約束の土曜日が来た。私は半日勤務を終了して帰宅し、夕方に向けて準備を始めた。洋服は黒のタートルネックセーターにグレーの膝丈のフレアスカート、黒タイツ、耳にはシルバーの小さなイヤリングを身に着け、モスグリーンのダッフルコートを羽織った。いつもの茶色のポシェットを肩にかけ、玄関を出た。母親には事前に出かけることは話していたので今回は怒られなかった。
(ちょっとの時間でもいいから一緒にいたい……)
私は、そんな想いで心の中を一杯に満たしながら車を走らせた。
病院裏にある医師寮前に到着すると、石家先生はいつもの赤いダウンジャケットとチノパンツ姿で寮の前にある電話ボックスのところに立っていた。私は電話ボックスの隣に車を停めた。
「先生、お待たせしました!」
「いえいえ。今日僕、オンコールだからもしかすると途中で呼ばれちゃうかもしれない。」
石家先生は車の助手席のドアを開けて乗り込みながら真顔で言ってきた。
「大丈夫です、じゃ早く行きますか!」
私はニッコリ顔で返事をしながら車のハンドルを回した。
「先生、場所は前と同じ居酒屋で良いですか?」
私は前方を見ながらニッコリ顔で石家先生に聞いた。
「あ、まぁいいけど。でもあんまり遠いと呼び出しがあったときがなぁ……」
「そ、そうですよね~。わかりました。じゃあ近場で。」
「うん。」
病院近辺の居酒屋だと、病院職員に目撃されてしまう危険性が高い。この関係は内密にしたいので、私は運転しながら近場で病院職員に見つかりづらい場所を頭の中で検索した。
「先生、T駅前にあるお店で良いですか?そこならS市内よりも近いし大丈夫かなと。」
私は、T駅前にある新しくできた和風居酒屋を提案した。そこならS市内よりは距離は近いし大丈夫かなと思ったのだ。
「まぁ、うん、いいよ。」
石家先生は少し曇った声で返事をした。
週末だが道は結構空いていたため、私たちは病院を出て10分程度でT駅前のお店に到着した。
「いらっしゃいませ~」
店内に入ると、法被にデニム姿の女性店員が元気よく挨拶をしてきた。見渡すとガラッとボックス席が空いており、私たちはすぐに案内された。私たちはボックス席に向かい合って座り、飲み物を注文した。石家先生はオンコールということもあり、私と一緒にホットウーロン茶といくつか食べ物を注文した。飲み物が運ばれ、私たちは「お疲れ様!」と乾杯をした。
「先生、もう本院へ戻ってしまうのですね……」
私はホットウーロン茶をフーフーしながら一口飲み、湯飲みを両手で包むように持ちながら言った。
「うん、もうあとわずかだよね~。本院に戻ったらもう地獄が待っているから嫌だよ~。」
石家先生はホットウーロン茶をグビッと飲み、眉をひそめながら言った。
「地獄って?」
私は石家先生の顔を下から覗き込みながら聞いた。
「まぁ……本院に戻ったらすぐに救命救急センターで3か月間研修があるんだよ~。もうそれが地獄でさぁ~。特にあそこの看護師が怖くて有名なんだよね~。」
石家先生は困ったような表情で言った。テーブルの上には注文した唐揚げとツナサラダが運ばれてきた。私は取り皿にツナサラダを取り分けて石家先生の前に置いた。
「ここの看護師さんたちはみんな親切でありがたかったよ。仕事しやすいし。それに分娩とかオペとかいろいろさせてもらったから本当勉強になったよ~。」
石家先生は唐揚げを頬張りながらニッコリ笑顔で言った。
「よかったですね。先生が来てくれたおかげで病棟の雰囲気が良くなったし。先生が来る前なんか、あの沼尻先生とか話しづらいし、何かあってオンコールで電話するときとっても言いづらかったから。だから先生がいなくなると辛いです……」
私は上目遣いに先生を見つめながら言った。
(本当は東京に戻ってほしくない……)
私の胸の中では、その一言がグルグルと回っていた。
(このままずっとここにいて一緒に仕事をしたい!そして、仕事以外でも一緒にいたい!)
「まぁ俺もここに残りたいとは思っているけどね。でも教授の命令だから仕方ないんだよぉ~。」
石家先生はホットウーロン茶をグビっと飲み干し、唐揚げをパクっと一口食べた。私は石家先生の2杯目の飲み物を注文した。数分後、角刈りの男性定員がホットウーロン茶を運んできた。石家先生はホットウーロン茶をフーフーと冷ましながら一口飲んだ。
「9月からここに来てあっという間だったよねぇ~。ホント楽しかったよ~。」
石家先生はニッコリした顔で言いながら、目の前にあるツナサラダを一口食べた。
「良かったです。」
私もニッコリ笑顔で応えた。でも内心はドキドキしていた。
「先生の中で一番の思い出は何ですか?」
私は先生を見つめながら言った。
「う~んそうだなぁ……やっぱり旅行したことかな。久々に旅行をしたのと宴会で思いっきり酒が飲めて楽しかったよ。なんてったって旅行は大学卒業の時以来だからね。」
石家先生はニッコリ笑顔でウーロン茶をすすり、小皿にあるツナサラダを全部平らげた。私は、空になった先生の小皿にツナサラダを取り分けた。そして少し残った分を自分の皿に分けた。
「ねぇ先生、宴会のときのこと覚えてます?」
私はツナサラダを美味しそうに頬張っている石家先生の顔を覗き込みながら聞いてみた。
「う~ん……そうだなぁ……」
石家先生はダウンジャケットのポケットからLARKの箱とオレンジ色の100円ライターを出し、そこから煙草を1本取り出してライターでシュポっと火をつけゆっくり吸い込み、口から煙をフゥーと吐き出した。
「宴会の最初乾杯してビールを飲んだところは覚えているんだよ。それからビール日本酒と結構飲んでいて途中から何をしたかわからなくなったよ~。楽しかったんだろうねぇ~酒が止まらなかったんだよね~。」
石家先生は変わらずニッコリ顔で答え、煙草の灰をトントンと灰皿に落とした。
「じゃあ二次会のことは覚えていないでしょ。みんなで沼尻先生の部屋に集まって王様ゲームしたこととか……」
私はホットウーロン茶の湯飲みを両手で持ち、チビチビと飲みながら石家先生の顔をジッと見つめていた。胸のドキドキは続いていた。