第十六章 パオパオの音楽的な才能

天気……春の最後である穀雨を過ぎてから、気温が毎日上がっている。午後になると、生暖かい風が吹いてきて、まるで初夏のようだ。

(はやく夜が明けないかなあ)
夜中に目が覚めてから、ぼくはずっと眠れないで、じりじりしていた。夜が明けたら、妻猫に、すぐ話さなければならないことがある。妻猫はまだ白河夜船をこいでいたが、ぼくはもうこれ以上待ちきれなくなったので、呼び起こすことにした。ぼくが妻猫にちょっと手を触れると妻猫が、びっくりして、はじけるように、がばっと、はね起きた。
「どうしたんですか、こんなに早く起こして。パント―に何かあったんですか」
「そうじゃないけど、お母さんに早く知らせたいことがあったので、待ちきれなくなって、つい起こしちゃった。ごめんなさい」
「何ですか」
妻猫がねぼけまなこを、こすりこすりしていた。
「パント―がまたピアノを弾けるようになったんだよ」
「えっ、本当。ピアノを習いにまたペット曲芸学校に行くんですか」
妻猫は目が急にぱっちり覚めたかのように、瞳を丸くしていた。
「いや、そうじゃないよ」
「じゃあ、どうしたんですか」
妻猫がけげんそうな顔をしていた。
パオパオのお父さんがパオパオにピアノを買ってくれたんだ」
「えっ、そうなんですか。パント―がピアノを弾けることを、パオパオのお父さんは知っていたのかしら……」
妻猫がそう言った。
「そんなことはないと思うよ。パオパオがピアノを好きかどうかも分からずに、たまたま買ってくれたみたい」
ぼくは妻猫に昨夜の光景を話して聞かせた。
「そうなんですか。でも偶然とは言え、本当によかったですね。パント―がとても喜んでいたでしょう」
「そりゃあ、もちろんだよ。飛び上がりそうなほど喜んでいたよ」
「でしょうね、よかった、よかった」
妻猫の心の中で、風船がふわふわしているように見えた。
「パント―がピアノが弾けるようになったのに、うちにはピアノがないので申し訳ないなあと、いつも思っていたけど、これでやっと胸をなで下ろすことができたわ。パントーに無駄なことを勉強させたのではないかと思って後悔していたから」
妻猫が安堵の色を浮かべていた。
「何を勉強しても、けっして無駄にはならないって、ぼくはとっくに言っていたじゃないか。パント―はこれからパオパオにピアノを教えると言ってたよ」
ぼくがそう言うと、妻猫は、ぼく以上に、そわそわし出した。
「私もパオパオのうちに連れて行ってよ」
妻猫の頼みをぼくは快く引き受けることにした。
 ぼくは妻猫を連れて、パオパオのうちの前まで行って、玄関の小窓に風鈴が下がっている入り口のすき間から、中に入って、パオパオの部屋まで行った。パント―もパオパオも部屋にはいなかった。ドアの隙間から外を見ると、パオパオとパント―は今、食堂で朝ご飯を食べているところだった。
ぼくと妻猫は、ピアノを見るために客室に入って行った。床まで垂れているカーテンの後ろに身をさっと隠して、隙間からピアノを見た。部屋の真ん中に、堂々と置かれている大きなグランドピアノが見えた。金色に輝く朝の光が窓の外から客室の中に射し込んでいて、ぴかぴか黒光りするピアノの上を、柔らかく照らしていた。ピアノはまるで黒ダイヤのような美しい光沢をきらきらと放ちながら、まばゆいほどに輝いていた。
「何てきれいなんでしょう」
妻猫が、うっとりした顔をしていた。
「このピアノはペット曲芸学校のピアノよりも、ずっと大きいわ」
妻猫は、グランドピアノの風格ある姿に魅せられていた。
 それからまもなく、外からベビーシッターの声が聞こえてきた。
「パオパオ、おりこうね。ご飯をいっぱい食べてくれて、嬉しいわ。さあ、今度は客室に行って、パンちゃんと遊びなさい」
「パント―がこっちへ来るよ」
ぼくは妻猫に言った。
パント―がパオパオを導くようにして食堂から客室に入ってきた。、パント―の目はずっとピアノを見ていた。パント―がピアノの屋根に乗ると、パオパオがピアノの屋根を軽くたたいた。
「パントゥー、パントゥー」
と、打楽器のような音が客室に響いた。
音を聞いて、ベビーシッターがびっくりして台所から飛んできた。
「パンちゃん、どうして屋根に乗っているの。はやく下りなさい」
パント―には人の言葉は分からないが、ベビーシッターのゼスチャーを見て、言われていることの意味を理解して、すぐ下におりた。パオパオはまだピアノの屋根を
「パントゥー、パントゥー」
と、リズミカルにたたき続けていた。それを見てベビーシッターが
「パオパオ、ピアノを弾きたいの」
と言って、ピアノのふたを開けて、パオパオをいすの上に座らせた。
ベビーシッターはそれからまもなく、台所に戻っていった。いすの上に座らされたパオパオは、しばらく、ぼーっとして白鍵と黒鍵を見ていた。鍵盤が何なのか、パオパオは分かっていないように見えた。パント―がそれを見て鍵盤の上に乗って、弾むような足取りで小走りに左から右に動いた。すると
「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド」
と、きれいな音階が鳴った。左から右に引き返すと、今度は
「ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ド」
と、音がきれいにさがっていった。パオパオは、体をリズミカルに動かし始めた。パオパオの体の動きは、パント―が鍵盤で繰り出す音の変化と、ぴったり合っていた。ぼくも妻猫も、目を丸くしながら、カーテンの陰から、パオパオの動きを見ていた。
「パオパオのリズム感がこんなによいとは思ってもいなかったわ」
妻猫が、耳元でささやいた。
「ぼくも同じだよ。パオパオに、こんなすばらしい音感があるとは、思ってもいなかったよ。まるでモーツァルトの子どものころのようだ」
ぼくは、おったまげて、舌を巻いていた。モーツァルトが子どものころ、天才だったことは、以前、杜真子のうちにいたころ、テレビで見て知っていた。
パオパオとパント―の競演はまだ続いていた。パント―がゆったりした歩き方をして、音を一つひとつ確かめるように動いていたときには、パオパオの両手の動きも緩やかになり、まるで太極拳でもしているかのように、のびやかな動きをしていた。パント―がせかせかした歩き方をして、テンポの速いリズムを刻んでいたときは、パオパオの手の動きも激しくなり、嵐に立ち向かっているような力強い動きをしていた。あるときは、しなやかに、あるときは、エネルギッシュに手を動かして、ピアノの音に合わせる姿は、まるで小さな指揮者のように見えた。
ベビーシッターがいつのまにか、台所から客室に戻ってきていて、あまりの素晴らしさに、口をあんぐり開けながら、立ち尽くしていた。ベビーシッターは台所で、ご飯の後片付けをしていたが、そのことはすっかり忘れているようだった。
「あっ、そうだわ」
ベビーシッターは、何かをふっと思いついたらしく、台所に戻っていくと、はしを一本持ってきた。
「はい、これを振りなさい」
ベビーシッターはパオパオに、はしを渡した。
「これを指揮棒だと思って振りなさい」
機転を利かせたベビーシッターのとっさの思いつきに、ぼくは、くつくつ笑った。
パオパオは、はしを受け取ると、プロの指揮者のようにかっこよく、はしを振り始めた。どこから見ても、五歳のころのモーツァルトにしか見えなかった。
午前も午後も、日が暮れてからも、パント―とパオパオの競演は続いた。パントーはペット曲芸学校で習ったことを思い出しながら、無我夢中になってピアノを弾き続けていた。久しぶりに弾くピアノの音に、パント―はすっかり酔いしれていた。パオパオもパント―が奏でる音に合わせて、はしをリズミカルに振っていた。長い時間、競演が続いたが、パオパオがパント―が弾くメロディーに、はしで執るリズムを合わせそこなったことは一度もなかった。
「まったくもう、信じられないわ。宇宙からきた子どもは、みんな天才音楽家なのかしら」
肝っ玉がひっくりかえるほど、妻猫が驚いていた。
「しーっ、声を出さないで。だれかくるよ」
玄関のドアが開く音が聞こえたので、ぼくは妻猫に注意をうながした。
パント―がそのとき、こん身の力をこめて、鍵盤の上で跳びはねた。すると情熱的な激しいリズムがメロディとともに鳴り出した。パオパオがそれに合わせるように、髪を振り乱しながら、はしを激しく振っていた。風雲急を告げるような緊迫した状況を、パオパオは、はしの動きで、ぴりぴりと伝えていた。パント―もパオパオも、放心状態になって競演していたので、部屋にだれか入ってきたことに、少しも気がつかないでいた。
部屋に入ってきたのは、パオパオのお父さんとお母さんだった。客室の中で繰り広げられていたパオパオとパント―の熱演を見た瞬間、パオパオのお父さんとお母さんは、思わず息をのんでいた。そのあとパオパオのお父さんがお母さんの腕をつねっているのが見えた。パオパオのお母さんが痛そうに顔をゆがめていた。妻猫がそれを見て
「パオパオのお父さんは、お母さんに、どうして、あんなひどいことをしているの」
と、聞いた。女の人をいじめる男の人は許せないと妻猫は思っているようだった。
「ぼくもピアノの音に耳を傾けていたので、パオパオのお父さんがどうしてお母さんの腕をつねったのか分からないけど、お父さんは、お母さんをいじめたのではないと思う」
ぼくはパオパオのお父さんの気持ちを推測することにした。
「パオパオのお父さんは、今見ていることが、夢ではないかと思っているんだ。それでお母さんの腕をわざと、つねって、お母さんが痛がっていることを感じて、夢ではないことを確かめていたんだと思う」
ぼくがそう言うと、妻猫はうなずいた。
「その気持ち、分かるわ。私だって、もし自分の目で見ていなかったら、信じられないもの」
妻猫が、とてつもなく、うっとりした表情をしていた。
「うちのパント―は本当にたいしたものね」
パオパオの才能を開花させたバント―に、妻猫が感心していた。
パオパオのお父さんは、こみあげてきた気持ちを抑えようとしていたが、我慢できなくなって、火山のように激しく爆発させた。
「パオパオ、すごいぞ、天才だ」
お父さんの心の中に熱い溶岩が流れているように見えた。お母さんも感動のあまり、目頭を押さえながら、しくしくと、むせび泣いていた。
 パオパオのお父さんの歓喜の声や、お母さんの涙に動揺することなく、パオパオとパント―は、自分たちの音楽の世界に一心不乱に浸っていた。パオパオとパント―の音楽は「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド」という簡単な音階に基づいた素朴な音楽ではあったが、心と心を通わせることができる素晴らしい音楽だった。