複雑な感情が一気にやってきて、彩響は目をぎゅっと閉じた。母の叫び声や、気持ち悪いセクハラの誘いとか、全部耳の奥でガンガンと響く。でも、一瞬ぱっと目を開け、深く深呼吸をした。

(決めるのは…私だ)

そして、すぐノートをぱっと開いた。

インクが滲み、もう何を書いておいたのかもわからない、ひどい状況のページを捲りながら、彩響は頑張って涙を堪えた。これだけ自分は頑張ってきたんだ、これだけ自分は熱情を胸に隠してきたんだ…そんなことを改めて実感すると、悲しくて耐えられない。ゆっくりとページを全部捲り、最後に到達すると、なにか違和感のある落書きが見えた。これは、自分の書体じゃない。

(これは…)

多少雑だけど、誠実に見える文字。その文字は、こう書かれてあった。

ー「なりたい自分に、近づいている?」

誰が書いたのか、一目で分かった。そしてその瞬間、目から涙が止まらなくなってしまった。こぼれ落ちる涙を拭くことも考えられず、彩響はノートを胸に抱いた。

(なりたい自分、なりたい自分…)

一生かけて、この質問の答えを探し求めてきた。そしてやっと、今この瞬間、その質問の答えを探し出した気がする。嬉しくて、そして切なくて…。いろんな感情が混じったまま、彩響はしばらく泣いた。

いつの間に眠ってしまったのか、気がついたらもう朝日が昇っていた。ベッドの上で目を開けた彩響は、ノートを抱いたまま浴室に向かった。洗面台の前に立つと、凄い顔の自分が見えた。それでも、不思議とその顔が嫌だと思えなかった。いつかのように、彩響は鏡の中の自分をに向かって声をかけた。

「私は、美しい」

改めていうと、不思議と本当にそう思えてきた。彩響は再び声を出した。

「私は、美しい」

「私は、美しい」

そして最後、わざと大きい声で叫んだ。

「私は、なりたい自分に、なれる!」



相変わらず嵐のような職場で、キーボードを激しく叩く音が響く。彩響が2つあるモニターでキョロキョロ目を動かすと、佐藤くんが駆けつけてきた。いつもの風景なので特に珍しいこともなく、彩響が質問する。

「どうしたの、佐藤くん?」

「しゅ、しゅ、主任!!名刺発注するとき紙の設定を間違っちゃたっす…!」

「あ、それ昨夜変更しておいたから大丈夫だよ。slack送っておいたけど見てない?」

「あ…じゃあサイズ指定ミスったのも…」