「私は無実です。ラッカム嬢、セルデン様の話だけを信じるなんて不公平では? 他に誰か証言のできる人はいらっしゃらないのですか?」
エオノラが指摘するとラッカム嬢の眉間の皺がさらに険しくなった。
「まだしらを切るつもりでいるだなんて、とんだ恥知らずですわね。あなたみたいな、男なら誰でも誑かすような尻軽女、王宮じゃなくて娼館の方がお似合いですわよ」
苛烈な発言にエオノラがたじろいでいると、突然後ろから肩を叩かれた。
「こんなところにいたのかい」
後ろを振り返ったエオノラは視界に入った人物に思わず息を呑んだ。
一拍置いてから慌てて挨拶をする。
「こんばんは。今宵は素敵な舞踏会に参加できて光栄に思います――ハリー様」
その人物とは、第二王子のハリーだった。
彼は「よっ!」となんとも軽い挨拶と共に白い歯を見せてくる。
ラッカム令嬢と取り巻きも慌ててハリーに挨拶をしたが、彼はそれを無視してエオノラに話し掛ける。
「招待状リストに目を通していたら君の名前があったからね。きちんと顔を出そうと思ってやってきたんだ」
爽やかな笑みを湛えるハリーは漸くラッカム嬢と取り巻きの方に視線を移すと、エオノラを庇うように二人の前に立ち、腰に手を当てる。
「さて、ラッカム嬢と言ったかな。この場を借りて君の間違いを正させてくれないか?」
「第二王子殿下、間違いとは一体何のことでございましょう?」
先程まで威勢が良かったのに、ラッカム嬢は借りてきた猫のように大人しい。それでも、その表情には不服そうな色が浮かんでいた。
「エオノラ嬢はここ暫く、それこそパトリック・キッフェンと婚約解消後はずっと俺の下で仕事を手伝ってくれている。だから君が言うように男と密会する暇はないんだ。信じられないなら彼女と交わした契約書の書面を見せようか?」
その発言に周囲からどよめきが起きる。
エオノラはハリーが自分を庇ってくれていることに気がついた。
きっと自分一人の力では今夜だけで噂を払拭することはできなかった。何度も舞踏会に参加して、地道に噂が間違っていると周りに認識させることでしか打つ手がなかった。しかし、ハリーのお陰で一気に風向きが変わり始めた。
感謝の念を抱いていると、ハリーがこちらに身体を向けてくる。
「エオノラ嬢の社交界デビューが遅れていたのは私のせいだ。この場で謝罪させてくれ。そして社交界デビューおめでとう」
「いいえ、私の方こそ微力ながらハリー様にお力添えできて大変光栄に思っています」
社交界デビューが遅れていたのは決してハリーのせいではないが、この場を納めるためにエオノラはハリーの主張に合わせる。ドレスのスカートを摘まんで深々と一礼した。
すると、先程まで感じていた痛々しい視線が軟化していくのを肌で感じた。
ハリーのお陰で身の潔白は証明された。今夜を皮切りにエオノラの悪い噂が嘘だと広がり、いずれは消えていくだろう。
エオノラが安堵の息を漏らしていると、それまで黙っていたラッカム嬢が異を唱えた。
「お待ちくださいませ! それなら、デュークの発言はどうなるのです? 彼が私に嘘を吐いているということですか?」
ラッカム嬢は顔を真っ赤にさせて、身体を震わせている。彼を一心に信じているその姿はどこまでも健気だ。
「婚約者である君に浮気を指摘されて苦し紛れに悪い噂が流れているエオノラ嬢に罪をなすりつけたんじゃないか? そうすれば自分はラッカム嬢に責められず、エオノラが攻撃されるからね。因みにデューク・セルデンだが、さっき休憩室がある廊下で女性を口説いていたぞ」
「……っ!! すぐに確かめて参ります。わたくしはここで失礼します」
血相を変えたラッカム嬢は身を翻すと急いで休憩室のある廊下へと向かっていく。残された取り巻きも慌てて一礼すると彼女の後を追いかけていった。
二人がいなくなると、周囲の貴族たちは何事もなかったように再び歓談を始める。興味がなくなった、とうよりは厳かな雰囲気を纏うハリーの存在で今起きた話題を口にできないのが妥当なところだろう。
一先ず、場所を変えようとハリーから提案されたエオノラはそれに従ってバルコニーへと移動した。人気のないバルコニーで、エオノラは真っ先にお礼を口にした。
「助けていただきありがとうございます。私だけではこんなに早く状況を変えることはできなかったと思います。これもすべてハリー様のお陰です」
「社交界のゴシップに興味はないが、君の話が上がっていたから事情はおおよそ知っていた。日頃君にはお世話になっているからね。あと、補足しておくとゼレク殿にも仕事を手伝ってもらっていることはさっき政務室で会ったから話しておいた」
ハリー曰く、研究している薬に使用する植物の採取を頼んでいるということになっているらしい。抜かりないハリーにエオノラは頭が下がる思いだ。
「それで、ゼレク殿はまだ戻られないのかい?」
「はい。一曲目のダンスまでには戻ってくると言っていましたが……」
「そうなのか? だが、そのダンスももうすぐ始まると思うぞ」
ハリーはエオノラから会場内の一番奥にある玉座へと視線を向ける。つられてエオノラも眺めてみると、そこには国王夫妻の姿があった。
国王が挨拶をすれば舞踏会は開始となり、オーケストラが演奏を始めるだろう。
「どうしましょう。お兄様は間に合わないかもしれない……」
エオノラは顔を青くした。
肝心のゼレクが戻ってこなければ一曲目のダンスを誰とも踊れないまま終わることとなり、再びゴシップのネタにされてしまう。考えただけで背筋が寒くなり、ぶるりと身体が震える。エオノラは自身をそっと抱き締めた。
「……なら、俺がもう一肌脱ぐとしよう」
「えっ!?」
ハリーの発言にエオノラはギョッとした。まさか、ハリーがダンスの相手をしてくれるのだろうか。しかし、もしもデビュタントの相手がハリーとなれば、それだけでエオノラとダンスを踊る相手は敷居が高くなるし、今度はハリーと恋仲なのではないかという噂が立ってしまう。
不安な表情が顔に出てしまっていたのかハリーはすぐに補足した。
「誤解がないよう説明しておくと、ダンスの相手をするわけじゃない。……まあ、大船に乗ったつもりで俺に任せるといいさ」
「は、はあ……」
ハリーは片目を瞑ると、颯爽と国王夫妻がいる壇上へと歩いて行った。
慌てて彼の後を追うが、彼との距離はどんどん離れていってしまう。
エオノラが追いかけている間にハリーは壇上に到着すると、国王夫妻に挨拶をした。
「父上、母上。このような華やかな公の場でお会いするのはお久しぶりでございます」
「ハリストン、あなたが夜会に現れるなんて珍しいわね。いつもは研究所に引き籠もっているというのに」
王妃は挨拶をしにきたハリーに優しく微笑み掛けながらもちくりと苦言を呈する。しかし、どこ吹く風のハリーは気にしていない様子だった。寧ろ満面の笑みで言葉を返す。
「社交界には定期的に顔を出さなくては、私の存在が忘れられるやもしれませんからね。存在が忘れられてしまうのは第三王子だけで充分でしょう」
『第三王子』という単語がハリーの口から零れると、たちまち王妃の表情が凍り付いた。それを聞いていた会場の人間もしんと静まり返る。
第三王子のフェリクスは心を病んで離宮で療養中だ。誰も寄せ付けず、ひっそりと一人で暮らしている。要するに王家の触れてはいけない部分だ。
それにも拘らず『第三王子』という言葉をハリーが発したものだから、会場内には緊張には走った。すると、玉座の背にもたれていた国王が緩慢な動きで身を起こした。
「自分の立場を理解しているようで何よりだ。ハリストン、これからも定期的に顔は出すように」
「自分の立場は充分に理解しているつもりです。ところで父上、一つお願いがございます」
「ほう、何だね? 言ってみなさい」
「久しぶりの煌びやかな社交界で、美しい女性を前にしてエスコートできる自信が私にはございません。もし父上の許可が下りるならば、今宵は仮面舞踏会に変更していただきたいのです」
国王は口元に手を当てて暫し考え込む。それから王妃に視線を投げると彼女は妖艶な微笑みを浮かべながら頷いた。
「会場にいる諸君らに異論がある者はいるか?」
国王の問いかけに誰も異論を唱える者はいなかった。
提案が受け入れられたと分かると、ハリーは会場内に響き渡るように軽やかに手を叩く。
「それでは、早速準備を致しましょう」
入り口からぞろぞろと配膳係がやってくる。手に乗せた銀盆の上には男性用の仮面と女性用の仮面があり、それを招待客に配り始める。
受け取った招待客はそれを顔につけると、紐を頭の後ろで結んで固定する。エオノラも手渡された女性用仮面を付けた。
ハリーは胸の内ポケットにしまっていた仮面を国王夫妻に渡し、自身にも仮面をつける。皆が付け終えた頃合いを見て、国王は頷くと、ワイングラスを王室長官から受け取って立ち上がった。
「今宵は趣向を変更することにはなったが盛大に楽しむがよい」
それが号令となって盛大な舞踏会が始まった。
人々の興奮と熱気の渦が会場を包み込む。
エオノラがそれを肌で感じ取っていると、オーケストラの指揮者が指揮棒を手に構えるのが目に入った。手の動きに合わせてゆったりとした旋律が流れ始める。
一曲目のダンスが始まるらしい。緩やかな音色が会場内に響いた途端、歓談していたうら若い令嬢たちは令息たちと手を取り、優雅な足取りで会場の中心へと歩いて行く。
結局、ゼレクは間に合わなかった。エオノラは小さく息を吐くと、周りの邪魔にならないように壁際へと移動した。
(ハリー様が一肌脱ぐと仰っていたのは国王夫妻に挨拶をして時間を稼ぐことだったのね。大変ありがたいことだけど、結局お兄様は間に合わなかった……)
一曲目に演奏されているのはゆったりとした踊りやすい曲。女性たちのスカートがそのテンポに合わせて美しく揺れている。
その様子を寂しい気持ちで眺めていると、突然視界を遮るように、目の前には青みがかった白銀の頭が映った。驚いて手前に焦点を合わせてみると、間近に仮面を付けた青年が立っている。他の人たちがつけている目元を隠すだけの仮面とは違い、額から鼻先までを仮面でしっかりと隠している。
(……クリス様?)
目の前の人物の髪色や背恰好といい、その雰囲気はクリスを彷彿とさせるものがある。しかし、クリスは呪われたラヴァループス侯爵だ。たとえ仮面舞踏会であるとはいえ、こんな公の場に訪れるとは考えにくい。それに仮面から垣間見える彼の瞳は緑色だった。
見とれていると彼がエオノラの前に手を差し出してきた。
「今宵の華やかな舞踏会で踊らないなんて勿体ない。よろしければ私と一曲踊って頂けませんか?」
優雅な所作でその人はエオノラの前に跪く。
「えっ……!?」
突然の申し出にエオノラは瞠目した。
どうして自分なのか不思議になって辺りを確認すると、うら若い令嬢は自分以外一人もいなかった。
(消去法でいくと、誘える令嬢は私だけになるわね)
しかしエオノラは誘いを受けるべきか悩んだ。もしかしたらゼレクが戻ってきてくれるかもしれないという期待もあったからだった。
相手の手に自分の手を伸ばしかけては引っ込めると繰り返していると、優しい声で話し掛けられる。
「今宵は仮面舞踏会。誰が誰と踊ったかなんて分からない。だが、デビュタントを表すラペットを付けている令嬢が一曲目で踊らないというのは体裁が悪い。それにその大人びたドレスは他のデビュタントと違って目に付く。仮面をつけていてもあなたがエオノラ・フォーサイス様だとすぐに周りは気づくでしょう」
彼の言い分はもっともだった。
今夜は他のデビュタントの令嬢と違い、大人びた服装をしている。さらに先程まで注目を浴びていたのだから、きっと周りの人たちは自分が誰なのか認識しているはずだ。
「そうですね。お誘いはありがたくお受けします」
エオノラは差し出された彼の手に自分の手を載せた。
ふと、彼と初めて目が合った。その瞳は緑色。しかしシャンデリアの光が当たる角度が変わった途端、緑色が一瞬琥珀色に変わったような気がした。
琥珀色の瞳を見て、クリスの姿が脳裏に浮かぶ。
するとエオノラの心臓が大きく跳ねた。
(も、もう。私ったら、見ず知らずの方をクリス様と重ねているのね。髪の色や雰囲気が同じだから、見間違えてしまったんだわ)
こんな公の場に、呪われたクリスが来るはずがないと自分に言い聞かせる。
頭を振ると気を取り直して彼と共に会場内の中心へと歩き出した。
旋律に合わせて二人はダンスを踊り始める。
クリスとダンスを練習した甲斐もあってエオノラの足取りは軽やかだ。くるりとターンをすると彼はしっかりと身体を受け止めてくれる。
(この人、とってもダンスが上手いわ。というよりも、何だかクリス様のダンスに似ている気がする。……私がクリス様を意識し過ぎているから?)
クリスを意識し過ぎている。
自分で言っておきながら、エオノラの心臓の鼓動が激しさを増した。
(嗚呼、今は大事なデビュタントのダンスなんだから。集中しなきゃ……!)
意識を引き戻すと、相手がこちらを見つめていることに漸く気がついた。
「ど、どうしたんですか?」
我に返って尋ねると、彼がエオノラの耳元にさりげなく顔を寄せる。
「大事なダンスなのに集中していない。一体、誰のことを想像しているんだ?」
囁かれた重低音が頭の芯まで響いて全身に熱が走る。その声はあまりにも魅惑的で一瞬頭がくらりとした。バランスを崩しそうになったので必死に足に力を込め、踊りながら体勢を立て直す。
向こうはその様子を見て、楽しそうに笑っていた。
(完全に私で遊んでいるわ。というか、こういうことに絶対慣れてるわ!)
エオノラは無事に社交界デビューが終わることを祈りつつ、ダンスが終わった暁には彼がどこの誰なのか問いただそうと内心息巻いた。
無事に一曲目の演奏が終わると、エオノラは涼しい風に当たろうと提案する。
彼は「構いませんよ」と言って了承してくれた。
外にある庭園に出ると休む人はエオノラと彼以外にいなかった。まだ舞踏会は始まったばかり。序盤で休憩を挟むなんて普通なら勿体ないのだ。
庭園に到着したエオノラは仮面を取ってにっこりと微笑んだ。
「ダンスの相手をしてくださってありがとうございます。お陰で無事に終えることができました」
「お礼を言われるほどじゃない。久しぶりに踊りたくなって側にいたのが丁度あなただっただけ」
「いいえ、私はとても感謝しています。だって、あなたがいなければ私はまた恥をかくところでした。なので、あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「名乗るような者じゃない。お互いに利があった。ただ、それだけのこと」
「ですが……」
エオノラが食い下がろうとすると、唇に青年の人差し指が当たり、続きを遮られる。
「折角の仮面舞踏会という魔法が解けてしまう」
「……私はあなたに素性がバレています」
不満だという態度を取ると、青年は肩を竦めた。
「仮面舞踏会の前に第二王子と一緒にいたら誰だって注目する。公平じゃないと言われても仕方がないことだ。――ここでは名乗れないが、私はあなたの身近にいる」
最後は囁き声ではあったが、その意味深な発言にエオノラの身体がびくりと揺れた。