第十八章 明るい部屋

天気……朝は、どんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうな空模様をしていた。午後になると案の定、雨が降り出した。しかし夕方になると雨はやんだ。

ここ数日、朝、目が覚めると、ぼくはすぐにパオパオのうちに行きたくなる。パント―のピアノを聞きたいし、パオパオの指揮を見たいからだ。パントーが体全体を使って表現する音に合わせて、パオパオが的確に指揮棒を振っている姿は本当に不思議でたまらない。想像するだけで、心も体も、うずうずする。パオパオがピアノの音から感じたものを絵に表現していく姿も見たい。
ぼくはそう思ったので、ご飯を食べるのもそこそこに、うちを出ていった。空を見上げると、厚い黒雲が町の上空を覆っていた。もうすぐ雨が降りそうだ。
 ぼくはパオパオのうちまで、一目散にかけて行った。風鈴がさげてある玄関横の小窓の隙間から、うちの中に入り、パオパオの部屋に入って行った。部屋の中にパオパオはいなかった。パント―だけがいた。
(パント―とパオパオは、影と形のように、いつも、くっついていて離れないのに、今日はどうしたのだろう)
ぼくは、けげんに思った。
「パオパオはどうしたのだ」
と、パントーに聞くと
「お父さんとお母さんがどこかに連れていくつもりで、今、準備をしている」
とパントーが答えた。
「どこに連れていくんだ」
「……」
パント―には人の話は分からないので、知っているわけがない。聞くだけ無駄だった。
そのとき、玄関のドアがばたんと閉まる音が聞こえた。これから出ていくようだ。
(下におりていこう)
ぼくはそう思った。
(パオパオのお父さんとお母さんは、パオパオを、どこに連れていくのだろう。何をしに行くのだろう)
ぼくの興味は尽きなかった。
ぼくはパント―といっしょに窓から外に出て、階段伝いに下におりていった。一階までおりると、出入り口の横にある花壇に体を隠して、駐車場から出てくるパオパオのお父さんの車を待っていた。しばらくするとお父さんの車が出てきた。
「あっ、きた、きた」
ぼくとパント―は花壇から飛び出した。
「車の姿を見失わないようについていこうよ」
ぼくはパント―に言った。
「もし見つかったら」
「大丈夫だよ。車は通りを走る。ぼくたちは歩道を走る。見つかりっこないよ」
「車は速いけど、ついていけるかな」
「大丈夫だよ。車は赤信号で止まらなければならないから、遅れてもその間に追い上げよう。仮に見失っても、行きそうなところを見当つけて捜そうよ」
「うん、そうだね」
「さぁ、行くぞ」
ぼくとパント―は、ぱっと駆け出した。
車の後を追うように、ぼくとパント―は全速力で走っていった。車はいくつかの信号待ちにかかったので、その間に、ぼくたちは追い上げていった。車の姿は遠くに消えそうになったが、かろうじて視界に入れながら、後を追っていった。。車が病院の駐車場に入っていくのが遠目に見えたので、ぼくとパント―も、病院まで走っていった。
「病院って、どんなところ」
パント―が聞いた。
「病気になっている人を診るところだよ」
「パオパオはとても元気だよ。病気なんかじゃない」
パントーが小首をかしげていた。
「パオパオは宇宙人の子どもなのに、どうして地球人の病院に行くの」
「……」
ぼくにもすぐには返答できなかった。好奇心が、湧き水のように、次から次に湧いてきて、詳しい事情を知りたくてたまらなくなってきた。 
パオパオのお父さんとお母さんは車から降りると、病院の本館ではなくて、裏手にある別館のほうに、パオパオを連れていった。別館の前には立派な花壇があって、そのそばに細長い石畳の道がこしらえてあった。パオパオのお父さんとお母さんとパオパオは石畳の道にそって歩いて行って、明るい色で塗られた別館の前まで来ると玄関の戸を開けて、中に入っていった。
ぼくとパント―は別館のガラス窓の外から、中の様子をそっと、うかがった。別館の中には、子どもが何人かいた。どの子も以前のパオパオと同じように、ぼーっとしていて、うつろな目をしていた。みんな自分の世界に閉じこもっていて、周囲の状況にはまったく無頓着に見えたので、周りの様子が見えているのか、見えていないのか分かっていないように、ぼくには思えた。周りの音も聞こえているのか、聞こえていないのか、皆目、見当もつかなかった。どの子も、気持ちの赴くままに、紙を破ったり、独り言を言ったり、壁を触りながら、のろのろと歩いたりしていた。
(もしかしたら、ここは宇宙人の子どもの収容施設ではないだろうか)
ぼくは、ふっと、そう思った。
しばらくしてから、パオパオのお父さんとお母さんは、パオパオを別の部屋に連れて行った。入り口のドアをばたんと閉めたので、ぼくとパントーは、その部屋が外から見える窓を探した。窓の外に大きな木があって、その木に登れば部屋の中がよく見えることが分かったので、ぼくとパントーは落ちないように気をつけながら、慎重に木に登っていった。木の枝葉が茂っていたので、ぼくとパントーの姿は部屋の中からは見えにくかったが、木の上は、部屋の中をのぞくには、かっこうの場所だった。
部屋の中には精密機械がいくつか並べられていて、眼鏡をかけた中年の男の人が機械を使って、パオパオを測定したり、パオパオにいろいろな動きをさせてから、結果をノートに細かに書き留めていた。男の人は、たぶん医者だと思う。男の人は不思議そうな顔をしながら、パオパオの顔を穴が開くほど、じっと見ていた。。
パオパオのお母さんが、男の人に何か話しかけていた。男の人は、それを聞いて、びっくりしたような顔をして、口を、ぽかんと開けていた。口の形は、アルファベットのOの字そっくりだった。お母さんの話を聞いても、男の人は、まともに信じていいのかどうか分からないような顔をしていた。
男の人はパオパオを、医務机の上に載せてから、、パオパオに鉛筆を一本与えた。
男の人はそのあとCDプレーヤーを開いて、音楽を鳴らした。魂を揺さぶるような歓喜の調べが流れてきた。ぼくもよく知っているベートーヴェンの『歓びの歌』だ。パオパオは音楽を聞くと心が高ぶってきて、じっとしていられなくなってきた。それからまもなくパオパオは机の上に立ち上がって鉛筆を指揮棒のように振り始めた。『歓びの歌』が最高潮に盛り上がっている部分では、パオパオの指揮ぶりにも一段と熱が入っていた。何かにとりつかれたように激しく、そして心に訴えるように振っていた。ベートーヴェンがこの曲を作ったとき、聴力はすでに失われていたが、初演ではベートーヴェン自らが指揮を執ったと言われている。そのことを思うと、パオパオの指揮も、それに匹敵するほど素晴らしい指揮ぶりに見えた。男の人はパオパオの見事な指揮ぶりに、口をあんぐり開けて、驚きと喜びが入り混じったような顔をしながら、じっと見入っていた。
『歓びの歌』のあと、男の人は、しっとりした叙情的な音楽を流した。すると曲調の変化に合わせるように、パオパオの指揮ぶりも変わり、静かでゆったりした動きになり、まるで太極拳でもしているかのように見えた。エンディングの音が静かに消え入るように終わったとき、パオパオは鉛筆を頭の上に高く挙げた。その姿がとてもきまっていて、かっこよかった。男の人は、パオパオを抱えて机の上からおろすと、親指を立てた。
「すごい、たいしたものだ」
男の人は、恍惚とした表情をしていた。
男の人がパオパオのお父さんとお母さんに、何か話しているときに、パオパオは窓の外をちらっと見た。すると木の上にパント―がいるのに気がついた。
パント―が笑みで合図を送ると、パオパオも笑みで応えていた。
パントーとぼくが木の上から見ていることに、パオパオ以外に気がついた人は、だれもいなかった。
男の人はまるで未知の世界を発見したかのような顔をしていた。パオパオが笑っているところを、これまで見たことがなかったのかもしれない。もしかしたらパオパオは生まれつき笑えない子どもだと思っていたのかもしれない。
男の人がパオパオを再び抱きあげようとした。すると、それを嫌がったパオパオが必死にもがいて男の人の腕を振りほどいて、部屋から出ていった。ぼくとパント―は、それを見て、急いで木からおりて、玄関のほうに走っていった。
(パオパオはたぶん、パント―を探すだろう)
ぼくは、そう思った。
やはり思っていた通りだった。ぼくとパントーが急いで玄関の前までかけていくと、パオパオが中から出てくるのが見えた。パオパオは両手を広げながら、パント―のほうにかけてきた。パント―も嬉しそうにかけていきながら、パオパオに飛びついた。パオパオはパント―をしっかり抱いた。パオパオとパント―は、二、三時間しか離れていなかったのに、もうずいぶん長く離れていたかのような顔を、どちらもしていた。
 パオパオのお父さんとお母さんが、パオパオを追いかけて出てきた。
「あら、どうしてここにパンちゃんがいるの」
お母さんが、びっくりしていた。
「パンとパオパオは一心同体だから、一刻も離れたくないと思っているのだろう」
お父さんが、けらけら笑いながら、そう答えていた。
パオパオのお父さんとお母さんは、パオパオとパント―を連れて、駐車場のほうに歩いて行った。
それを見ながら、、ぼくはひとりで、うちへ帰っていった。パント―はもう、ぼくと妻猫の子どもではなくなったような気がした。そう思うと、帰っていく途中、心の中に寂しい思いが生じて、ちょっぴり感傷的になった。でもパント―の身になって考えると、とても嬉しく思えてきた。パオパオがパント―を必要としているのだから、パント―の生活は、これからもっと有意義で、充実したものになってくるだろう。ぼくは、そう思った。