トキメキの飲み会から4日後、約束の二日前の水曜日。その日準夜勤である私は病棟の廊下を歩いていた石家先生に背後からそっと近づいて声をかけた。
「先生、お疲れ様です!」
「あぁお疲れ!丸ちゃん今日は夜勤なの?」
「そうなんですよ~。先生は当直?」
「いや。あっそうだ、飲みに行く話なんだけど、金曜日は当直が入っていて行けないんだよ~。ごめんね~。」
石家先生は両手を顔の前で合わせて申し訳なさそうに答えた。その瞬間、私の胸の奥でチクッと針が刺さったかのような痛みを感じた。
「あっ……そうですか……残念です……。」
「では、また今度ね。」
石家先生はニコっと微笑みながらそう言って廊下を歩いて行った。
(チャンスを逃しちゃダメ!行け!)
「あのっ、先生!」
私はまた石家先生の背後からとっさに声をかけた。胸はドキドキと強く鳴り出した。
「何?」
「あのっ、金曜日がダメなら日曜日はどうですか?」
「日曜日か……ちょっと待ってね。」
石家先生はケーシー白衣のポケットから黒い手帳を取り出してペラペラ捲り出した。
「日曜日は……当直じゃないよ。緊急分娩さえ入ってこなければ大丈夫かな。」
その言葉を聞いたとたんに、私の心がパァっと軽くなるのを感じた。
「じゃあ、今度の日曜日に行きませんか!」
私はとびきり明るい笑顔で、石家先生を誘った。
「あぁ、いいよ。」
石家先生は微笑みながら返事をした。
「では、日曜日で時間は18:00頃で良いですか?」
「いいよ。僕はどこで待ってればいいの?」
「そうですね……職員玄関前だと他の人に見られてしまうので、病院裏にある先生達の寮のところまで迎えに行きますよ。」
「いいの?」
「はい!寮の前にある電話ボックスがありますよね。」
「あぁ。」
「その電話ボックスの前で待っていただければ、私そこまで迎えに行きますよ。」
「わかった。」
「では日曜日で。ありがとうございます。」
私はペコっと少し会釈をして足早にその場を去った。去ってもその後ナースステーションに戻ったらまた石家先生に会うのだが、先ほどやり取りを他の職員に悟られないように、精一杯何食わぬ顔でいることを努めた。石家先生も何もなかったかのようにシャーカステンに患者のCT画像をかけて喜屋武教授と画像チェックをしていた。私は何事もなかったように日勤リーダーである谷中さんからの申し送りを聞き、患者の病室へ行って血圧測定をしたり、卵巣嚢腫術後患者のバイタルサイン測定とドレーン確認、点滴薬品確認といった準夜勤業務をこなしていったが、心の中ではウキウキと弾んでいた。日曜日に石家先生と飲みに行けることが嬉しくてたまらなかった。
準夜勤務がある程度落ち着き、私はこの日一緒に夜勤を担当していた助産師の高木さんと一緒に休憩室でテーブルをはさんで夕食を摂っていた。
「ねぇ丸田さ~ん。」
「はい。」
「なんかイイことあったの?」
高木さんが私の顔を覗き込みながら聞いてきた。
「えっ?」
私は高木さんのその発言にギョッとして軽くむせ込み、口の中に入れていたカップ麺が少しこぼれ出そうになった。
「そ、そうですか?」
「だってぇ~ずっとニヤニヤしているから。何かイイことあったのかなぁ~と思って。」
高木さんはパックのいちごミルクジュースをストローでチューチューと吸いながらニヤニヤした顔で言ってきた。私の胸はドキドキとまた鳴り出した。先生と二人で飲みに行くので嬉しいという思いをおばさんたちにバレるとマズい。「いやぁ~別に何もないですよ~。そんな嬉しそうに見えますか?」
わたしは笑顔ですっ呆けてみせた。
「うん。だっていつも仏頂面している丸田さんが今日は何だか嬉しそうにしているからさ~。」
「そうかなぁ……」
私は俯いてカップ麺を啜った。
「ねぇ、この間沼尻先生たちと飲みに行ったんだって?田島がね~飲みに行ったとき“丸田さんは石家先生に気がある感じだった”って言ってたよ。」
「えっ?そんな……」
(そんな……あいつ余計なこと言いやがって!)
私は、田島先輩が高木さんたちに余計なことを言いふらしていたことに少し腹が立った。確かに私は石家先生のことが好きだけど、あのとき田島先輩にははっきりと石家先生へ好意を抱いていることは言ってなかった。自分の心の内を悟られてしまうと厄介なことになってしまう。
「あぁ。あのときは田島先輩に誘われて先生たちと一緒に飲みに行ったけど、別に石家先生のことを好きだなんて言ってないんですけどね~。」
私は自分の気持ちを殺してほぼ棒読みのように言った。
「ふぅ~ん、そうなんだぁ~。でも石家先生も丸田さんもまだ若いからねぇ~。いいんじゃない?」
「えっ?」
「それにこの間の旅行でイイ感じになってたってみんな言ってたよ~。」
高木さんはニコニコしながら飲み終わったいちごジュースのパックを右手でギュッと握りつぶした。
「えっ?」
「だって石家先生から熱い抱擁を受けたんでしょ?みんなイイ感じだったって言ってたよ~。」
「そんなぁ~大袈裟な!そんな熱い抱擁と言うほどでもないですよ~。短かったし。」
私は軽くハハハと笑いながらペットボトルのウーロン茶を一口飲んだ。
「そうかぁ~?でもいいなぁ~!私も熱い抱擁を受けてみたいわぁ~!」
高木さんは両腕を交差して自分の体を包み、見えない誰かと抱擁しているようなジェスチャーをした。その光景を見て、私は残りのカップラーメンをすすりながら日曜日のことはおばさん達に絶対バレないようにしていこうと強く誓った。