「ごめんなさい…。」

そう言ったつばきの声は、泣いている。

「ごめんなさい。私だってずっと一緒に居たのに、なんで自分は特別に選ばれないんだろうって思ったら感情がグチャグチャになっちゃったの。やっていいことと悪いことが分かってないわけじゃないんだよ。でも…自分を止められなかった。一人になることが怖くて…悔しくて…。」

震えるつばきの声が、荒んでいた俺の気持ちをシン、とさせた。

「つばき。本当に反省してるか?俺はお前がカンナにしたことや、俺の前で見せた態度とか言葉を綺麗に忘れたり、全部をすぐに許すことは出来ないと思う。それでもお前がまた三人で一緒に居たいって思ってくれるのなら、俺達だってつばきと一緒に居たいよ。」

カンナが俺の言葉に頷いて、つばきは俺を見て目元を拭った。辺りは暗い。雑木林の向こうでチラチラと見えていた灯りも、今はほとんどが消えている。つばきの涙は見えなかった。

「私、二人が居ないなんて嫌だよ。許してくれなくてもいい。私がやってしまったことはもう取り消せないから。」

「つばきが私達と一緒に居たいって思ってくれてる気持ちだけでいいんだよ。その気持ちだけで、私達は絶対、元に戻れるから。」

カンナが同意を求める様に俺を見た。俺も頷いて応えて、「我が儘も減らせよ。」って、つばきに笑いかけた。つばきはまた泣いているのか俯いたまま「我が儘なんて言ってないもん。」と呟いた。

「あー。良かった。つばきとちゃんと話せて。このまま夏休みが終わってたらと思うと…、考えたくないね。」

カンナが船着場で小さい波に揺れる船を見ながら背伸びをして、ふっと肩の力を抜くみたいな仕草をした。

「ごめんね、カンナちゃん。もうカンナちゃんが悩まなくていいようにちゃんとするから。」

そう言って、つばきは金魚の入っている袋を海の方に掲げた。少しだけの、雑木林の向こうの灯りがキラキラと金魚を、ほんの少し照らした。

「綺麗だね。」

三匹の泳ぐ金魚を見てつばきが言う。カンナが頷く。そんな二人を、俺はそっと見つめていた。
ピン…ポーン…

間延びした様なインターホンの音が、リビングに鳴った。父さんは今日も朝から仕事だし、母さんは昨日の夏祭りの片付けが少し残っているからと、昼前に家を出ていた。
宿題をしようかとリビングまで持ってきていた作文用紙と、あの日カンナと行った図書館でそのまま借りてきていた小説。もう少しで読み終えるところにインターホンが鳴って、珍しく集中していた俺の脳みそが、一気に現実に引き戻された。

玄関に行く前に、リビングの出窓から外を見る。玄関の前につばきが立っている。つばきは制服を着ていた。赤いリボンは結んでいない。手に透明な箱の様な物を持っている。中に濁った何かが入っている様に見えるけれど、つばきが両手で抱えているし、角度的にあまり見えない。
なんで制服でそんな物を持っているのだろう。

不思議に思いながら、玄関まで行ってドアを開けた。

「遅いよ。」

俺と顔を合わせる時、つばきは大抵不貞腐れている。自分だって家から出てくる時は遅いくせに。遊びの時は誰よりも早いけれど。

「何で制服?」

用件を訊くより先に、制服を着ているワケを訊いた。結局それが、用件に繋がるんだけど。

「お葬式だから。」

つばきは真顔で言った。

「お葬式?」

「そう。喪服なんて持ってないから、制服にしたの。ちゃんと色物は外したよ。」

そう言ってつばきは胸の辺りをトン、と指した。それで赤いリボンは結んでいないのか、と変なところで納得してしまった。

そんなことより、この田舎町は、お葬式があるならほとんどの町民はそれを知っている。つばきが参加する様なお葬式なら、うちの親だってカンナの親だって参加するだろうし、俺も知っていたはずだ。でも、誰も知らない。

「誰の?」

訊いた俺の目の前に、つばきは持っていた透明の箱を持ってきた。アクリル製の箱みたいだった。蓋は無い。中に水が入っていて、砂みたいな色に濁っている。その中にチラッと見えた、赤い色。
金魚だ。
「金魚…?」

ベージュっぽい色の濁った水の中に、背泳ぎみたいにひっくり返っていたり、横に倒れて浮かんでいる。泳いでいるんじゃない。死んでいるんだと、誰が見ても一瞬で分かる状態だった。

アクリル製のケースから、視線をつばきに移した。つばきはケースの中の金魚を見たまま言った。

「酸素、足りなくなっちゃったんだね。一晩で死んじゃうなんて。あっけないね。」

つばきの表情に、悲しみは感じられない。起こった事実を淡々と口にしているだけだ。

「このケースに入れ替えただけで放置してたのか?」

「放置なんてしてないよ。ずーっと見守ってた。このケースだって小さいけど、ビニールの袋よりは喜んで泳いでたよ。私達には出来ないくらい、綺麗に。なのに、時間が経つごとに元気無くなっていっちゃったの。お腹空いてるのかなって思って餌だってあげたのに。」

「餌?昨日、餌なんて買ってたっけ。」

「ううん。なーんにも無かったから、それっぽい物刻んで入れてあげたんだぁ。」

淡々と口にするつばきの喋り方は、一晩で金魚が死んでしまったことを告げるには似つかわしくない。死に対する感情が欠落してしまったみたいな声色だった。

「それって…、これか?」

俺は濁った水を指差した。つばきはコクンと頷いた。

「何、これ。」

「カンナ。」

「は?」

「もう忘れちゃったの?とーか君が受け取ってくれなかった、カンナの球根だよ。」

一瞬、思考が停止しそうになった脳みそを奮い立たせる様に頭を振った。

「何てことしてんだよ!生物が食べるもんじゃないし、カンナの球根には毒があるんだぞ!何でそんなこと…。」

怒鳴る様に言った俺に、つばきは顔色一つ変えなかった。それどころか俺を非難する様な目で見て、言った。

「とーか君が貰ってくれなかったからじゃない。ねぇ、とーか君だって思ったでしょう?この三匹は私達みたいだなって。だから私、とーか君が貰ってくれなかったカンナは、この子達にあげようと思ったんだよ。なのに…ちょっと眠ってる間に死んじゃってた。」

つばきがちゃぷん、とケースに左手を入れて、手のひらに一匹の金魚をそっと乗せた。

「せっかく泳げてたのに、たった一日で溺れちゃったね。」

他の二匹は水の中に浮かんだままで、静止画の様に俺の目に映った。
何もかもが止まってしまった中で、つばきの髪の毛だけが風に揺れて、その真っ黒の長い髪の毛と、赤い金魚だけが俺の視界に散らついた。
「酸素だって送ってないだろ。」

絞り出した俺の声は掠れていた。

「酸素?」

初めて聞く言葉みたいに、不思議そうなつばきの声が静かに、けれどその声だけが脳内で鳴っている。

「このケースに入れただけで、酸素なんて与えてないだろ。そんなの死んじゃうに決まってるだろ。」

「ねぇ。」

少しだけ、いや、ハッキリと怒りを感じる色を混ぜたつばきの声に、俺は顔を上げた。つばきのあの目が、得体の知れない光を宿した瞳が、俺を見ている。

「押し付けたのは、とーか君とカンナちゃんでしょう?」

「押し…つけた…?」

「そうだよ。私、金魚を買える水槽持ってるなんて一言も言ってないよね?ただ金魚をすくいたかっただけだよ?飼いたいなんて一言も言ってない。それを私に押し付けたのは二人じゃない。酸素も餌も知らないよ。でもまあ…いいや。」

聞いたことのない、激しい声の後に、静かに言って、つばきは息を吐き、笑った。

「上手に泳げる魚だって溺れて死んじゃうんだから、泳げない人間が水の中でなんて生きていけないよね。」

「どういう意味だよ…?」

意味の分からないことを言うつばきに問いただしても、その答えをつばきは言わなかった。
その代わりに、また「お葬式だよ。」って言った。

「お葬式しなきゃ。とーか君の責任でもあるんだから、参列してくれるよね?あぁ、カンナちゃんのおうちにも行ったんだよ。でも留守だった。お出掛けしてるのかな。」

さっきまでのつばきはどこに行ってしまったのか、またニコニコと笑っている。俺はポケットからスマホを取り出した。それをつばきが静止した。

「カンナちゃんはもういいから。この子達のお墓、作りに行こうよ。」

「…どこに。」

「海。」
船着場の防波堤に作られた石の階段を登って、海岸の方へ渡った。ゴロゴロとした石や大きい岩が転がっている。数年前の台風の日、土砂崩れが起こって、元々は小さい石ころや砂浜がメインだった海岸が、崩れた崖で出来た岩や石がメインになった。砂浜は半分以上、姿を消してしまった。

ゴロゴロとした石の上を歩きながら奥に進んでいけば、砂浜が多く残っている場所もある。その一ヶ所でつばきは立ち止まって、「ここにしよう。」と言った。

しゃがんで、持っていたアクリルのケースを置いた。つばきは素手のまま、砂を掘り始めた。金魚を埋めるだけだからと、深くない砂の穴を作って、また素手のまま水の中から一匹ずつ金魚をすくい上げて、そっと穴の中に置いていく。
その光景を、俺は黙って見ていた。昨日の夜よりも、金魚の赤は薄く見えた。灯りをキラキラと受けていたあの姿は、もうどこにも無い。

三匹とも穴の中に入れて、その上からまた砂をかけていく。小さい山型になるまでかけてから、傍に落ちている適当な石を取って、その山型の墓の上に置いた。

「満ち潮になったらすぐ流されるぞ。」

俺が言った。つばきは「いいの。」と返した。

「金魚は淡水魚だから海では生きていけない。」

そう言った俺に、つばきはクスクスとおかしそうに笑って、言った。

「もう死んでるよ。」

冷たく、愛情なんて感じない口ぶりだった。

「三匹一緒なんだからいいじゃない。離ればなれじゃないだけマシよ。」

そう言って、つばきは手を合わせた。何を考えているかは分からない。確かにつばきに金魚を持って帰らせたのは俺とカンナだ。反論は出来ない。つばきが金魚を飼育出来る環境を持っていたか、知っていたかなんて、正直考えてもいなかった。
なのに、つばきが取った行動は、もしかしてわざとなんじゃないかとか、今だって嫌がらせの延長線上にあるんじゃないかとか考えてしまう自分がいた。

昨日の約束が、つばきのあの姿が夢だったとしたら、今目の前にあるこの金魚の墓だって、存在しない。
昨日の夜の出来事は現実で、三人で誓った約束だって嘘じゃなくて、だけど、その約束があっさりと崩れ去った気がした。
手を合わせていたつばきが顔を上げた。波が寄せては引いてを繰り返す。太陽が溶けたみたいに、水面に反射している。その波を、つばきは眩しそうに目を細めて見ている。

「泳いでみたかったよね。」

つばきがふいに口にした言葉に、俺は「え?」と咄嗟に答えた。

「浮き輪なんかつけないでさ。体一つで海に浮かべたら、どんなに気持ちいいんだろうね。」

「そうだな。」

つばきが立ち上がって、海の方へ歩いて行く。

「つばき!」

呼び止めた俺の声に振り返って、つばきは微かに笑って言った。

「試してみようか?」

「何?」

「試してみようよ、出来るかどうか。」

「馬鹿なこと言うなよ。」

俺は慌てて後を追いかけて、つばきの腕を掴んだ。打ち寄せる波はすぐそこにあって、サンダルを履いているつばきの足は、もう海の中に少し入っていて、濡れている。
浅瀬は誰だって余裕で歩いていけるけど、この海岸は防波堤で船着場と隔てられているだけだから、浅瀬を五メートルも進まないうちに、突然深くなる。
足の裏全体で海の中の砂利を踏んでいたはずなのに、急に爪先立ちになる。

試すも何も、できっこ無い。つばきは泳げない。溺れられても俺だって泳げない。つばきが何を考えているのか本当に分からなかった。

「無茶なこと言うなよ。死にたいのか?」

「だって…金魚を殺しちゃったのは私だもん。三匹で幸せそうに泳いでたのに。小さな世界でも…一緒なら窮屈なんかじゃなかったんだよ。」

つばきは金魚の姿に、俺達三人を反映させているのかもしれないと思った。
窮屈な田舎の町が嫌いだった。どこにも行けなくて、決められた、限りのあるこの小さな世界でしか、俺達は生きていけないんだと思い込んでいた。だけど高校生になると、見ていた世界が少しだけ広くなった。カンナと恋人になって、自分で変えられることもあるんだって知った。

つばきはどうだったんだろう。同じ様に街の高校に飛び出しても、つばきを取り巻く世界は変わっていなかったのかもしれない。同じ世界で生きているのに、自分だけが違う方向を向いて泳ぎ続けていると思っていたのかもしれない。

「つばきのせいじゃない。」

つばきの腕を掴む手に、ちょっとだけ力を込めて言った。つばきは眉をハの字にして俺を見ている。

「金魚が死んでしまったのはつばきのせいじゃない。俺達も無責任だった。つばきだけに押し付けてごめん。金魚が死んで悲しかったのはつばきだよな。」

つばきは首を振った。それから俺の手のひらを、掴まれていない方の手でそっと離して、海の方に向き直って、言った。

「あのまま、水を移し替えたりしなければ。あの小さい袋のままの方が、今日も生きていられたのかな。」
八月十五日。暦の上ではお盆最終日。
紺色に花火の模様の浴衣を着たカンナを直視出来ないでいた。髪の毛は後ろで一つにまとめられている。後れ毛も大人っぽくて、綺麗だ。

俺とカンナは二人で街の花火大会に来た。今年は過去最多、二千発の花火が上がるらしい。
県内で一番大きい花火大会だから、想像以上に人が多かったし、同級生にも何人も会って、そのたびに二人で居ることを冷やかされたけれど、嫌な気持ちにはならなかった。
照れ臭かったけれど、嬉しさの方が大きい。

つばきも誘ったけれど、用事があるからと言って断られた。用事って何ってカンナが聞いたけれど、「秘密」と意味深にはぐらかされる。
本当は用事なんか無くて、つばきなりに俺とカンナに遠慮したんじゃないかと思う。

「あ、透華くん。りんご飴買っていこうよ。」

出店の前でカンナが俺のTシャツの袖を引いた。

「りんご飴?」

「うん。つばき、夏祭りの時りんご飴買えてなかったでしょ。今日だってたぶん、我慢したんだよ。お土産に買っていこうよ。」

「そうだな。」

俺とカンナはりんご飴を売っている出店のおじさんに「りんご飴、一つ。」と言った。その声が揃っていて、顔を見合わせて笑った。
おじさんは好きなの選んでいいよと言ってくれた。できるだけ大きくて、できるだけ赤い色が濃い物を選んだ。ビニールの手提げ袋に入れて貰って受け取った。

「溶けないかな?」

「もう一回冷蔵庫にでも入れてれば平気だろ。」

「そうだね。」

俺とカンナは手を繋いで、花火大会の会場の港に向かった。花火が上がるまではまだもう少し時間はあるけれど、できるだけいいポジションを取ろうと、沢山の人が集まっている。

「どこでもいいよね?」

カンナが俺を見ながら言った。

「俺はどこでもいいよ。だって…。」

「どこで見たって花火が上がるだけで最高だよね。」

まるで地元を揶揄するかの様に言って、俺達は笑った。もちろん、地元にだって良いところはある。この前の夏祭りだって、楽しかった。
それでもこういうイベント事に関しては、勝ち目は無い。
今年は特別だった。カンナと二人だけで花火大会に来たのは初めてで、カンナが浴衣を着たのも、小学生以来だった。
同い年なのに、大人になったなぁと思った。想像以上にカンナは綺麗で、一生忘れたくないと思った。
心の中でつばきに感謝すらした。明日からはつばきの我が儘だっていっぱい聞いてやろうと思うくらい、俺は有頂天だった。
集まった人達は、港の同じ方角を眺めながら思い思いに喋ったり、ふざけ合ったり、シートを敷いて出店から買ってきた物を食べたりして過ごしていた。

そんな喧騒の中、シュっと、一筋の光が走り、消えたかと思うと、パッと空に花が咲いた。
騒がしかった港がシン、と静まり返って、そしてワッと歓声が上がった。

その一発の花火を合図にドンッ…ドンッ…っと次々に花火が打ち上がっていく。星の形、ニコニコマーク、いくつもの色が混ざった大輪や、枝垂れ桜の様な花火。数えきれないくらいの花火がいくつも上がり、眩しいくらいに海に反射した。
打ち上がる花火に合わせて、BGMが鳴り響く。

花火が打ち上がるたびに、大きい歓声が辺りを包み込んだ。
隣のカンナも空を見上げて、目をキラキラさせている。

「きれい…。」

呟いたカンナを見ながら「うん。綺麗だね。」と呟いた。

二千発の花火はあっという間に終わってしまった。花火の打ち上げが終わっても、みんなが余韻に浸っていて、そこから動こうとしない。
登下校中によく見る港が、全然違う場所に見えた。

「すっごく…すっごく良かったね!」

興奮しているカンナが可愛かった。花火よりもカンナばかりを見ていた様な気がする。
花火よりも、打ち上がる花火に照らされたり、花火が消えてカンナの顔に影を作ったり。そればかりが目に焼き付いている。

そんなことはカンナに言えるわけも無いから、「うん。すごく、良かった。」って答えるのが精一杯だった。
周りがなかなか帰ろうとしない中、名残惜しかったけれど、俺達は帰らなければいけない。
二一時になろうとしている。この港から一番近いバス停は、歩いて十分くらい。

もしかしたら…と思っていたけれど、小走りでバス停に着いた時には案の定、僕達の地元に帰る最終バスは終わっていた。

「カンナ、足痛くない?」

カンナは下駄を履いていたから心配だったけれど、大丈夫だよと笑ってくれた。

「ごめん。バス、終わっちゃったな。」

「うん。お父さんに迎えに来てもらえないか電話してくるね。」

そう言って、カンナは少し離れたところで電話をかけに行った。カンナのおじさん、迎えに来た時に怒られるかなぁなんて思って、急に緊張してきた。小さい時から家族ぐるみでお世話になってきたけれど、やっぱりこの状況って、今までとは違う気がする。
なんて言うか、結婚前の試験みたいな感じだ。…考え過ぎかもしれないけれど。

「お父さん、来てくれるって。良かった。お酒呑んでなくて。」

カンナのお父さんはお酒が好きだ。夏祭りの時もお好み焼きを売りながら呑んでたなぁって思い出した。

「う…、うん。ありがとう。」

結婚の挨拶でもするのかってくらい、急に緊張してきた俺をよそに、ちょっと座ろうよって、カンナはバス停のベンチに座った。まだ最終バスが残っている人達が、少しずつバス停に集まってきていた。

二一時を過ぎていても、繁華街の夜はやっぱり明るい。お店も街灯も沢山あるし、こんな時間にこんなに人が出歩いているなんて不思議だ。
この人達にはきっと、「限られた世界」なんて無い。どこにだって行けるし、どこに行っても自由だ。そんな人達が、眩しく見えた。

ベンチに座ったカンナが、「ちょっと蒸すね。」と言いながら、浴衣の衿のところを少しパタパタとする仕草をした。

同じ市内なのに、山を越えた俺達の地元とは夏の夜の気温も全然違う。八月も中旬から下旬頃になれば、窓を開けていれば夜は十分涼しい。
ここはまだ少し、夜でも蒸していて、それがいくつもそびえ立つビルや、集まる人の熱気のせいなのかどうか、俺には分からない。

花火大会の会場で貰ったうちわで、カンナをパタパタと煽いだ。カンナはふふ、と笑って、ありがとうと言った。