第九章 パント―の願い
天気……今日は清明節。春も本番になり、気温がかなり上がってきた。町のあちこちで先祖を偲んで、柳の枝で編んだ帽子をかぶっている人を多く見かける。
午前中、雨が降っていたので、ぼくと妻猫とパント―は外に出なかった。
「お父さん、ぼくが今いちぱん願っていることは何だか分かる」
パント―が、ふいに聞いた。
「ピアノをまた弾きたいということだろう。せっかく、お前がピアノを学んだのに、うちにはピアノがないからね」
ぼくは申し訳なさそうに答えた。
「違う、違う」
パント―が首を横に振った。
「ぼくが今いちばん願っていることはピアノをまた弾きたいことじゃないよ」
パント―がはっきりそう言った。
(あれっ、違うのか)
ぼくは意外に思った。
「じゃあ、お前がいちばん願っているものは何なのだ」
ぼくは、ふに落ちなかったので、聞き返した。
「お父さん、当ててよ」
パント―がもったいぶった言い方をした。
ぼくは、しばらく考えた。でも思い浮かばなかった。
「お前の願いが実現するよう、父さんにできることなら何でも手伝ってあげるよ」
ぼくはそう答えた。
「お父さんにできることだよ。お父さんにしかできないことだよ」
「えっ、本当か。そんなことが何かあるかなあ」
ぼくはちょっと考えた。でも思い当たらなかった。
「はやく言えよ」
ぼくはむずむずして落ち着かなかった。
「ぼくに笑い方を教えてくれない」
予想外の答が返ってきたので、ぼくはうまく受け止めることができなかった。
「えっ、何、今、何と言った。もう一度、言って」
ぼくはパント―に聞き返した。
「ぼくに笑い方を教えてくれない」
今度は、はっきりと聞き取ることができた。嬉しくもあった。
「お前はどうして急に、そんなことを思うようになったんだ」
存外のことに、ぼくの心はうまく整理できないでいた。
「宇宙人の子を、地球人の子にしてあげたいの」
パント―は浮き浮きした顔で、そう答えた。パント―の思いやりに、ぼくは心を動かされた。
「お前は優しいなぁ。でも父さんの笑いと、それと、どのような関係があるんだ」
ぼくは率直な疑問を投げかけた。
「あるよ、あるよ。おおありだよ」
パント―がすぐに答を返した。
「あの子はお父さんの笑顔にしか興味を示さなかったじゃない。これはぼくの大発見だよ」
パント―は感動冷めやらぬ顔をしていた。
「あー、そう言われれば、確かにそうだったな。思い出した」
ぼくは、おととい見たイチョウ林の情景が脳裏に浮かんだ。宇宙からきた子が両手を挙げてイチョウの木の周りを、くるくる回っていたとき、ぼくが笑いかけたら、宇宙からきた子は回るのをやめて、ぼくの顔をじっと見ていた。そのとき、あの子の視線はきょろきょろしていなかった。そして、優しそうな目でぼくに笑いかけてきた。
おとといの出来事は、ほんの数分間の出来事にすぎなかった。しかし、その数分間の間は、宇宙からきた子は、地球人の子と少しも変わったところがないように見えた。
「あのときは、たまたま反応しただけかもしれないよ」
ぼくは謙遜した。するとパント―が首を横に振った。
「お父さんの笑顔以外のものに、あの子が反応したのを見たことがないよ。うそだと思うならこれからいっしょにもう一度、イチョウ林に行って確かめてみようよ」
パント―が熱心に誘ったので、ぼくは応じることにした。
午後の二時半に、ぼくとパント―はイチョウ林にやってきた。妻猫もついてきた。宇宙からきた子も、ほとんど同じ時刻にやってきた。あの子はいつも二時半ぴったりに、ここに来ることに決めているようだ。千本以上もあるイチョウの木の中から、特定の木を探し出して、その木の周りを回ることにしているのは、やはり地球にきたとき、たまたま、その木の近くに下りたからかもしれないと、ぼくは思った。特定の木の前に着くと、男の子は、両手を挙げて、木の周りをまた回り始めた。
ぼくと妻猫とパント―は、その子のほうにかけていった。
パント―は男の子の足元に走りつくと、いっしょに回りはじめた。でも男の子はパント―には少しも注意を払わなかった。目はいったいどこを見ているのか、さっぱり分からなかった。
「お父さん、はやく笑って」
パント―が、気もそぞろに言った。
男の子がぼくの前に回ってきたとき、ぼくは、はちきれんほどの思いをこめて破顔一笑した。すると、男の子が目を大きく見開いて、それまでとはうって変わったように表情が生気づいた。高く挙げていた両手を下ろして、ぼくをじっと見ていた。ぼくはひたすら微笑んで、満面の笑みで男の子を見ていた。男の子は、ぼくの笑顔に魅せられたように、ぼくの顔からずっと目を離さなかった。
ぼくがイチョウの木から離れていくと、男の子もイチョウの木から離れて、ぼくについてきた。
「あっ、パオパオ、どこへ行くの……」
ベビーシッターの声がした。ベビーシッターはそれまで、ほかのベビーシッターと、おしゃべりに興じていたが、男の子がぼくのあとについていっているのに気がついて走ってきて、男の子を抱きしめた。
するとそのとたん、男の子が、ベビーシッターの胸に抱きかかえられたまま、地響きがするほど激しくぐずりだした。その様子を見ていたほかのベビーシッターは見るに忍びなくなって、逃げるような足取りで、イチョウ林から出て行った。
「今日はいつもとは違うね」
「そうだね。まだ五時半になっていないのに、どうしたのかしらね。いつもは時計のように正確なのに」
「どうして今日は回るのを途中でやめたのかしら」
「さっき、猫が近くに、いたようだけど……」
ベビーシッターが、口々に話しているのが聞こえてきた。ベビーシッターに見つかって面倒なことに巻き込まれたくないと思ったから、ぼくと妻猫とパントーはイチョウ林をさっと離れることにした。 そしてうちをめざして、一目散に走り始めた。
「お父さん」
走りながら、パント―が聞いた。
「お父さんの笑顔に、あの子が反応したのは偶然じゃなかったことが分かったでしょう」
パント―にそう言われると、反論の仕様がなかった。確かにあの子は、ぼくの笑顔に興味を覚えていた。
「そうだね。父さんも、そう思うよ。それから今日、もう一つ、分かったことがあるよ」
ぼくがそう言うと、パント―が身を乗り出してきた。
「何が分かったの、お父さん」
パント―が耳を傾けていた。
「あの子の名前だよ」
「何と言うの」
パント―が興味深そうな顔をしていた。
「パオパオだよ。ベビーシッターがそう呼んでいたから」
「パオパオか。誰が、つけたのかな」
パントーが小首をかしげていた。
パオパオという名前は、地球人によくある名前だ。あの子のお父さんとお母さんも宇宙人に違いないのに、あの子の名前はどうして地球人の名前と同じなのだろうか。もしかしたら宇宙からきたときに、地球人の家族に引き取ってもらって、その家のお父さんとお母さんに名前をつけてもらったのだろうか。ぼくには謎が深まるばかりだった。
「パオパオという名前は、きっとお母さんがつけたものだわ。子どもはみんな、お母さんのパオパオ(宝物)だからね」
妻猫の母性本能が、ひしひしと伝わってきた。ぼくは、うなずかざるを得なかった。
「あの子のお母さんは、パオパオが地球人の子どもになることを、どんなに望んでいることでしょうね」
妻猫が感傷的になっていた。
「お母さん、ぼくがパオパオを地球人の子どもにしてあげるよ」
パントーが目を輝かせていた。
「ぼくはこれまでずっとサンパオとアーヤーのことを、うらやましく思っていたんだ。サンパオは盲人を助ける盲導猫になったし、アーヤーは人の言葉を話したり、耳が遠い人を手伝って新聞を売ったり、歌を歌って、植物人間を覚醒させることができた。どちらもすごいよ。ぼくもサンパオやアーヤーのように人の役に立つ猫になるよ。パオパオを地球人の子どもにするために頑張るよ」
パント―の熱い思いが、ひしひしと伝わってきた。ぼくと妻猫は感動に震えていた。
天気……今日は清明節。春も本番になり、気温がかなり上がってきた。町のあちこちで先祖を偲んで、柳の枝で編んだ帽子をかぶっている人を多く見かける。
午前中、雨が降っていたので、ぼくと妻猫とパント―は外に出なかった。
「お父さん、ぼくが今いちぱん願っていることは何だか分かる」
パント―が、ふいに聞いた。
「ピアノをまた弾きたいということだろう。せっかく、お前がピアノを学んだのに、うちにはピアノがないからね」
ぼくは申し訳なさそうに答えた。
「違う、違う」
パント―が首を横に振った。
「ぼくが今いちばん願っていることはピアノをまた弾きたいことじゃないよ」
パント―がはっきりそう言った。
(あれっ、違うのか)
ぼくは意外に思った。
「じゃあ、お前がいちばん願っているものは何なのだ」
ぼくは、ふに落ちなかったので、聞き返した。
「お父さん、当ててよ」
パント―がもったいぶった言い方をした。
ぼくは、しばらく考えた。でも思い浮かばなかった。
「お前の願いが実現するよう、父さんにできることなら何でも手伝ってあげるよ」
ぼくはそう答えた。
「お父さんにできることだよ。お父さんにしかできないことだよ」
「えっ、本当か。そんなことが何かあるかなあ」
ぼくはちょっと考えた。でも思い当たらなかった。
「はやく言えよ」
ぼくはむずむずして落ち着かなかった。
「ぼくに笑い方を教えてくれない」
予想外の答が返ってきたので、ぼくはうまく受け止めることができなかった。
「えっ、何、今、何と言った。もう一度、言って」
ぼくはパント―に聞き返した。
「ぼくに笑い方を教えてくれない」
今度は、はっきりと聞き取ることができた。嬉しくもあった。
「お前はどうして急に、そんなことを思うようになったんだ」
存外のことに、ぼくの心はうまく整理できないでいた。
「宇宙人の子を、地球人の子にしてあげたいの」
パント―は浮き浮きした顔で、そう答えた。パント―の思いやりに、ぼくは心を動かされた。
「お前は優しいなぁ。でも父さんの笑いと、それと、どのような関係があるんだ」
ぼくは率直な疑問を投げかけた。
「あるよ、あるよ。おおありだよ」
パント―がすぐに答を返した。
「あの子はお父さんの笑顔にしか興味を示さなかったじゃない。これはぼくの大発見だよ」
パント―は感動冷めやらぬ顔をしていた。
「あー、そう言われれば、確かにそうだったな。思い出した」
ぼくは、おととい見たイチョウ林の情景が脳裏に浮かんだ。宇宙からきた子が両手を挙げてイチョウの木の周りを、くるくる回っていたとき、ぼくが笑いかけたら、宇宙からきた子は回るのをやめて、ぼくの顔をじっと見ていた。そのとき、あの子の視線はきょろきょろしていなかった。そして、優しそうな目でぼくに笑いかけてきた。
おとといの出来事は、ほんの数分間の出来事にすぎなかった。しかし、その数分間の間は、宇宙からきた子は、地球人の子と少しも変わったところがないように見えた。
「あのときは、たまたま反応しただけかもしれないよ」
ぼくは謙遜した。するとパント―が首を横に振った。
「お父さんの笑顔以外のものに、あの子が反応したのを見たことがないよ。うそだと思うならこれからいっしょにもう一度、イチョウ林に行って確かめてみようよ」
パント―が熱心に誘ったので、ぼくは応じることにした。
午後の二時半に、ぼくとパント―はイチョウ林にやってきた。妻猫もついてきた。宇宙からきた子も、ほとんど同じ時刻にやってきた。あの子はいつも二時半ぴったりに、ここに来ることに決めているようだ。千本以上もあるイチョウの木の中から、特定の木を探し出して、その木の周りを回ることにしているのは、やはり地球にきたとき、たまたま、その木の近くに下りたからかもしれないと、ぼくは思った。特定の木の前に着くと、男の子は、両手を挙げて、木の周りをまた回り始めた。
ぼくと妻猫とパント―は、その子のほうにかけていった。
パント―は男の子の足元に走りつくと、いっしょに回りはじめた。でも男の子はパント―には少しも注意を払わなかった。目はいったいどこを見ているのか、さっぱり分からなかった。
「お父さん、はやく笑って」
パント―が、気もそぞろに言った。
男の子がぼくの前に回ってきたとき、ぼくは、はちきれんほどの思いをこめて破顔一笑した。すると、男の子が目を大きく見開いて、それまでとはうって変わったように表情が生気づいた。高く挙げていた両手を下ろして、ぼくをじっと見ていた。ぼくはひたすら微笑んで、満面の笑みで男の子を見ていた。男の子は、ぼくの笑顔に魅せられたように、ぼくの顔からずっと目を離さなかった。
ぼくがイチョウの木から離れていくと、男の子もイチョウの木から離れて、ぼくについてきた。
「あっ、パオパオ、どこへ行くの……」
ベビーシッターの声がした。ベビーシッターはそれまで、ほかのベビーシッターと、おしゃべりに興じていたが、男の子がぼくのあとについていっているのに気がついて走ってきて、男の子を抱きしめた。
するとそのとたん、男の子が、ベビーシッターの胸に抱きかかえられたまま、地響きがするほど激しくぐずりだした。その様子を見ていたほかのベビーシッターは見るに忍びなくなって、逃げるような足取りで、イチョウ林から出て行った。
「今日はいつもとは違うね」
「そうだね。まだ五時半になっていないのに、どうしたのかしらね。いつもは時計のように正確なのに」
「どうして今日は回るのを途中でやめたのかしら」
「さっき、猫が近くに、いたようだけど……」
ベビーシッターが、口々に話しているのが聞こえてきた。ベビーシッターに見つかって面倒なことに巻き込まれたくないと思ったから、ぼくと妻猫とパントーはイチョウ林をさっと離れることにした。 そしてうちをめざして、一目散に走り始めた。
「お父さん」
走りながら、パント―が聞いた。
「お父さんの笑顔に、あの子が反応したのは偶然じゃなかったことが分かったでしょう」
パント―にそう言われると、反論の仕様がなかった。確かにあの子は、ぼくの笑顔に興味を覚えていた。
「そうだね。父さんも、そう思うよ。それから今日、もう一つ、分かったことがあるよ」
ぼくがそう言うと、パント―が身を乗り出してきた。
「何が分かったの、お父さん」
パント―が耳を傾けていた。
「あの子の名前だよ」
「何と言うの」
パント―が興味深そうな顔をしていた。
「パオパオだよ。ベビーシッターがそう呼んでいたから」
「パオパオか。誰が、つけたのかな」
パントーが小首をかしげていた。
パオパオという名前は、地球人によくある名前だ。あの子のお父さんとお母さんも宇宙人に違いないのに、あの子の名前はどうして地球人の名前と同じなのだろうか。もしかしたら宇宙からきたときに、地球人の家族に引き取ってもらって、その家のお父さんとお母さんに名前をつけてもらったのだろうか。ぼくには謎が深まるばかりだった。
「パオパオという名前は、きっとお母さんがつけたものだわ。子どもはみんな、お母さんのパオパオ(宝物)だからね」
妻猫の母性本能が、ひしひしと伝わってきた。ぼくは、うなずかざるを得なかった。
「あの子のお母さんは、パオパオが地球人の子どもになることを、どんなに望んでいることでしょうね」
妻猫が感傷的になっていた。
「お母さん、ぼくがパオパオを地球人の子どもにしてあげるよ」
パントーが目を輝かせていた。
「ぼくはこれまでずっとサンパオとアーヤーのことを、うらやましく思っていたんだ。サンパオは盲人を助ける盲導猫になったし、アーヤーは人の言葉を話したり、耳が遠い人を手伝って新聞を売ったり、歌を歌って、植物人間を覚醒させることができた。どちらもすごいよ。ぼくもサンパオやアーヤーのように人の役に立つ猫になるよ。パオパオを地球人の子どもにするために頑張るよ」
パント―の熱い思いが、ひしひしと伝わってきた。ぼくと妻猫は感動に震えていた。