第十九章 自閉症の子

天気……今は初夏で、とてもさわやか。毎朝、すがすがしい風が吹いてきて、風の中に、花の香りが、かすかに漂っている。ぼくの体にも、花の香りがついている。

「笑い猫、こんなに朝早く散歩に出てきて、どうしたんだ」
けさ、翠湖公園のアーチ橋の上で、老いらくさんに声をかけられた。朝早く散歩することは健康によいので、老いらくさんは、夜がしらじらと明けたばかりのころ、毎日、公園にやってくる。
「散歩じゃないよ。パオパオのうちに行っているんだ」
ぼくは、そう答えた。
「パオパオって、お前がこの前、話していた宇宙人の子か」
老いらくさんが聞いた。
ぼくはうなずいた。
「その子がどうかしたのか」
「どうもしないけど、ぼくにはパオパオのことがよく分からなくなってきた」
「どうしてだ」
「あの子は、宇宙人の子どもなのか、それとも地球人の子どもなのかと思って」
ぼくは途方に暮れたような顔をしていた。
「地球人の子どもだとすれば、習ったこともないのに、どうしてあんなに音楽に通じているのだろう。宇宙人の子どもだとすれば、パオパオの今の顔つきや動作は、どうしてあんなに地球人らしく見えるのだろう。考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなってきた」
ぼくは心のうちを老いらくさんに話した。
「そのことなら容易に想像がつくよ」
老いらくさんが嬉々として言った。
「パント―が宇宙人の子どもを地球人の子どもに変えていったんだ。パントーのおかげだ」
老いらくさんがそう言ってくれた。確かに、そうかもしれない。しかしそれでもやはり、ぼくの心に生じた謎はすっきりと解消したわけではなかった。
「わしもお前といっしょに、宇宙人が住んでいるうちに行ってみたい。パントーの手柄をわしも見たくなった」
老いらくさんが、そう言った。
「だめ、だめ、絶対だめ。行ったら、面倒なことなる」
ぼくは慌てて老いらくさんの意をそいだ。
「どうしてだ」
老いらくさんが、けげんそうな顔をしていた。
「あの子は特別な能力を持っているから、老いらくさんがネズミだと分かったら、捕まえて何をするか分からない」
老いらくさんは、渋々、ぼくの話を聞き入れてくれた。
それからまもなく、ぼくはひとりで、パオパオのうちに行って、玄関の横にある小窓の隙間から中に入って、パオパオの部屋に行った。パオパオもパント―も部屋にはいなかった。客室をのぞくと、パオパオが、お父さんやお母さんといっしょにソファーに座っていた。パント―はパオパオの足元にしゃがんでいた。
(パオパオのお父さんとお母さんは、今日はどうして、うちにいるのだろう)
ぼくは、そう思った。パオパオのお父さんがしきりに時計を気にしていた。
「パオパオ、もうすぐお客さんがお見えになるから、おりこうにしているのよ」
パオパオのお母さんが優しい声で諭していた。
それからまもなく、玄関のインターホンが鳴った。ベビーシッターが玄関のほうへ出て行って、ドアを開けた。すると玄関の前に男の人が二人、立っていた。一人は、昨日、病院で見かけた男の人だった。
「唐先生、お待ちしていました。どうぞ、おあがりください」
「昨日は、ありがとうございました」
パオパオのお父さんとお母さんも玄関に出てきて、にこやかな顔で、あいさつをしていた。
「お父さん、お母さん、このかたは、音大の丁先生です」
唐先生が、隣にいる男の人を紹介していた。
丁先生はパオパオのお父さんとお母さんに会釈をすると
「初めまして。丁です」
と言ってから、パオパオのお父さんに名刺を渡していた。
唐先生と丁先生は客室に案内されて、中に入っていった。パオパオが客室にいて、唐先生と丁先生を見た。
「この子ですか」
丁先生が唐先生に聞いた。
唐先生が、うなずいた。
丁先生はパオパオをじっと見ていた。
「自閉症の子には見えないけどなあ」
丁先生が、唐先生にそう言っているのが聞こえた。
「パオパオは普通の子と、もうほとんど変わらないのですよ」
唐先生がそう答えていた。
「それは本当に奇跡だ。自閉症は治りにくいと聞いていたが、こんなこともあるんですね」
丁先生が嬉々とした声で、そう言った。
「奇跡は子猫のパンちゃんがもたらしてくれたんですよ」
パオパオのお母さんが五月の薫風のような声で説明していた。
「この猫ですか」
丁先生がパント―を指さしながら聞いていた。パント―はあいさつ代わりに、丁先生に、にっこりと笑みを浮かべた。
「おー、この猫は笑えるのか」
丁先生が目を見張っていた。パント―が笑っているのを見て、パオパオも笑った。丁先生はいちだんと驚いていた。
「自閉症の子は笑わないと聞いていたが、この子はいつから笑えるようになったの」
丁先生がパント―のお母さんに聞いていた。
「パンちゃんと出会ってからです」
「そうですか。不思議な猫だねぇ」
丁先生が、パント―の顔を、しげしげと見ていた。
「パンちゃんと出会うまでは、パオパオは、ほかの自閉症の子どもと同じように無表情で、人とのコミュニケーションがまったくできなかったんです。自分の世界に閉じこもっていて、外の世界にまったく関心を示さなかったんです。ところがパンちゃんと出会って、パンちゃんの笑顔のとりこになって、それからだんだん笑えるようになったんです」
パント―のお母さんが、これまでのいきさつを丁先生に話していた。
「パンがパオパオを外の世界に連れ出してくれたと言えるかもしれないなあ」
お父さんがお母さんのあとをついで話していた。
「パンはパオパオの救い主です。パンはぼくとお母さんの救い主でもあります。パンのおかげで、パオパオに音楽の才能があることに初めて気がつきました」
お父さんも。パンのことをべたほめしていた。
 丁先生が腰をかがめて、パオパオに微笑むと、パオパオも丁先生に、にっこりと微笑みを返していた。
「パオパオは目で丁先生とコミュニケーションをとっていますよ。自閉症の子には、ほとんどできないことです」
「でしょうね」
唐先生の説明に、丁先生が相づちを打っていた。
「私がこれからピアノを弾くので、指揮をしてくれないか」
丁先生がパオパオに言った。
丁先生はパオパオの手を引いて、ピアノのそばまで連れていった。パオパオのお母さんが、パオパオの手に指揮棒を持たせた。それからまもなく丁先生がいすに座って曲を弾き始めた。
丁先生は最初にワルツを弾いた。丁先生の両手が鍵盤の上を蝶のように優雅に動きだした。静かな旋律で始まる出だしの部分から中間部の弾むような明るい旋律。そしてフィナーレの余韻に満ちた美しい調べ。丁先生の演奏は完璧だった。そしてその曲調の変化を的確にとらえながら、作曲家と演奏家の思いを伝えたパオパオの指揮も完璧だった。
曲を弾き終えたあと、丁先生は目を星のようにきらきらさせながら
「素晴らしい、非の打ち所がない」
といって、パオパオの指揮ぶりに驚嘆の声を挙げていた。
「この子は本当に先生から習ったことはないの」
丁先生がパオパオのお父さんとお母さんに聞いていた。
「そうですよ」
パオパオのお母さんが強調していた。
「私も主人も音楽のことはよく分かりません。ピアノの先生にレッスンに来てもらったこともありません。パンちゃんが音を出すのが好きだから、その音を聞きながら指揮棒を振っているんです」
お母さんが、そう説明していた。
丁先生は二曲目は行進曲、三曲目はソナタ、四曲目はセレナーデを弾いた。パオパオは曲調の変化に合わせて、指揮のスタイルを自由自在に変えていた。仕草がとてもなめらかで、音の流れと、ぴったり合っていて、どの曲も微塵のずれもなかった。指揮者としての風格さえ感じられた。
「すごいよ。天才だよ」
丁先生が激賞していた。
「リズム感も理解力も抜群。並みの子どもに、こんな見後な指揮は絶対にできっこない」
丁先生は恍惚感に浸っていた。
「この子を私に預けさせていただけませんか」
丁先生がパオパオのお父さんとお母さんに丁重にお願いしていた。
「丁先生のもとで学ばせていただけるということですか」
パオパオのお母さんが目を、うるうるさせていた。
「そうです。この子の才能をますます伸ばして、大輪の花を咲かせたいと思っています」
丁先生の言葉に、パオパオのお父さんも、とても感激していた。
それからまもなく、丁先生と唐先生は帰っていった。ぼくもそのあと、パオパオのうちを出て、自分のうちへ帰っていった。