第十四章 お母さんの願い

天気……若草色の柳の枝がそよ風に揺られて湖のほとりで、さわさわと音を立てている。翠湖の中ではさざ波が幾重にも連なっていて、ハープのグリッサンドのような優雅な風情を醸し出していた。夜になると、空にはたくさんの星が宝石をちりばめたように美しく輝いていた。パオパオが住んでいた星は、どの星だろうか。ぼくはそう思った。

昨夜はパント―が生まれて初めて外泊したので、ぼくは一晩中、落ち着かなかった。けさ、夜が明けるか明けないかのうちに、ぼくはもう、うちを出て、パオパオのうちへ走っていった。風鈴が下がっている玄関の小窓からもぐりこんで、ぼくはパオパオのうちに入っていった。朝の光が部屋の中に差し込んでいて、白々と明るくなりはじめていた。パオパオとパント―はまだベッドのなかで白河夜船をこいでいた。パント―はパオパオの隣で寄り添うように寝ていた。
 ぼくはパント―のそばに行って、耳にそっと触れた。パント―はびっくりして気がついて、ものぐさそうに背筋を伸ばしてから、眠そうに目を開けた。
「お父さん……」
パント―がぼくを見て、仰天していた。
「しー、声を出すな」
ぼくは慌ててパントーの口に手を当てた。
「下におりろ」
ぼくがそう言うと、パントーはうなずいてから、ベッドの下におりてきた。
「どうだ、初めての外泊は」
ぼくはパント―に聞いた。
「まあまあだよ。……、でもやっぱりお母さんのそばのほうが……」
パント―はまだ乳離れができていない幼子のようなことを口走った。
「お前はもう赤ちゃんではないんだから、いつまでもお母さんのそばにいるわけにはいかないんだよ。いつかは離れなければならないときが来る」
ぼくはパント―に言って聞かせた。
「お前はもうひとりで新しい生活ができるようになったんだ。おめでとう」
ぼくはパント―に祝福の気持ちを伝えた。
「ぼくは、これからずっと、ここにいることになるの」
「当たり前だよ」
ぼくはうなずいた。
「お前はパオパオにとって、なくてはならない大切な存在なんだ。分かるか」
パント―は神妙な顔をして、ほくの話に耳を傾けていた。
「パオパオのお母さんは、お前はパオパオの救い主だと言ったんだよ」
「救い主……」
パント―は意味が分からないでいるようだった。
「宇宙からきたパオパオを地球の子どもにできるのは、お前だけだということだ」
ぼくはパント―にそのように説明した。
「おー……あー……」
パント―は、どう答えたらよいか分からないで、ろれつが回らないでいた。
「パオパオの救い主になることは、お前が願っていたことではないのか。願いを実現するためには、これから地道にやっていかなければならないことが、まだまだたくさんあるよ」
ぼくはパント―の気持ちを引き締めた。
「ぼくは何をしたらいいの」
パント―は眠りからまだ十分さめないのか、、ぼうーっとした顔をしていた。
「昨日のお前はとてもよかったよ」
ぼくは昨日の朝ご飯のことを思い出していた。
「宇宙からきた子は地球人のご飯は合わないと思うが、お前がうまく導いたから、パオパオは地球人の子どもと同じようにご飯を食べた」
パント―はうなずいた。
「昨日のお昼は、パオパオはギョーザを食べたよ。夕方は茶碗蒸しを食べたよ」
パント―は嬉しそうな顔をしていた。
「そうか。それはよかった。みんなお前のおかげだよ、すごいよ」
ぼくはパント―をしきりにほめてやった。ぼくにほめられて、パント―はきまりが悪そうな顔をしていた。
「ぼくはただ食べることが好きなだけだから……」
パント―は謙遜していた。
「パオパオにご飯を食べさせることはうまくやれた。今度は歩くことも、うまく導いてみろ」
ぼくはパント―に指示を出した。
「分かってるよ。壁を伝わらないで歩くことができるようにさせればいいのでしょ」
ぼくはうなずいた。
 そのとき、ドアの外で、せわしげな足音が聞こえてきた。
「パオパオ、起きなさい」
べビーシッターがパオパオの部屋に入ってきて、パオパオの体を揺り起こした。するとパオパオが、突然、激しく泣き出した。
「どうしたの、パオパオ」
パオパオのお父さんとお母さんが、びっくりして部屋の中に飛び込んできた。
「パンちゃんがいなくなったんです」
ベビーシッターが、そう答えていた。それを聞いて、ぼくはパント―に
「はやくいけ」
と尻をたたいた。パント―がベッドの下から顔を出した。するとパオパオのお父さんもお母さんもベビーシッターも、安堵の色を浮かべていた。
「なあーんだ、そんなところにいたのか。よかった」
「ほら、パオパオ、パンちゃんはいたわよ」
「もう、ぐずるのはやめなさい」
パント―の姿を見て、パオパオの泣き声がぴたっとやんだ。
パオパオはパント―の前まで歩いてくると、床にしゃがみこんだ。パント―がパオパオに笑いかけると、パオパオもパント―に笑ってみせた。パオパオの機嫌のよい瞬間を見計らうように、ベビーシッターがパオパオに
「顔を洗いに行こう、歯磨きもしよう」
と呼びかけて、洗面所に連れていこうとした。するとパオパオがまた鋭い声で激しく泣き出した。
 ぼくはベッドの下から小声でパント―に指示を出した。
「パオパオを洗面所に連れていけ」
パント―は昨日は一日中、パオパオのうちにいたから、洗面所がどこにあるか知っていた。パント―は、ぼくの言葉に応えて、洗面所へ行った。するとパオパオは泣きやんで、立ち上がると、パント―のあとについて、部屋から出て、洗面所のほうに向かっていた。このとき、パオパオはもう壁を触りながら歩いていなかった。いつのまにか地球人の子どもと同じように、普通に歩けるようになっていた。
 この日は、ぼくも一日中、パオパオのうちにいて、カーテンの後ろに隠れながら、パント―とパオパオの一挙一動を、つぶさに観察していた。
パオパオのお父さんとお母さんは、朝食をすませると、勤めに出て行った。パント―はパオパオを導きながら、客室の中を行ったり来たりしていた。パント―が行くところ、パオパオはどこへでもついてきた。
パント―はパオパオが、また壁を触っていないか気になって、何度も後ろを振り返っていた。でもパオパオは、もう壁を触っていなかった。イチョウ林でしていたように、両手を挙げてもいなかった。パント―がパオパオに笑いかけると、パオパオも笑顔で応えていた。パントーとパオパオは午前も午後もずっと客室の中を歩いていた。疲れても、パオパオは壁に寄りかからなかった。ベビーシッターは、それを見て、家具を全部、壁にぴったり、くっつけて、隙間を作らないようにしていた。
日が暮れたころ、パオパオのお父さんとお母さんが勤めから帰ってきた。二人がドアを開けて、家の中に入ってきたとたん、ペビーシッターは玄関のほうに飛ぶように走ってきた。
「パオパオは壁に触らないで歩けるようになったから、家具をみんな壁にくっつけたわ」
ベビーシッターの嬉しそうな報告を聞いて、パオパオのお父さんとお母さんは咲きたてのシャクヤクのように、顔が明るく輝いていた。
「家具をくっつけても、本当に、ぎゃーぎゃー、わめかないの」
パオパオのお母さんが聞いた。
「わめかない。わめかない」
ベビーシッターが晴れやかな顔で答えていた。
「午前も午後も夕方も、パオパオは一度も壁に触っていないわ」
ベビーシッターは喜びが部屋じゅうに、はじけるような顔をしていた。
パントーがパオパオを導いて、客室にまた入っていった。パント―の顔に笑みが浮かぶと、パオパオの顔にも笑みが浮かんでいた。微笑ましい光景を見て、パオパオのお父さんとお母さんは、うっとりした気持ちになって、何ともたとえようのないほどの幸福感に浸っていた。
「パオパオの笑顔はなんて美しいのでしょう」
お母さんが恍惚感に浸っていた。
「父さんにもお前の笑顔をもっと見せてくれ」
パオパオのお父さんは、そう言うと、パオパオを抱きかかえて、パオパオの顔に口づけをした。パオパオは、このとき、もう激しく泣きわめくことはしなかった。
 パオパオは、地球人に抱かれると、これまでは、ぎゃーぎゃー、わめいていたのに、わめかなくなった……ということは、パオパオがますます地球人の子どもらしくなってきたと言えるだろう。
「パンちゃん、分かる。パンちゃんはパオパオの救い主よ。私とパパの救い主でもあるわ。お願い、もう、絶対にうちから出ていかないでね。いい」
パオパオのお母さんが、パント―をそっと抱き上げてから、頬に口づけをしていた。パント―はこのとき、天にも昇るような心地だったにちがいない。パントーには人の話は分からないが、お母さんの気持ちが十分伝わっているように思えた。