指定された場所はホテルの1階にある喫茶店だった。そわそわした気持ちでテーブルで待っていると、スーツを着た中年男性がこっちへ近づいてきた。お腹が出て、頭も半分くらい禿げている、街で普通に会えそうな外見の人だった。


「峯野さん?」

「あ、はい!黒川さん、ですか?」

「そう、会えて嬉しいね。こんな若くてきれいな女性だとは」

「え?ああ、いいえ…」


一瞬彼の言葉から違和感を感じたが、気になったけどとりあえず触れないことにした。今はそれより、本題に集中したい。テーブルに座った黒川さんは飲み物を注文し、さっそく話し始めた。


「電話でも話したけど、今回峯野さんが応募した作品がとても好評でね。私もページを捲るたびにハマったよ。とてもいい作品だった」

「ありがとうございます。とても嬉しいです。まさかデビューできるなんて、本当に嬉しいです。小さい頃からの夢だったんです」

「はは、それはよかった。なら、今日は俺がその夢を叶えてあげよう」

「え?ええ…」

「一つの作品を本として出すのはとても大変なことでね。もし失敗したらその損害はすべて出版社が負担しなきゃいけなくて。でも、安心してくれ。峯野ちゃんの本は、俺が責任をとって世界に出してあげるよ。こんな美人作家が出てきたら、きっと世間も喜ぶだろ」

(…峯野「ちゃん」?)


なんだか嫌な予感がする。なぜいきなり'ちゃん'付けになったのか、いや、そもそも、作家と出版の話をするための打ち合わせなのに、どうしてため口を利くのか、よく分からない。年上だからとか、編集長の立場だからとか、そういう問題ではないと思うのに…?

(…?!)

テーブルの下で、変な感覚が足に触った。彩響が驚いて身を引くと、今回は靴を脱いだ足でストッキングの上を撫でてきた。触れられた部分から鳥肌が全身に広がる。


「この際だから素直になってもいいかな、峯野ちゃん?」

「え?」

「俺が君を助けてあげよう。俺がその気になれば、君は今年のスターになれる。しかし、それは君次第だ」

「…私次第?」


気持ち悪い足がどんどん上に上がり、スカートの中まで入ってきた。これ以上は耐えられず、彩響は完全に体を後ろに引いた。


「黒川さん、これはどういうことですか?意味が分かりません」

「分からないはずないだろ、いい歳して」


もう相手は自分の気持を隠すつもりはない様だった。黒川はポケットからカードキーを出し、テーブルの上に載せた。一目でそのカードがこのホテルのものだと分かった。


「…私に、あなたと寝て欲しいと言ってるんですか?」

「そうだね、この本で成功したいんだろ?俺はこの業界の大手なんだ。どの作家が成功して、どの作家が成功しないか…」


気持ち悪い微笑みが彼の顔に浮かぶ。黒川は彩響の手に自分の手を重ね、ニッコリと笑った。


「…それは全部この手で決まる」

(うそ、うそ、うそ…!)

目の前が真っ暗になる。ガンガン響く心臓の音がうるさい。今この瞬間、彩響はすぐに消えそうな意識を必死で繋ぎ止めた。

(これが出版業界の仕組みなの…?!)