第十三章 宇宙からきた子の救い主

天気……翠湖の湖面の色は空の色とともに移り変わる。雲ひとつない青空が広がっているときは、湖面は翡翠のように透き通り、うららかな陽ざしが湖面に映って、まばゆいばかりに、きらきらと輝いている。

昨夜遅く、ぼくと妻猫がぐっすり眠っていると、外から突然、ぜいぜいという荒い息遣いが聞こえてきた。びっくりして目を覚ますと、うちの入り口に何と、パントーが立っていた。
「あれっ、パント―、どうして戻ってきたんだ」
意外に思ったので、ぼくは、きょとんとしていた。
「ぼ、ぼくは……これまで、うち以外で寝たことがないので、眠れなくて、それで……それで……戻ってきたんだ」
パント―は激しい息づかいが収まらないまま、妻猫のそばに行って、ごろんと横になった。
「やっぱりお母さんのそばにいると安心して眠れるよ」
パント―は心がとろけるような顔をしていた。
「お前はもう赤ちゃんじゃないんだから、いつかはお母さんのもとを離れなければならないときがくるんだよ、サンパオやアーヤーのように、いつかは自立して……」
お母さんが言い終わらないうちに、パント―はもう、すやすやと、寝息を立てていた。
一夜明けて、けさ早く、夜がまだ明けないうちに、パントーは、ご飯も食べないで、パオパオのうちへ帰る準備を、ばたばたと始めた。
「パオパオが目を覚ましたときに、ぼくの姿が見えなかったら、きっと大声で泣き出すに違いないからね」
パント―はそう言いながら、あたふたと出て行った。ぼくも朝ご飯を食べないで、急いでパント―のあとを追っていった。パント―に追いついたあと
「パオパオのうちが分かるか」
と、聞いた。
「うん、公園のすぐ近くだよ」
パント―が走りながら答えた。
パオパオのうちは翠湖公園のすぐ近くにあるだろうと、ぼくも思っていた。ベビーシッターが毎日パオパオを連れて公園のイチョウ林に散歩に来ていたからだ。
十分も走らないうちに、パント―は公園の近くにある高層マンションの前に来て、その前で足を止めた。
「ここだよ。パオパオはここに住んでいる」
パント―が言った。
「昨日の夜、お前はどうやって出てきたんだ」
「玄関横の小窓のすき間から出てきた」
「どの窓か覚えているか」
「覚えていない。でも窓辺で、ちりんちりんと音が鳴っていた」
「それは風鈴の音だろう。じゃあこれから風鈴が下がっている窓を探そう」
ぼくとパント―は窓辺の風鈴を頼りにパオパオのうちを探すことにした。十八階建てのマンションの下から、一つずつ、くまなく見ていった。九階まで登って来たときに風鈴が下がっている窓を見つけた。
「ここか」
ぼくが聞くと、パント―は頭を上げて、窓をじっと見ていた。
「そうみたい」
パント―が答えた。
 ぼくとパント―は風鈴が下がっている小窓にはい上がって、すき間から中をちょっと、のぞいてみた。すると目がちかちかするほどきれいな子ども部屋が見えた。部屋の中には宇宙船の形をしたベッドが置かれていた。
(宇宙からきた子は、このようなベッドで寝るのだろうか)
ぼくはそう思った。
パント―に聞くまでもなく、ここがパオパオの部屋だとぼくは、はっきりそう思った。
ぼくとパント―は小窓のすき間をくぐり抜けて、家の中に入って、子ども部屋をのぞいた。しかしパオパオは部屋にはいなかった。
(どこにいるのだろう)
そう思っていると、部屋の外から声が聞こえてきた。だれかがパント―のことを、パンちゃんと呼んでいる声も聞こえてきた。パントーはパンパンに太っているので、そう呼んでいるのだろうと、ぼくは思った。
ぼくとパントーは抜き足差し足で子ども部屋を出て、隣にある客室に忍び込んだ。
ぼくはこれまで杜真子や馬小跳の家の客室を見たことがある。どちらもとても、きれいな部屋だ。それに比べると、この家の客室は、杜真子や馬小跳のうちの客室とは雰囲気が全然違っていた。すべての家具が壁から二メートルぐらい離して置かれていたからだ。家具と壁の間に、通り道がわざと作ってあって、そのために客室が狭くて整然としていないように思えた。
ぼくとパントーは、床まで垂れているカーテンの後ろに、ささっと走っていって、そこに体を隠した。カーテンのすき間から外を見ると、パオパオが両手で壁を触りながら、壁伝いに歩いているのが見えた。ベビーシッターが片手にお椀、片手にスプーンを持ちながら、パオパオのあとを追っていた。パオパオが、なかなか、ご飯を食べようとしないので、ベビーシッターは閉口していた。やっとのことで、パオパオの口に食べ物を入れると、パオパオは嚙みもせず、飲みもせずに、口の中に、ずっと、くわえたままだった。
(パオパオは宇宙からきた子だから、地球人の食べ物は好きではないのだろうか)
ぼくはそう思いながら見ていた。
「パオパオが、昨日の夕方のように、ちゃんと食べてくれたらいいのにね」
パオパオのお母さんも途方に暮れていた。パオパオはお母さんの手も相当焼かせているようだった。
「昨日の夕方は、パンちゃんが、うちにいて、ご飯を食べているのを見て、パオパオもご飯を食べていたわ」
ベビーシッターが昨日のことを思い出していた。
「本当にね。パンちゃんは、いつ出て行ったのだろう。いったいどこへ行ったのだろう」
パオパオのお母さんが、ふーっと、ため息をついていた。
「十中八九、翠湖公園に帰っていったと思うわ。私、これからパオパオを連れて、翠湖公園に探しに行ってきます」
ベビーシッターがきっぱりと言った。
 それを聞いて、ぼくは、じっとしていられなくなった。
「パントー、はやくいけ」
ぼくはパント―をカーテンの陰から押し出した。パント―はパオパオのほうに近づいていった。
「あっ、いた」
ベビーシッターが頓狂な声をあげた。
「もう、パンちゃん、どこに行ってたのよー」
驚きと嬉しさが入り混じったような声で、ベビーシッターが、そう言った。
「来てほしいと思ったら、すぐ来るし、ちょっと目を離したら、いなくなるし……」
パント―の神出鬼没な出入りに、ベビーシッターは。あっけにとられていた。
「落ち着きなさい。パンちゃんや、パオパオの気持ちに影響するといけないから」
パオパオのお母さんが、ベビーシッターをなだめようとしていた。
パオパオは今までずっと壁を触りながら歩いていたのに、パント―が近づいてくると、急に向きを変えて腰を下ろして、大きな目で、パント―をじっと見ていた。パント―が口を開けて目を三日月にすると、パントーの顔に、きらきらと輝く美しい笑みが浮かんでいた。パオパオはそれを見て、つられるように笑った。
 パント―はそのあと食堂に入っていった。するとパオパオもパント―について食堂に入っていった。パント―が食卓の上に乗ると、パオパオは食卓のいすに座った。
「パンちゃんに、はやくご飯を食べさせなさい」
パオパオのお母さんがベビーシッターに指示を与えていた。ベビーシッターは軽くうなずいてから小碗に盛ったご飯に、ひき肉を混ぜたものを、パント―に与えた。パント―は、ぱくぱくと、ひき肉ご飯を食べていた。パント―は食欲旺盛だから、何でもおいしそうに食べる。
パオパオは大きな目を見開いて、パント―が食べている様子をじっと見ていた。そしてそのうちに、食指が動かされて、自分も食べてみたいという気持ちになってきたようだった。その機をうまくとらえて、べビーシッターがお椀をパオパオの前に差し出した。するとパオパオが今度はすぐに、ぱくぱくと食べ始めた。
「おー、パオパオが、ご飯を食べたいと思うようになったよ」
ベビーシッターの声は感動のあまり、ギターのトレモロのように震えていた。パオパオのお母さんもひどく感激して、声をのみながら、涙をぽろぽろこぼしていた。
パオパオはまたたく間に、ご飯をきれいに平らげた。ベビーシッターは空になったお碗をパオパオのお母さんに見せて
「パオパオがこれまでこんなに多くご飯を食べたことはなかったわ」
と言っていた。
「パンちゃん、分かる。あなたはパオパオの救い主よ。パンちゃんだけが、パオパオを普通の子どもにすることができるのよ。ねぇ、お願い。もうパオパオから離れないで。いいでしょ」
パオパオのお母さんが、猫なで声で、パントーにそう言った。
パント―には人の話は分からないので、きょとんという顔をしていた。しかし以心伝心というのだろうか、パオパオのお母さんが言ったことを、パント―は心の中で何となく理解したようにも見えた。
 この日、パント―は、夜になっても、うちへ帰ってこなかった。