母。それはこの世で最も近い存在であり、同時に最も遠い存在でもある。彩響にとって、母はいつだって気まずい、どこかぎこちなさを覚えさせる、そういう人だった。自分を生んで育ててくれた人には間違いないが、どうしても同じ空間に一緒にいたくない、そういう存在。
「お母さん、どうしたんですか、連絡もなしに」
「なに言ってるの?自分の娘の家に来るのに、一々許可取る必要あるの?」
そうだ、いつもこんな感じだ。決して自分を独立した成人女性として認めない。いつになっても、自分の支配下で、自分の所有物のように思う。喧嘩になるのが嫌で、自分を一人で育てるのにどれだけ苦労したのか知っていたから、なるべく反発しないようにはしているが…。今日は母の言葉すべてが無性に気に障る。
(適当に相手して早く帰そう。なにを言っても無視だ、無視)
「なんだ、珍しく家が綺麗じゃない。どういう風の吹き回し?」
母に言われた通り、リビングは綺麗に片付いていて、どこもピカピカだった。もちろん、それはすべて家政夫を雇った結果だが…それは言えない。男の入居家政夫なんて、知られたらなに言われるか、想像するだけで心臓がドキドキする。彩響はあえて話題を変えた。
「最近ちょっと掃除頑張っていて…」
「全く、普段からこんなに綺麗にしていたら、武宏に振られることもなかったんだろうに。本当にあんたってバカだよね。今更こんなことしても後の祭りなのに」
「……」
「あんた、母親が来たのにお茶も出さないの?全く、本当気が利かない子ね。だから振られるのよ」
お茶どころか、今すぐあの口になにか突っ込んで追い出したい。でも今回も彩響はただ黙って、なにも言わずお茶を入れた。ここで何かを言ったら、又「あんたは娘のくせに母親に口答えをするのか」と言われ、さらに聞きたくないことを聞かされるに間違いない。お茶を持っていくと、母が一口飲み込んでそのまま湯飲みを食卓へ下ろした。
「まずい」
「……」
「あんた、最近どうしてるの?全く連絡もないし。ローンはきちんと返してる?」
「仕事で忙しいだけです。ローンもきちんと返してます」
「こんな広い家まで買っておいて、結婚をそんな簡単にやめる?私、あなたがなにを考えているのか全く分からないわ。本当にあなた、私の娘なの?」
(自分で生んで自分で育てで、そんなこと言う?)