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「エラ、足元に気をつけて」
「はい、ノア様」
美しいこの国の王子様、ノアに手を引かれて、学院内の園庭を歩く。
園庭には所々川が流れており、その周りには草花や木が生い茂っている。ここは本当に学院内なのだろうかといつ見ても思ってしまうほどの雄大な自然がここには広がっていた。
仕事の為に身分を偽って隣国へ来てもうすぐ半年。
今の私は自分の国のとある貴族であり、ここへは期間を決めずに留学へ来ている。
…のがまあ、仕事の為の表の事情で、本当は私の留学を機に、共に隣国へやって来た私の両親役がこの国の貴族や王族からいろいろな情報を探ることが目的だった。
自然な流れで欲しい情報を得る為に、こちらも貴族になっているのだ。
今回の私の仕事はほぼないと言ってもよかった。
同年代の子ども相手では特に知りたい情報も得られないからだ。
ただ大人しく、貴族らしく振る舞っておけばいいだけの仕事。つまらないが私が生きる裏社会は常に人が死ぬ世界でもある。これだけで報酬が貰えるのならこんなにもいい話はない。
「今日もエラは誰よりも美しいね」
「…っ、ノア様。恥ずかしいです」
「ふふ、恥ずかしがらないで、僕のエラ。ほらもっとエラの顔を見せて」
「…もう、ノア様、からかっていますね」
「何のことかな?」
甘い雰囲気で美しい庭園を美しいノアと歩き続ける。
私はノアに誘われていつものようにノアと共に庭園を散歩していた。
最初こそはノアのことなんて何とも思っていなかったし、常に望まれるように接してきた。
だが少しずつノアを知っていくうちにノアのことが好きになり私は人生で初めて恋に落ちてしまったのだ。
だからノアに愛を告白された時は仕事先だというのに迷わずノアの恋人になることを選んでしまった。
必ず別れが訪れる悲しい偽りの恋人に。
「君の国では宝石が特産物だったね。この美しい真珠のブローチも君の国のものだね。誰からの贈り物かな?」
「ええ。よくわかりましたね。ですがこれは誰かからの贈り物ではありませんわ」
何故そんなことを聞くのだろうかと疑問に思いながらも表情は一切崩さない。
自分の国の真珠であることは間違いないではないが、これは贈り物ではない。正しくはこの仕事の為にボスが用意した衣装の一つだ。
「それはよかった。僕以外の誰かからのものをこれからも身につけたらダメだよ?」
ふわりとノアが笑う。
恋人になって初めて知ったことだが、ノアにはよく意味のわからない独占欲というか、嫉妬心がある。
正直恋人になってもうすぐ2ヶ月になるが未だに何がノアの気に触ることなのかわからない部分も時々ある。
それでも私はノアを愛していたし、ノアに夢中だった。
この一時が永遠であればいいと何度も願った。
しかし現実というものは残酷なもので時間は確実に過ぎていき、留学という名の仕事も終え、私は隣国から自国へ帰国することになった。
つまりそれはノアとの永遠のお別れを意味していた。
「エラ。あちらに帰国しても毎日手紙を出すよ。週に一回は花束を。二週間に一度はエラに会いに行くから」
「…ありがとうございます、ノア様」
自国へいよいよ帰る日がやって来た。
ノアは私が乗る馬車の元までわざわざ私を見送り来て私に別れの挨拶を寂しげな笑顔を浮かべてしていた。
ノアは知らない。私が実は自国の貴族ではないということを。ノアが知っている私の全部は全て偽りだということを。
ノアが知っている私の住所も身分も何もかも。全てが偽り。ノアが唯一正しく知っているのは私の〝エラ〟と言う名前だけだ。
きっとここで別れればノアは本当の私を見つけることなどできないだろう。
だがそれでよかった。
ノアは王子様で私は元奴隷の裏社会の人間。
どう考えても、どう足掻いても身分が違いすぎる。本来ならこうやって話しかけられていること自体おかしいのだ。
ましてや恋人だなんてもってのほか。
私はノアの偽りの恋人だった。
全て、何もかもが偽りだった。
「ノア様」
「ん?どうしたの?」
「愛しております、心から」
だけどこの想いだけは本物だ。
私を真っ直ぐ見つめる美しいノアに私は微笑む。瞳から涙が溢れ出ないように堪えながら。
「…はは、嬉しいな。僕もエラを心から愛しているよ」
そんな私に優しくノアが笑う。
そしてそっと私の頬へ口づけをした。
あれから私とノアはもちろん一度も会うことはなかった。
生きる世界が違うのでそうなって当然だ。
5年前のあのまだ幼かったが本気で彼を愛していた当時の記憶は今思い出しても強烈で鮮明だ。
だがきっとあの頃のようにもう身を焦がす程ノアを愛していない。今だってノアの姿を見てしまったからたまたま思い出したに過ぎない。
それだけ長い時間が過ぎてしまったということだ。だからきっとノアも私と同じはずだ。
檻の中から無駄に煌びやかでどこか嘘っぽいオークション会場を見つめる。
「…」
全ての取り引きが終了したオークション会場内はそれでも熱冷めやらぬといった感じでまだまだ人々の帰る気配はない。
あちこちで今日の収穫についてや今日のオークションとは関係ないような会食や仕事の話がされている。
私の仕事はもう終わった。この国の王子、ノアの元に運ばれる前にさっさとここから逃げなければならない。
高値で落としてくれたのにごめんなさいね。
本当はノアに久しぶりに会ってみたい気持ちもある。だがそれでもあくまで私は今仕事中。ここでなるべく大きな騒ぎにならないようにカルマに帰って情報を渡すことが最優先だ。
頭の中でそんなことを考えていると数人のオークションスタッフが私の檻の側までやって来て私を檻ごとステージの袖に運び始めた。
「…」
最後に一目だけもうこんなイレギュラーがない限り出会わないであろう王子様をこの目に焼き付けておこう。
そう思い客席内のノアが座っていた場所に視線を向ける。
あれ?いない?
だがそこには彼の姿はもうなかった。
ああ、もう一度だけ最後にノアの姿を見たかったのだが残念だ。
「エラ」
「…っ」
舞台袖でノアが昔のように私の名前を呼ぶ。
あまりにも予想外の場所からいきなりノアに呼ばれたので、私はただただ驚いて固まった。
先程まで客席に座っていたはずなのにもうここまで移動してきたのか?
そもそもここは関係者のみが出入りを許されている場所であり、客であるノアはここへは入れないはずなのだが。
「どうです?近くで見ればますますその美しさが際立つでしょう。エラと名付けられたのですか?」
「…彼女には名前がないのですか?」
「ええ。彼女はうちの商品ですのでそのようなものはございません」
「…そうですか」
私の目の前でオークションのオーナーである中年の身なりのいい男とノアが私について話をしている。
私はそれをただ黙って見つめていた。
「…エラ」
またノアが私の名前を呼ぶ。
昔と同じように優しい笑顔。だが何故だろうか彼の瞳はどこか仄暗い。
「ねぇエラ。何故君がここにいるのかはわからない。だけど君を買ったのは僕だ。君はもう僕だけのものだ」
檻の外からノアが私の頬に優しく触れる。
「会いたかったよ、エラ。もう二度と逃がさないからね」
そしてノアは私に微笑んだ。
だがその目には一切の光がなかった。
ノアも私と同じだと思っていた。
しかしどうやらそうではないようだった。
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結論から言うとまず逃げられなかった。
ノアの手によって檻から出されてすぐにノアは私の腰に手を回して絶対に自分の身から離さないようにおそらく馬車の方へと歩き始めた。
さらにノアの周りは仮面を付けて素性を隠しているとはいえ王子様なので、まさに虫1匹たりとも逃がさないと言った数の護衛が配置されており、まるで逃げる隙がない。
事を大きくすることはもちろん仕事上望まれないことなので仕方なく私はノアについて行くことにした。
ノアはまだ私を愛してくれているのだろうか。
それとも黙って姿を消した、自分を騙していた私を愛していたが故に憎んでいるのだろうか。
可愛さ余って憎さ百倍というやつで。
とりあえずまずは私がノアの知っている貴族〝エラ〟ではないということを伝えることから始めよう。
ノアが愛した女ではない、と。
「…あの」
「…ん?」
「さっきオーナーが私の名前はないって言っていたけど本当はあるの」
私の腰に手を回して歩き続けるノアの顔を覗き込んでおずおずと声をかける。
まずは貴族の〝エラ〟との違いとしてノアに敬語を使わない。
「私の名前はオフィーリアっていうの」
そして全く似ても似つかない名前を名乗ってみた。
今の私は貴族をしていた〝エラ〟と見た目も随分違う。もしかしたらこの時点で他人の空にだと思ってくれるかもしれない。
「…オフィーリア。それが君の本当の名前なの?エラ」
「うん」
「そう。僕のエラはね、嘘をつく時に一瞬だけだけど左側を見るんだ。今見ていたでしょ?」
「…」
あの頃と何も変わらず美しく微笑むノアに表面上は笑顔だが冷や汗をかく。
まさか自分にそんな癖があったとは知らなかった。つまりノアに嘘がバレた可能性が高い。
「…嘘なんだね」
私の様子をしばらく黙って見つめた後ノアは有無を言わさない圧を笑顔で私にかけてきた。
これに関してはもう逃げ場はないようだ。
「…そうだよ。本当はクロエっていうの」
なので自分でも往生際が悪いと思ったが今度は違う名前を名乗った。
「…」
ノアが感情の読めない笑顔を私に向ける。
だが目が確実に笑っていないことだけはわかる。
目の前の馬車の扉が護衛によって開かれる。
すると私はその馬車にノアによって乱暴に押し入れられた。
「エラ。君の嘘にはもう騙されないよ。さっきも言ったけど僕は君を買ったんだ。君はもう僕のものだからね。それだけはちゃんと自覚して」
仄暗い笑みを浮かべてノアが馬車に後から入ってくる。
どこか歪んだ感情が表に出ている気がするノアを見て私は悟った。
多分ノアを騙すことなんてできないし、逃げられない、と。