはカオーに聞いた。
「初めはみんな、あのように打たれるさ。でも賢かったら、すぐに要領を覚えるので、いつまでも打たれることはないさ。干し魚ももらえる。あんたが連れてきた猫は、とろそうだから、いつまでたってもマスターできないだろうなあ」
パントーを見下したようなカオーの言い方に、ぼくは思わず、かちんと来た。でもここはじっと我慢することにした。
 パント―が失敗を繰り返すたびに、コーチの怒鳴り声のボルテージがますます上がり、コーチは汗だくになりながら、狂ったように、激しく、パントーをたたき続けていた。パント―は、意識がもうろうとしてきて、自分が何をしているのか分からなくなってきて、しまいには、地面にぺたんと伸びてしまった。コーチがどんなに激しくむちを当てても、パントーにはもう立ち上がるだけの元気はなかった。
「意気地のないやつ」
コーチは、いまいましそうに、吐き捨てると、カオーを連れて、どこかへ行って
しまった。
「パント―、大丈夫か」
ぼくは心配になって、パント―に、かけ寄った。
「お父さん、ぼく、もう輪くぐりは学びたくないよ」
パント―が弱音を吐いた。
「そうか。分かるよ、でもお前は、輪くぐりに興味があったんだろう」
「でも、あの人は怖いよ」
パント―は、赤鬼のようなコーチの厳しい訓練に、よほど懲りていたように見えた。
パント―を連れて、翠湖公園に帰ったあと、ぼくは、これからどうしたらよいか分からなくなって、やるせない気持ちになった。こんなときには、やはり、老いらくさんに会って、心の中のもどかしい思いを聞いてもらいたい気がする。どこに行ったら、老いらくさんに会えるか、ぼくは知っている。冬が過ぎ去ったばかりの今、公園の梅の花は、もうしぼんでいたが、梅園にはまだ花の残り香があって、かぐわしいにおいが漂っている。老いらくさんは、、そのにおいをかぐために、きっと梅園にいるはずだ。
梅園まで来ると、入り口の門は、ぴったりと閉まっていた。仕方なく、ぼくは塀を乗り越えて、梅園の中に入っていった。やはり思っていた通り、老いらくさんは、梅園にいた。
「何かあったのか」
ぼくの顔色がさえないのを見て、ただならぬ雰囲気を感じたのか、老いらくさんが声をかけてきた。
「何もなかったら、お前がこれまで自分から、わしを訪ねてきたことはなかったからな。きっと何か大変なことがあったんだろう」
老いらくさんが、ぼくの心を察してくれた。
「大変なことというほどのことではないけれど、ただ、パント―が……」
ぼくは、もそもそしていた。
「パント―がどうしたんだ。パント―を連れて、ペット曲芸学校に行ったんだろう。パント―は何を学ぶことにしたんだ」
老いらくさんが興味深そうな顔をしていた。
「パント―は輪くぐりに興味があると言ったから、校長が今日、パント―を練習場に連れて行った。ところが、パント―は、もう学びたくないと言っている」
「どうしてだ」
「コーチが厳しい人だから、パント―が怖がっている」
パント―が輪くぐりを練習していた今日の、一部始終を、ぼくは老いらくさんに話した。
「なるほど、そういうことだったのか。それじゃあ、学びたくなくなるのも無理はないな」
老いらくさんが分かってくれた。
「コーチを怖がっていたら、コーチが好きになれないし、テクニックを習得することもできない。パント―に限らず、お前だって、わしだって、結果は同じだと思う」
老いらくさんは、そう言ってから、しばらく考えにふけっていた。
「笑い猫、わしに提案がある。もしお前が嫌じゃなかったら、わしにパント―の先生役をさせてくれないか」
老いらくさんが、おかしなことを言った。
「何を言ってるんですか。ネズミが猫の先生になるなんて、地球がひっくり返っても、そんなことはありえませんよ」
ぼくは、老いらくさんの奇怪な提案を、きっぱりと、はねつけた。
老いらくさんはそれでも気を悪くしないで
「じゃあ、明日、お前とパント―を連れて、もう一度、ペット曲芸学校に行って、、いい先生を探そうよ」
と言ってくれた。