たくさんの打ち合わせを経て、準備期間である三日はあっという間に過ぎていく。
 けれどヨハネス陛下の執務はまだ終わらない。

 ついには明日の朝が結婚式だというのに、夜眠る支度をする時までヨハネス陛下に会えずじまいだった。

「……ねぇ、ルネ? 明日、本当に陛下と結婚式を挙げるのよね、わたし……」
「本当に申し訳ありません……陛下ったら、本当に陛下ったら……!」

 侍女のルネも、最初はあれこれと慰めの言葉をくれていた。
 最早その言葉も見つからず、彼女もひたすら謝り倒すばかりだ。逆にこっちが申し訳なくなってくる。

「きっと、きっと結婚式の直前には一度顔を出していただけると思います! 多分……」

 この三日間ずっと笑顔を絶やさなかったルネも、流石に表情を曇らせていた。
 忙しいのは仕方がないとは思っていたけれど、わたしもここまでとは思っていなかった。

「ま、まぁ……大丈夫よ。ほら、姿絵でヨハネス様がどんな方なのかは知ってるし……一応……」

 不安はある。ないわけがない。
 たった一人でこの国に嫁いできて、あっけらかんとできるほどわたしも図太くはない。

 本音を言えば、これ以上ないくらいに心細い。
 ルネが側で励まし続けてくれているけれど、大好きなアリエスお姉様も、見知った城の侍女たちも、ここにはいないのだ。

「リリア様……」

 とうとうルネもかける言葉なくうなだれた時、コツコツと部屋の扉がノックされた。
 夜も深く、今更この部屋に訪れる人間はいないだろう。

「――リリア様、ここから動かないでください。こんな遅くに次期皇妃様を訪れてくるなんて……」

 途端に表情をこわばらせたルネが、そっと扉に近づいた。
 近くには警備の兵士たちも控えているのに、堂々と悪い人が乗り込んできたとも思えない。
 となると、王宮にいる他の侍女だろうか。

「は、はい――どなたですか?」

 緊迫した空気が流れる中で、ルネがそっと声をかける。
 すると、扉は外側からゆっくりと開かれた。

「は――」
「ルネ? どうしたの、ルネ?」

 動くなとは言われたが、ルネは物音ひとつ立てない。
 なにがあったのかと身を乗り出したわたしの視界には、まばゆい金髪が飛び込んでくる。

「……リリア」
「え、あっ……なんで、わたしの名前……」

 背が高い男性が、じっとこちらを見つめている。
 深い藍色の瞳は湖底のように静かで、見つめられているだけで窒息しそうになった。

「……余が、ヨハネス・ド・アルヴァンだ」
「え? ヨハネス――陛下?」
「いかにも」

 低く、けれどよく通り声で――ヨハネス陛下は自らの名前を告げた。
 鷹揚に頷く姿もまた様になる。絵画で描きあらわされた姿よりも、ずっと精悍で美しいひとだった。

「お前は……リリアで間違いないか?」
「は、はい……メルトワーズ王国から参りました、リリア・メルトワーズでございます……!」

 彼の言葉に、わたしは慌てて頭を下げた。
 よりにもよって、皇帝陛下に先に挨拶をさせてしまうなんて、失礼にもほどがある。

「名乗りもせず、非礼をお許しください。まさか皇帝陛下がいらっしゃると思わず……」
「いや、いい。非礼というなら、夜半に部屋を訪れた余の方が非礼だろう」

 落ち着いた声でそう告げたヨハネス陛下は、じっとわたしを見つめて動こうとしない。
 なにか言いたいことがあるのかと思ったけれど、待てど暮らせど彼から言葉はかけられなかった。

「陛下……?」
「顔を――見ていないと思ってな。健勝そうならなにより」

 そう言うと、彼はぱっと踵を返してまた扉の方に歩いて行ってしまった。
 ルネが口を開けたままヨハネス陛下のことを見つめているが、彼は特段それを気にしている様子もなかった。

「明日は早い。お前もよく休むように」

 そう告げて、皇帝陛下は部屋を出て行った。

「え、なに今の……」

 思わず――そう口走ってしまった。
 いや、あれは一体なんだったのか。すごいオーラだった。小動物くらいならいともたやすく仕留められそうだった。

「本当にわたしの……顔を見に来ただけ?」

 忙しいという話は聞いていたけれど、まさかこのタイミングで陛下がやってくるとは思わなかった。
 ぽかんとしながらお互いの顔を見合わせ、ルネと二人で首をかしげる。

 彼は、会いに来てくれたんだろうか。
 忙しい執務の合間を縫って、ただわたしの顔を見るためだけにここに来てくれたのだとしたら。

「……もしかして、ヨハネス陛下って意外といい人……?」

 ――と、思ったわたしが愚かだった。
 翌日、それはそれは盛大な結婚式が終わった後のわたしは、知る由もなかったのだ。

 この日からわたしは、およそ一年の間――夫婦として、ヨハネス陛下に放置され続けることを。