第十二章 パント―初めてうちを離れる

天気……昨夜、雨が降ったが、今日はうららかな、よい天気だ。この町では、今の時季になると、明るい陽射しが降り注ぐよい天気と、春雨がしとしと降るしめやかな天気が交互にやってきて、空模様が一定しない。

昨日、夕ご飯を食べるとき、うちのなかは喜びであふれていた。ぼくと妻猫は心がとろけるほどうれしくてたまらなかったから、普段はめったに口にしないシロップ漬けの魚缶を食べたり、シャンパンを飲んだりした。
「地球上に、もう一匹、笑える猫が現れた。パント―だ」
ぼくは誇らしげに、妻猫にそう言った。妻猫は明るい顔をしてうなずいた。ところが当のパント―は、ぼくと妻猫が思っているほど感動していなかった。それほど喜びに浸っている風でもなかった。
「パント―、どうしてそんなに浮かない顔をしているの。もっと嬉しそうな顔をしなさいよ。今日はお前にとって、とてもおめでたい日でしょう」
妻猫が、けげんそうな顔をしていた。
「パオパオの耳をつんざくような泣き声が今も心に聞こえてくるんだ。パオパオは今どうしているんだろうと思うと……」
パント―はパオパオのことをまだ気にかけていた。
 一夜明けて今朝になっても、パントーはご飯を食べるときに、まだ憂えていて、心が海の底に沈んでいるように見えた。
「まだパオパオのことを思ってるのか」
「うん」
パント―が空気の抜けた風船のような声で答えた。
「昨日の夜、夢を見たんだ。パオパオが激しく泣いている夢を……」
パント―の心のうずきが、ちくちくと伝わってきた。
「安心しろよ、今日の午後、またパント―に会えるじゃないか」
ぼくはそう言って、パント―を慰めた。
 午後の二時半、パオパオはいつもの通り、イチョウ林にやってきた。パオパオが普段はどこで何をしているのか知らないが、まるで時計のように正確にいつも時間ぴったりにイチョウ林にやってくる。
(あの子が生まれた星の人はみんな、ああなんだろうか)
ぼくにとってそれもまた謎の一つだった。
これまでとは違って、今日、パオパオをエスコートしてきたのは、ベビーシッターのほかに、もう少し年上の男の人と女の人も一人ずついた。
(もしかしたらパオパオのお父さんとお母さんではないだろうか)
ぼくはそう思った。
いつもとは違うことに、もう一つ気がついた。パオパオが今日はイチョウの木の周りを両手を挙げて回ることはしないで、木の下にじっと立っていたからだ。大きな目も、いつもとは違って、うつろではなくて、何かを待っているような生き生きとした目をしていた。パオパオをエスコートしてきた人たちは、、辺りをきょろきょろ見まわしながら、何かを探していた。じりじりした表情をしていたので、なかなか見つけられなくて、苛立っているように見えた。
(だれかを待っているのだろうか。もしかしたら、パント―では……)
ぼくは大胆な予測をした。
「パント―、行け。お前を待っているぞ」
ぼくはパント―を、けしかけた。でもパント―は、ちゅうちょしていた。
(もしかしたら、パント―は、あの男の人と女の人を怖がっているのかもしれない)
ぼくはそう思った。
「パオパオのお父さんとお母さんだと思うよ。たぶん、いい人だよ」
パントーを安心させるために、ぼくはそう言った。しかしパント―は口をとがらせていた。
「どうしてそう言えるの」
パント―の心から警戒心がまだ解けないでいた。
「姿を見たら分かるよ。つべこべ言わないで、はやく行けよ」
ぼくはパントーに発破をかけた。パント―が、押し出されるようにして出て行った。
「あっ、来た来た、あの猫よ、お父さん、お母さん」
ベビーシッターが嬉々とした声をあげた。
(やはりぼくが思っていた通りだった。あの人たちはパント―を待っていたのだ)
男の人と女の人は、やはりパオパオのお父さんとお母さんだった。パオパオのお父さんとお母さんは、パント―のことをベビーシッターから聞いて、興味をもってやってきたのだ。
 パオパオのお父さんとお母さんは、火のような熱いまなざしで、パント―を見ていた。
「おいで、おいで、こっちへ、おいで」
パオパオのお母さんが腰を低くして、両手を広げた。でも警戒心が強いパント―は、その場にじっとしていて、パオパオのお母さんの腕の中に飛び込んでいこうとはしなかった。飛び込んでいったら、何をされるか分からないと思っていたようだ。
 そのとき、パオパオが両手を挙げながら、ゆっくりと、パントーのほうに近づいてきた。それを見てパント―がにっこり笑った。するとパオパオも笑った。パオパオは、そのときは、地球にいる普通の子と、少しも区別がつかなかいほどだった。
 パオパオのお母さんがポケットから、ハンカチを取り出して涙をぬぐっているのが見えた。お父さんは唇をぶるぶると小刻みに振るわせていた。パオパオのお父さんとお母さんの胸の中に、言い知れぬ熱い思いが、ふつふつと、こみあげているように思えた。もしかしたらパオパオのお父さんとお母さんはこれまで、パオパオが笑っているところを一度も見たことがなかったのかもしれない。
パオパオのお父さんとお母さんがパオパオに注意を払っているすきに、ぼくは近くにあるイチョウの木の裏に、さっと隠れて、お父さんとお母さんの話に耳をそばだてた。
「信じられないわ、パオパオが笑うなんて。夢みたい、夢みたい」
パオパオのお母さんが放心状態で、そう繰り返していた。
パオパオのお父さんも激しい感情に突き動かされていて、男の人独特の愛情表現法とでも言ったらいいのだろうか、、パオパオを抱きかかえると、頭の上に高々と抱え上げて喜びを表していた。
 パオパオはびっくりして、わーと泣き出した。お父さんは慌ててパオパオを下におろした。
パオパオは泣きながら、パント―の前まで歩いてきた。パント―を見ると、パオパオは泣くのをやめた。パント―の顔には春の日差しのような明るさがあふれていたからだ。パント―がパオパオに微笑んでいるのを見て、パオパオも微笑みを返した。パオパオの目にはパント―しかなかった。パント―の目にもパオパオしかなかった。
「この猫をうちに連れて帰れないものかしら。でも飼い主さんがいるでしょうから無理よね……」
パオパオのお母さんが、やるせない顔をしていた。
「この猫に飼い主はいないようだわ。この公園に住んでいる野良猫みたい」
ベビーシッターがそう言った。
「えっ、そうなの。だとすれば、うちに連れて帰ってもいいということ」
パオパオのお母さんが目を輝かせていた。ベビーシッターがうなずいた。
「この猫はパオパオが好きなようだわ。パオパオもこの猫が好き。そうでしょう、パオパオ」
パオパオのお母さんが聞いた。でもパオパオにはお母さんの言っていることが聞こえていないようだった。
(宇宙からきた子だから、地球人の話は聞いても分からないのだろうか)
ぼくはそう思った。
パオパオのお母さんがパオパオにまた聞いた。
「この猫をうちに連れて帰ろうか」
「うん」
パオパオが、蚊の鳴くような小さな声で、ぼそぼそっと反応した。
「あれっ、パオパオが今、何か話さなかった。聞こえなかった」
空耳かと思って、パオパオのお母さんが、お父さんに確かめていた。
「聞こえた、聞こえた。うんと言った」
お父さんが声を弾ませていた。
 ぼくにも聞こえた。確かに聞こえた。
これまで泣き声以外にパオパオの意思表示を聞いたことがなかったので、ぼくは新鮮な驚きを感じていた。
パオパオのお母さんも感極まったのか、ほろほろと、また涙を流し始めていた。パオパオは、もしかしたら、おうむ返しに反応しただけだったのかもしれない。たとえそうであったとしても、言葉が話せたということは、地球人の子どもになれる可能性を秘めていると言える。
パオパオのお母さんはパントーを愛おしげに抱きかかえた。パオパオのお父さんはパオパオを狂おしげに抱いた。
それからまもなく、パオパオのお父さんとお母さんとベビーシッターは、夢でも見ているかのような優しい表情をしながら、イチョウ林から出て行った。
(あとについていこうか、いくまいか)
ぼくは少し、迷った。もしかしたら、もうこれっきり、パントーと会えなくなるかもしれない。そう思って後ろ髪を引かれる思いがした。しかし、きっぱりと心を決めて、ついていかないことにした。
うちへ帰ってくると、お母さんが、けげんそうな顔で
「あれっ、パント―は」
と、聞いた。
「パオパオのうちへ行ったよ」
ぼくはそう答えてから、イチョウ林の中で今日起きたことを、妻猫に話した。パオパオのお父さんとお母さんが感激して、涙をいっぱい浮かべていたことを話すと、妻猫の目にも涙がきらきらと光っていた。
「バント―がいなくなって、お母さん、寂しいでしょう」
妻猫の気持ちに、ぼくは思いをはせた。
「何を言っているんですか、お父さん。どうして私が寂しがらなければならないんですか」
妻猫が、きりっとした口調で言葉を返してきた。
「だってパント―が急にうちを出て行ったから、とても寂しいのではないかと思って……」
ぼくはしんみりと答えた。
「急だとは思っていないわ。パント―がパオパオのために力を貸したいと思ったあの日から、パント―がいつかは、うちを出ていくだろうと思っていたわ。そのための心の準備はいつでもできていたわ。寂しいどころか、嬉しいわ。パント―が自分の願いを実現させるためには、やはりパオパオのうちに行くのがいちばんですからね。こんなに順調にいくとは思ってもいなかったわ」
妻猫が晴れ晴れした顔をしていた。
(なんて賢いお母さんなんだろう)
ぼくはそう思った。情に流されない妻猫の理性的な愛に、ぼくは感心せざるを得なかった。パント―とアーヤーとサンパオの成長過程において、こんなにも物事をわきまえた妻猫が正しく導いてくれるのだから、ぼくが子どもたちの将来に心配することなど何もないだろう。