「敵軍は盆地に逗留していると言ったな? 舞台は雪山……数の利がこちらになくとも、気候や地の利を活かして戦うことは十分に可能だ。そして、三百年前のカルドラ戦役では、実際にウォー・デルリッツ将軍が天候を逆手に取った奇襲作戦に成功している」

 淡々と、ヨハネス陛下はペンを走らせつつわたしに説明をしてくれた。
 兵を率いるうえでの専門的な用語や戦法は、実際の軍人の方に比べてそこまで詳しいわけではない。
 彼もそれをわかってくれているのか、説明する口調は非常に丁寧なものだった。

「山の天気というのは変わりやすいものだ。それに、盆地は降雪量が多い」
「そう、ですね。寒さも厳しくなることが多いとか」
「そうだ。故に……余が指揮を執るならば、敢えて雪深い日に軍を動かす。寡兵である方が、この場合は逆に統制がとりやすく無駄な動きをしなくていいからな」

 周囲を山に囲まれた盆地――それに攻め入るように、ヨハネス陛下が矢印を書き記した。
 
「戦力は二手に分ける。余が……もういい。私が指揮を執る方が、より少ない兵数だ」
「え……でも、陛下の御身をお守りするには、少ない兵士では……」
「私自身が最大の兵力であると仮定する。そして、相手は恐らく私の首を狙うために多くの人員を裂くだろう」

 人差し指を自分の首に当てたヨハネス陛下は、それをすっと横に引いた。
 ……彼の話を聞いていると、まるで自分が雪深い山奥にいて、刻々と移り変わる戦況を聞いているような気分だ。

「だが、それこそが私の狙いだ。それに、主人公……マルドゥクは剣の腕が非常に優れているのだろう? 剣歯虎相手に剣一本で渡り合った冒頭の描写は見事だった。それができる男なら、軽く見積もっても十分な戦力になるはずだ」
「あ、あれは……ビビアンの、知人をモデルにしたそうで……」
「そうだったのか。女史の知り合いには剣の熟達者が……」

 言えない。
 虎と一騎打ちして焼いて食ったとかいう陛下のトンデモエピソードを、そのまま物語に落とし込んだなんて言えない。
 言ったら最後、虎ではなくわたしが焼いて食われる気がした。

「……じゃあ、戦力が多い方で敵陣に攻め込むのですか?」
「あぁ。もちろん、熟練の指揮官は必要だろうが……私自身、まだそこまで物語を読めていない状況だ。ビビアン女史からしてみれば、無責任な発言になってしまうかもしれない」
「い、いえ。それは大丈夫です――この先のことをお話してもよろしいですか?」
「それはならぬ」

 ぴしゃりと、案外大きな声で。
 言葉を発した本人も、存外大きくなったその声に驚いたらしい。

「……すまん。驚かせたか」
「大丈夫、です。その――軍部に所属している兄も、声が大きい人でしたので」
「だが、夜分に出すような声の大きさではなかった。……怖かっただろう」

 そっと、わたしのものよりも大きな手のひらが伸びてきたのはその時だった。
 びくっ、と一瞬体が跳ねたが、ヨハネス陛下の手は存外と優しくわたしの耳に触れた。

「ぅ……」
「私は、この物語をもっと楽しみたい。冒頭を少し読んで、久方ぶりに物語を楽しいと思えた」

 手のひらが触れる部分が、どんどん温かく――いや、熱くなっていく。
 耳ばかりに熱が集まって、なんだか妙な気分だ。
 藍色の目にじっと見つめられていると、なんだか頭の中が真っ白になってしまう。

「皇妃。お前はこの――『冬の王と黎明の巫女』は、最後まで読んだのだろう? ビビアン女史と知己であり、原稿の内容を相談されているくらいなのだから」