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自宅に帰って玄関を開けた途端、お母さんが仁王立ちをしていた。
「た、ただいま」
お母さんの威圧的な雰囲気に圧倒されつつ言うと「今日、先生から連絡が来たわよ。途中からいなくなったって」と、早口で言われてしまった。
しまったと顔をしかめても、もう遅い。
途中で授業を抜け出して戻ってこなかったミハルを、先生も心配したんだろう。
「ちょっと、お腹が痛かったの」
「それならどうして保健室に行ったり、早退したりしなかったの?」
そう言われて黙り込む。
本当のことなんて言えるわけがなかった。
「ちゃんと答えなさい!」
怒鳴られて、肩がビクリと跳ね上がった。
同時に悔しさを感じて下唇を噛む。
夢の中ではお母さんだって私の味方だったのに。
だけど現実ではこんな風に怒られてしまう。
だから嫌なんだ。
ミハルはなにも答えないまま、お母さんの隣をすり抜けて階段を駆け上がっていったのだった。
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自室に入って鍵をかけても、廊下からお母さんの声が聞こえてくる。
怒っているし、呆れていもいる声色だ。
ミハルは布団の中に潜り込んで両耳を塞いだ。
もうなにも聞きたくない。
もうなにも見たくない。
現実なんてもうたくさん!
みんなみんな、夢みたいに消えてなくなっちゃえばいいんだ!
怒りに任せてテーブルの上の瓶を握りしめた。
キャンディーはまだまだ沢山残っている。
老婆は1日1個だと言ったけれど、そんなことかまっていられなかった。
蓋を開けるとキャンディーの瓶を逆さまにしてそのまま口の中にザラザラと放り込む。
マスカットにイチゴにオレンジにメロン。
いろいろな味が混ざりあって、頬はとろけそうなほど美味しい。
しかしその美味しさを味わう暇もない速さで眠気を感じた。
ベッドに向かうこともできず、その場に崩れ落ちる。
夢の中にひきずりこまれていく寸前、もう二度と、現実なんかに戻ってこないんだから。
と、ミハルは呟いたのだった。
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ミハルはトリマーになっていた。
お客さんが連れてくる可愛い犬の毛を狩り、サッパリさせてあげるお仕事だ。
犬は高いところが苦手で大人しくなるので、作業台はミハルの腰より少し高いくらいの位置にある。
それからミハルは警察官にもなった。
制服を着て街の中を巡回していると、「ひったくり!」という女性の声が聞こえてきて走り出す。
80代近い女性は必死で犯人が逃げた方向を指差していた。
「おばあさん安心してください、私が取り戻してきますから!」
ミハルはおばあさんへ向けて声をかけると、犯人が逃げた方へ駆け出した。
そこは広い公園で、休日の今日は沢山の人でごった返している。
カップルや家族連れを避けながら走ると前方に逃げていく黒い服の男を見つけた。
その手には紫色のカバンが握りしめられている。
あいつだ!
ミハルは更に速度をあげて走り出す。
日頃鍛えていつだけあって、簡単に犯人に追いつくことができた。
「エイヤッ!」
掛け声を共に犯人にタックルする。
体のバランスを崩して倒れ込んだ犯人の背中にまたがり、腕を捻りあげた。
「いててててっ」
情けない声を上げる犯人に手錠をかけると、周囲から拍手と歓声が湧き上がった。
ミハルはにこにこと笑顔でそれに答え、犯人が奪った紫色のバッグを拾い上げた。
それからもちろん、パティシエにもなった。
夢の中のミハルは3店舗めの『MIHARU』を開店していて、弟子の数は数十人を超えていた。
その弟子たちに美味しいケーキの作り方を教える。
一番弟子だった男性は今は立派に独立していて、暖簾分けした『MIHARU』で働いている。
それから女料理人にもなった。
綺麗で、だけど敷居は低い和食料理店で、男性でも満足できるように量も選べるようになっている。
子供連れの人でも入って来やすいように、キッズスペースを設けた。
静かに食べたい人は2階で、にぎやかな宴会などを兼ねている人は1階で。
そのやり方はダイヒットしてみるみる内にお店は繁盛し始めた。
ミハルは厨房の中でひっきりなしに動き回っていた。
モデルになったミハルはスラリと背が高くてスタイルが良く、どんな衣装でも似合った。
新作のミニスカートだって臆すること無く着ることができる。
街を歩けば「ミハルさんですか?」と声をかけられて、サインをする機会も増えてきた。
有名なファションショーにも呼ばれ、雑誌の表紙は6ヶ月連続でミハルが担当した。
「すごいわミハルちゃん。この調子で頑張ってね」
雑誌の編集長はミハルが来るととてもご機嫌で、終始にこにこしている。
「はぁい」
ミハルは元気に返事をして、仕事へ向かうのだった。
☆☆☆
長い廊下の途中、ミハルが眠る病室の前で両親と医師の姿があった。
「ミハルさんは特に悪いところはないようです。ただ、ずっと眠り続けているだけですね」
医師の言葉に両親は顔を見合わせた。
その顔は数日前に比べるとすっかり老け込んでしまっていた。
それもこれも、ミハルが大量にキャンディーを食べて、眠り続けているのが原因だった。
あの日の夜、晩御飯ができても下りてこないミハルを部屋まで迎えに行った時、お母さんが眠っているミハルに気がついた。
声をかけても、頬を軽く叩いても、ミハルは全く起きなかった。
それからお父さんが病院へ連れてきたけれど、やはりミハルは1度も目を覚まさない。
「脳に異常などはないんでしょうか?」
ミハルの脳に異常があるから眠り続けているのだと思っていたお父さんが、医師に質問した。
「いえ、脳に異常はありません。ただ普通に睡眠を取っているだけのようです」
「そんな……」
それでもミハルがこれほど長く眠り続けていることなんてなかった。
医師も病気ではないからこれ以上できることはなかった。
ただ点滴で、栄養を入れていくだけだ。
「とにかく、しばらく入院して様子を見ましょう」
医師はそう言うと、両親に頭を下げて自分の仕事へ戻っていった。
両親は大野ミハルと書かれた病室に入り、ベッドで横になっているミハルの手を握りしめた。
それでもミハルは夢を見続けている……。
夢の中のミハルはトリマーだった。
今日も大好きな犬の毛を刈っていく。
「店長、お客様からお電話です」
「じゃあ変わってくれる?」
従業員に仕事を代わってもらって電話を手にした。
「お電話変わりました。オーナーの大野でございます」
電話での丁寧な受け答えも慣れたものだ。
次の予約だと思って手元のメモ用紙を引き寄せたそのとき、ミハルの耳につんざくような女性の声が聞こえてきた。
『ちょっと! あんたのところはどういう毛の狩り方してんのよ!!』
突然聞こえてきた金切り声に受話器を耳から遠ざける。
「どうかいたしましたか?」
『うちのトイプードルのラブちゃんを丸裸にしたでしょう!』
トイプードルのラブちゃん?
あぁ、昨日私が担当した犬だ。
毛を狩る前に飼い主さんとは事前に話をして、足やしっぽに毛を残す必要はないと言われたはずだ。
「ですがお客様、それはお客様のご要望で……」
『なによ、こっちが悪いって言うの!? もう良いわ、あなたがやったことはちゃんと口コミ情報に書かせてもらいますからね!』
女性は一方的に電話を切ってしまった。
その後ミハルが何度声をかけても返事はなく、仕方なく受話器を置いたのだった。
夢の中のミハルは今度はパティシエになっていた。
「大野さん、見てくださいこれ!」
弟子である女性がミハルに賞状を見せてきた。
それは全国ケーキ選手権の最優秀賞と書かれている。
「すごいじゃない! いつの間にコンテストに出たの?」
「えへへ。コンテストに参加すること、黙っていてごめんなさい。でも自身がなくて、言えなかったんです」
「そうだったの。私もそのコンテストで最優秀賞をもらって、ここまで来たのよ」
嬉しそうに言うミハルに女性は真剣な表情になった。
「これからは、私も本気でミハルさんを追い越しに行きますから」
その言葉にミハルの心臓がドクンッと跳ねた。
弟子を取るということは、ここをいつか卒業していくと行くことだ。
わかっていたはずなのにかすかに焦りを感じた。
「もちろんよ。楽しみにしているわね」
ミハルは精一杯の笑顔を浮かべて、そう答えたのだった。
夢の中でミハルはモデルになっていた。
スラリと長い手足が出る衣装を着ている。
「いいねミハルちゃん! 可愛い! 最高だ!」
カメラマンさんが気持ちのいい言葉を投げてくれて、ミハルはどんどんポーズを決めていく。
こんなに気持ちよくなれる職業、他にはないわね。
10分の休憩時間に差し入れのチョコレートを食べる。
その時マネージャーの女性が気まずそうな表情で近づいてきた。
「ミハルちゃん。あんまり沢山食べないでね? 次は水着撮影もあるから」
「あぁ。そうだっけ?」
言いながらミハルは2個めのチョコレートを口に放り込む。
「チョコレートを食べるなら、お昼のお弁当はやめておいてね」
「えぇ!? お弁当食べちゃダメなの?」
ミハルは不服そうにマネージャーを睨みつける。
「これを見て」
そう言って見せられたのはさっき撮影したばかりの写真だった。
写真の中のミハルは美しくて可愛らしくて、自分でも惚れ惚れしてしまう。
でも気になる箇所があった。
タイトなスカートを履いての撮影だったのだけれど、下っ腹がふっくらしているのだ。
ミハルは慌てて自分の腹部へ視線を向けた。
気が付かなかったけれど、ちょっと太ってしまったかもしれない。
「わかった。お弁当は我慢する」
ミハルは大きなため息を吐き出してそう言ったのだった。