その日は用事があり、この周辺まで二人で出て、そしてこの本屋に入った。普段は自分が作っている雑誌のリサーチで来ることがほとんどだが…今日は普通に小説コーナーをウロウロする。そして目に入った本を一冊手に取った。


「『嵐が丘』…これ、私の一番好きな本。昔はこれ、違う出版社のやつ全部揃えたくて、でもお金がなかったから我慢してたんだ」

「俺、本全く詳しくないけど、あんたがすげー本好きなのは分かる。いい笑顔しているからな」


成の言葉になんだか恥ずかしくなり、彩響は視線をそらす。彩響の反応を見て成もニッコリ笑い、本棚を軽く触れた。


「いつかはあんたの本もここに並ぶようになって、女の子がここに来て、こう言うんだ。『私、峯野彩響さんの本好き!』」

「なにそれ、なんの妄想?」

「なんで?妄想だと決めつけるなよ。想像するだけだから、あんたも想像してみなよ」


言われた通り、彩響も本棚に自分の名前が見える日々を想像する。そんな日がくるわけないけど、そう、想像は自由だから。表紙はシンプルで、文字のフォントは見やすく、でも独特なもので…想像が具体的になると、自然に微笑みがにじむ。

「いつかはそういう日が来るよ、彩響。未来は誰も知らないものだから、今できるはずがないと断言するな。あんたならできるよ、きっと」



(あいつは、どうしてあんなに根拠もなくポジティブになれるんだろ…。幼少の頃にスーパーポジティブの実でも食べているんだろうか…)

成のおかげで、少しは明るい気分になれたのは事実だった。しかし、どう考えても自分がそう簡単に本を出せるとは思えない。

持っていた本を本棚に返し、長くため息をつくと、誰かが自分の肩を軽く叩くのを感じた。驚いて振り向くと、そこにはMr. Pinkが立っていた。


「ハニー、君だと思ったよ。偶然だね」

「Mr. Pink…ご無沙汰しております」


Mr. Pinkは彩響が戻した本を取って、内容を確認する。彼も作家を知っているようだった。


「本木健氏の新作か。彼の本は私も読んでいるよ。これ、買うのかい?」

「いいえ、これは又今度…今は手元になにも持ってないので…」

「おかしいね。財布も、携帯も、鍵もない。どうして?」

「それは…ちょっと急いでいて…」


どう説明すれば良いのか分からず、戸惑う。空気を読んだMr. Pinkが先に質問してくれた。


「急いで、何かから逃げたのかな?」