母に気付かれないように、こっそり浴室の方を見る。ありがたく、向こうはとても静かで、人のいる気配などしなかった。中で息を殺している人に感謝する同時に、今この会話が聞かれていないか、心配になった。なるべく知られたくない内容だったから。
「武宏のどこが不満だったの?顔も悪くないし、背も高かったし、職も持っていたのに、なにが足りなかったの?」
「…あいつは心がブスだったのです。そしてお母さん、何度も言いますが、私が振ったんです」
「結果別れたなら誰が先に振ったのかは関係ないわ。それに、心?はあ、これだから最近の女子は。結婚は現実よ、現実。あんたのように気が強くて、こうして母に口答えしてくる女を、一体誰が好んでくれるというの?いつも仕事仕事で、女としての基本もできてないのに?」
(あれだけお金を稼げって言った人は一体どこへ消えたの?)
「じゃあお母さんは、私がずっと無視されて、奴隷のような扱いされて、そんな結婚生活をしてもよかったってことですか?」
「あんたがきちんとしていればそんな扱いされないでしょう。それに、もしそうなっても、結婚できずずっと一人でいるよりマシよ」
じゃあお母さんはなぜ父と離婚したんですか?どうして自分が家庭をきちんと守れなかっただけのに、私にその八つ当たりをしていたんですか?ーこんな言葉が喉まで上がってくる。彩響はお茶を一気に飲み込み、すぐにでも爆発しそうな言葉を喉の奥へ入れなおした。「あなたも離婚したくせに」という発言は、母の前では禁忌の言葉だった。どれだけ悔しくても、どれだけブチ切れても。
「あんたももう30越えているでしょう。バツイチよりはまあマシだけど、あんたも商品価値がどんどんなくなるわよ。早く相手探しなさい」
「……」
「私の言うことが聞こえないの?彩響!」
「…ちょっと、トイレ行ってきます」
そう言って、彩響はまずそこから一旦離れた。マシンガンのように耳に痛い言葉をぶちまけられ、もうなにもかも嫌になった。冷たい水で顔を洗い、鏡を見ると、そこには今すぐにでも死にそうな人がいた。
(うわ、酷い顔だな…)
もうこれ以上相手をしたくない。浴室に隠れている彼のためにも、早く帰そう。そう思って彩響はキッチンへ戻った。適当に、なにか急な仕事でも入った、それくらいの言い訳を作ろう、そうすると帰るだろう。ーしかしその計画は、母が手に取っていたものーTresure Noteを見た瞬間、全部忘れてしまった。
母が質問する。
「これ、なに?」