第十章 笑える猫になりたい

天気……昨夜は一晩中、雨が降っていた。朝になっても霧雨がしとしとと降り続き、景色がぼんやり、かすんで見えた。雨に煙って見える景色は、情趣を描いた水墨画のような不透明感にあふれていた。午後になって、雨はやみ、目の前の景色がだんだん、はっきり見えてくるようになった。

ぼくは、パント―に笑い方を教えることにした。
午前中ずっと雨が降り続いていたので、公園に人はまばらだった。ぼくはパント―を連れて、公園の中の八角亭に行った。そこには屋根があるので、雨宿りができる。水墨画のように美しい雨の日の情景を、濡れないで観賞することができる場所でもある。
「お父さんは、子どものころ、誰に笑い方を教わったの」
パント―が興味深そうな顔をしていた。
「誰からも教わっていないよ」
ぼくは、そっけなく答えた。
「ということは……生まれつき笑えたっていうこと」
パント―が目を丸くしていた。
「そうでもないよ。杜真子のうちに行ってから笑えるようになったんだ」
ぼくは、子どものころを思い出していた。
「杜真子って言えば、あの猫顔をした、きれいな女の子でしょ。ぼくたちに、いつもキャットフードやミニトマトを持ってきてくれる」
「うん、あの子だよ」
ぼくの心の中で、美しい追憶が走馬灯のように、ゆっくりと回り始めていた。
「あの子は、ぼくがいちばん好きな子だ。あの子といっしょに過ごして、とても楽しかった日々のことを、ぼくは一生、忘れない」
万感たる思いが胸の中に、こみあげてきた。
「じゃあ、杜真子が教えてくれたんだね」
パント―が聞いた。
「いや、違う」
ぼくは首を横に振った。
「でも杜真子のおかげで、お父さんは笑えるようになったんでしょう」
ぼくは熱い思いを語り始めた。
「杜真子は見た目にはとても活発で元気な女の子に見える。でも、実際には少し違っていて、心の中に、いつもやるせない思いを抱えている。毎朝、目が覚めるとすぐにお母さんの厳しい監視の目にさらされる。すること、なすことのすべてをお母さんに言われるままのことしかできないからだ。自由に羽を伸ばすことができないので、杜真子は家ではいつも部屋に閉じこもっていて、もんもんとした胸のうちを、ぼくに打ち明けていた。杜真子の愚痴を毎日聞いているうちに、ぼくはだんだん人の言葉が分かるようになってきた」
パント―は、ぼくの話を興味深そうに聞いていた。
「そうだったの」
目からうろこが落ちたような顔をしながら、パント―がうなずいた。
「もし、ぼくにも誰か、毎日話しかけてくれる人がいたら、人の話が分かるようになるかなあ」
パント―が思いをはせていた。
「杜真子の喜びや苦しみや、人に知られたくないことを、ぼくはみんな知っている。杜真子とぼくは、それらをみんな分かち合ってきたからね。ぼくが初めて笑ったのは、杜真子がお腹の皮がよじれるほど、おかしいことを話してくれたときだった。杜真子がげらげら笑っているのを見て、ぼくもおかしくなって、そのとき、ぼくの顔にも、人が笑っているような顔が自然と浮かんでいたんだ。それを見て杜真子が、おったまげたような顔をしながら、『えっ、お前、笑えるんだ。摩訶不思議、摩訶不思議』と、言って、ひっくり返るほど驚いていた。それを見て、ぼくの顔が笑っているように見えることに、ぼくは自信が持てるようになって、それ以来、ぼくは笑い猫と呼ばれるようになったんだ」
忘れられない大切な思い出を、ほくはパント―に綿々と話した。
「じゃあ、お父さんの笑いは人に習ったり、自分で練習したのでなくて、自然と出てくるようになったんですね」
パント―がぼくの言いたいことを分かってくれた。
「そうだよ。父さんは、いろいろな笑い方ができるし、それぞれの笑い方で、違った気持ちを伝えることができるんだ」
ぼくの話にパント―がうなずいた。
「父さんは杜真子が大好きだから、杜真子に会うといつも、百万ドルの美しい微笑みが、父さんの顔いっぱいに、わーっと広がるんだ。その微笑みこそ、父さんのトレードマークなのだ。人の気持ちをなびかせたいときには、すぐにその笑顔を浮かべるようにしている。するとみんな、ころっと、まいってしまう。杜真子が楽しそうにしているときには、がはがは笑う。怒っているときには、くくくっと、苦虫をかみつぶしたような顔で笑う。杜真子が、いとこの馬小跳と……」
「馬小跳、知ってる、知ってる。いつもぼくたちに食べ物をもってきてくれる、あの男の子でしょう。ぼく、あの子大好き」
パント―が明るい声で言った。
「父さんも、馬小跳がとても好きだよ。馬小跳がすることは、ほとんど何でも好きだよ。でも一つだけ、好きじゃないことがある。杜真子とよく言い争うことだ。男の子は、ささいなことで女の子と言い争うべきではないよ。二人がケンカをするたびに、ぼくの心の中に馬小跳に対する不満の気持ちが、むらむらとわいてくるので、ぼくは馬小跳に向かって、にたにたと笑う。すると、馬小跳は体に鳥肌が立ってきて怖くなり、その場に居ても立ってもいられなくなって、ケンカをやめて、すごすごと白旗を掲げて、その場から去っていく」
ぼくはそう話した。これだけ多く話したのだから、ぼくの笑いは心の中から自然と出てくるものであることを、パント―はよく分かってくれたと思う。むろん気持ちだけではなくて、いささか訓練をしなければ笑いの表情が作れないのは、いうまでもない。パント―の顔はとても太っているので、頬の筋肉が張り出していて、目がくぼんで見える。それにパントーは大の運動嫌いだから、顔に、ほとんど表情がない。笑い顔を作るために、パントーがまず練習しなければならないことは、顔の表情を生き生きとさせることだ。
「あごを下げて口を左右に引いてから開けなさい。口に隙間がどれくらいあるか、父さんが見てみよう」
パント―は言われたとおりにしようとしていた。でもパントーがどんなに頑張っても口を左右に引いているようには、ほとんど見えなかった。頬の筋肉が多すぎて邪魔をしていたからだ。
「さあ、もっと頑張って、口を左右に引いてから開けなさい、このように」
ぼくは実践をしてみせた。ぼくの感覚としては、口元が首につくほど近くなっているような感じだった。パント―はぼくがするのを見て、自分なりに一生懸命、頑張っていた。でもやはりパント―の口はまだ十分に開いていなかった。
「頑張れ、頑張れ、パント―、頑張れ」
ぼくは声をかけてパント―を奮い立たせた。
「もう頑張っているよ、お父さん」
パント―は、もうこれ以上、自分にはできないといった顔をしていた。
パント―の頬の筋肉が実際、少し多すぎたから、どんなに頑張っても、口を大きく開けることができないでいた。
(口を左右に引いたり、開けたりできなくて、どうして笑いの表情を作りだすことができるだろうか)
ぼくはパントーの先行きに不安を感じていた。
パントーが笑いのテクニックを習得するために口の形を作ることは、少し時間がかかるようだった。次にぼくは耳を動かすことを教えなければと思った。耳も顔の表情作りに役に立つと思ったからだ。
「パントー、耳を動かせるか、このように」
ぼくはまた実践をしてみせた。まず左の耳を動かした。上下に小刻みに、ぴくぴく動かした。次に右の耳を動かした。右の耳も上下にリズミカルに動いた。そのあと両方の耳を同時に動かした。どちらの耳も、ぶるぶると震えるように動いた。
「お父さんの耳、すごい」
パント―があっけに取られていた。
「耳を動かせないと、笑えるようにならないの」
パント―が聞いた。
「お父さんの耳がこのように動くのは。顔の筋肉が引き締まっていて、弾力性があるからだよ。そのために生き生きとした笑顔が作れるんだ」
ぼくの説明に、パント―がうなずいた。
「笑顔が作れるようになるためには、気持ちだけでなくて、実際に口の形を整えたり、開けたり、耳を動かしたりして、様々なトレーニングをしなければならない。そうすることで生き生きとした笑顔が作れるようになる。たゆまなくトレーニングをすることで、見た目に美しい笑顔が生み出せるようになる」
説得力にあふれるぼくの話が、パント―のやる気をうながした。
「ぼく、今からすぐトレーニングを始めるよ」
パント―がそう言った。ぼくはパント―を連れて梅園に行った。花が咲いている春の初めのころは、人が多くて、とてもにぎやかだ。しかし、春たけなわの今は、梅の花はもうすでに散っていて、梅園の中は、ひっそりしていた。
梅園の中に古い井戸がある。中をのぞくと、水は一点の曇りもない鏡のように澄んでいて、ぼくの影が映った。笑うと笑い顔が映った。パント―にも井戸のふちにつかまらせて、中をのぞかせた。
「パント―、何か見えないか」
パント―は落ちないように気をつけながら、中をじっとのぞきこんでいた。
「猫が二匹、見えるよ」
パント―が答えた。
「井戸の中にどうして猫がいるの」
パントーが真顔でそうきいた。ぼくはそれを聞いて、おかしくてたまらなかったから思わず、がははっと笑った。
「あれっ、あの猫も笑っているよ。お父さんと同じように笑っているよ」
パント―はまだ気がついていないようだった。
「その猫は父さんだよ。そしてもう一匹の猫はパントーだよ」
ぼくはパント―に水鏡に姿が映っていることを説明した。
パント―はこれまで鏡を見たことがなかったので、自分がどのような姿をしているのか、全然分からないでいた。水鏡に映った自分の姿を、パント―は今日、初めて見たのだった。
「ぼくの顔は本当にに太っているね。アーヤーのようにきれいじゃないし、サンパオのように、かっこよくない」
パント―の心は深い井戸の底に沈んでいくように見えた。
「何を言うんだ、パント―。お前にも、いいところがたくさんあるじゃないか。いい猫だよ、パントーは」
ぼくはすぐにそう言って、パント―を慰めてやった。
「お前が笑えるようになったら、もっと素晴らしい猫になる」
パント―は、うなずいた。
それからまもなく、パント―は井戸端でトレーニングを始めた。毎日、暗くなるまで顔を水鏡に映して笑顔を作る練習をしたり、井戸の周りを走って、体をスリムにして、頬の筋肉を減らそうとしていた。日がとっぷり暮れて、水鏡に姿が映らなくなったころ、パント―はようやく、うちへ帰ってきた。