「いいか、リリア。お前はこの国の王族だ。民を守らねばならない……わかるな?」
「はい、お父様。……今ここで皇帝陛下のご不興を買えば、この国は来年の春を迎えることも難しいかもしれません。民のためにも、国のためにも……このお話、謹んで受けさせていただきます」

 わたしはお父様にそう告げると、一礼して部屋を出た。

「いや、無理無理無理」

 だが、扉を閉めた瞬間、わたしの口から飛び出したのはそんな言葉だった。

 だって、いきなり結婚なんて言われても心の準備なんてできるはずがない。
 しかも相手があの『黒血皇帝』――ヨハネス・ド・アルヴァンなんてそんな。なにかの間違い、いや悪夢とかじゃないんだろうか。

 そう思って思い切り頬をつねってみたけれど、とても痛かった。

 いきなりお父様に呼び出されただけでもなにかの間違いだと思ったのに、しかも結婚しろと命令され、相手が大国の皇帝。こんなことってあるだろうか。

「……いや、あるんだよなぁ」

 王女という立場上、いつかそういう話が持ちあがるという覚悟はあった。
 お父様はわたしのことを嫌っていても、どこかのタイミングで娘を国内外の王侯貴族に嫁がせるだろうとは思っていたのだ。
 
 執務室からとぼとぼと部屋に戻ってきたわたしは、控えていた侍女にそのことを話した。

「わたし、結婚が決まったの」
「あら、それはようございますね! お相手はどなたでしょう……軍人のメルツェデス伯爵閣下でしょうか。それともエリアス公爵閣下の御子息――」
「ヨハネス・ド・アルヴァン陛下よ」
「あらあら! ヨハネス陛下――え、ヨハネス陛下?」

 母の時代から使えてくれている侍女も、思わず目を見開いた。
 そして次の瞬間、侍女は真っ青な顔をしてガタガタ震え始めたのだ。

「そんな! よりにもよってヴァイルデンの黒血皇帝ですか!? へ、陛下は一体何をお考えに……ご自分の娘を、あの北海の怪物に差し出すだなんて……」

 震えあがった侍女は、そのまま跪いて神へ祈りを捧げだした。

 黒血皇帝――そんな恐ろしい二つ名を冠された隣国の皇帝陛下は、年齢が三十歳くらいの若い王様だった。

 まばゆい金髪を血に染め上げ、貪欲に領土の拡大を目指す戦争大好き激コワ皇帝などと呼ばれているヨハネス陛下は、実際即位してからの数年で周囲の小国をまとめ上げ、自らも戦場に立ってたくさんの戦績を上げているらしい。

 おかげで隣国はとても栄えているらしいが、周囲にあるウチのような小さな国はたまったものではない。

 皇帝陛下のご機嫌をうっかり損ねて国が地図から消えないよう、帝国からの要求はなんでも飲む。
 これが、わたしたち小さな国に生きる王族の中で暗黙のルールとなっていた。

「ま、まぁ……決まってしまったことなら仕方がないわ。結婚は女性王族の義務だもの」
「ですが――リリア様ではなく、ナターシャ第二王女様が嫁がれるという可能性はないのですか?」
「お父様に泣いて嫌だってお願いしたんですって。メイデン様からもお願いがあって……わたしが行くしかないみたい」

 山間部に住んでいる虎を素手で倒して焼いて食べたとか、伝説のドラゴンに一対一の決闘で勝ったとか、そういう恐ろしい噂話が尽きない人だ。
 単純に恐ろしいし、それこそ機嫌を損ねてわたしの首が胴体とサヨウナラ、なんてことも十分にありえる。

 けれど、お父様は言っていた。これはもう、決定事項だと。

 わたしは一年後、ヴァイルデン帝国に嫁ぐ。
 話が決まっているのなら、覚悟を決めなければならないだろう。

「……アリエスお姉様に会いに行っていいかしら。この件、わたしの口からご報告したいの」
「え、えぇ……アリエス様ですね。それでは、すぐにお伺いを立ててまいります」

 お願いすると、侍女は頭を下げて部屋を出ていった。
 わたしの部屋は、四人いる兄姉たちのそれと比較してもかなり狭い。王太子である長兄は宮殿を一つ与えられているけれど、それと比べるとまるで貧相だ。

「……この部屋とも、あと一年でお別れなのね」

 そんな部屋だけれど、居心地はとてもいい。
 壁一面に埋め込まれた書棚には、たくさんの本が並べられている。
 読書家だったお母様が実家から持ってきた本たちや、わたしが趣味で集めたもの――本の壁と言ってもいいほどのそれは、いつもわたしの心を癒してくれる。

「リリア様、アリエス第一王女様がぜひお部屋にとのことです」
「ありがとう。すぐに向かうわ」

 帝国には、本がたくさんあるだろうか。
 持っていった本がたまたまヨハネス陛下の不興を買って、断頭台の露に消えたりしないだろうか。
 そんなことになったら、幽霊になって帝国の一番大きな図書館に住みついてやろう。

 そんなことを考えながらアリエスお姉様の部屋に向かうと、すぐに悲鳴のような声が聞こえてきた。