文庫本かな?
読書が趣味である人間としては、何の本を読んでいるのか、少しだけ気になった。
黒い革のブックカバーがされていて、本の表紙は見えない。
じっと集中して読書しているお客様の邪魔になってはいけないので、私も仕事に集中することにした。
今お店にいる従業員は、私と薫おじさんのふたりしかいない。
平日の午前はあまりお客様も来ないし、パートで働いている幸絵さんも今日はお休み。
「深雪ちゃーん、ごめーん、新しいおしぼりくれるー?」
カウンター席に座っている常連客の田谷さんが、手をあげて私を見た。
田谷さんの席の前にはコップが倒れていて、水がこぼれている。
「水たまり作っちゃったー」
田谷さんはそう言って、帽子を浮かした。
72歳になる田谷さんはこの近くにお住まいのおじさんで、いつも気まぐれにひとりでホットコーヒーを飲みに来る。
時々奥さんとやって来てモーニングを食べていることもあるけれど。
今日はひとり、何かの雑誌を見ながらいつものホットコーヒーを飲んでいた。