極上御曹司は懐妊秘書を娶りたい

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「……紗世?」
 ハウスキーパーの契約満了まで、あと二週間と少しとなったある日。俺が会社から帰宅すると、真っ暗な廊下に出迎えられた。いつもだったら『おかえりなさい』と出迎えてくれるはずの紗世は現れず、家の中はしんと静まり返っている。
 そういえば、――――昼間、忘れた書類を届けに来てくれたことに対するお礼のメッセージにも、返信が来ていなかった、ような。
 どっと嫌な音を立てた心臓が、全身に冷えた血液を送り出す。俺は急いで靴を脱ぐと、それを揃えることなくリビングへと飛び込んだ。
「紗世!」
 電気を付けるが、ここにも紗世の姿はない。寝室も、洗面所も、全ての部屋をくまなく探したものの、紗世は見つけられなかった。電話をかけてみても応答はなく、電源が入っていないという音声だけが右耳を突き刺す。家を一周してリビングに戻ってきた俺は、気を落ち着けるためにとコップ一杯の水を勢いよく飲み干した。
 そして、最初に見たときには気が付かなかった、テーブルの上のシンプルな封筒に目を留める。
「これは……」
 この家に入れるのは俺と紗世だけ。俺が用意したものでないのなら、これは彼女がわざわざここに置いたものだろう。
 震える手で封筒を開き、中の便箋に目を通す。然程長くもない文章を二度ほど読み返して、それから俺はようやく、――――紗世が自分の手から零れ落ちていったことを理解したのだった。
 手の中から封筒が滑り落ち、がしゃんと音を立てる。硬質な音と共に飛び出してきたのは、俺が彼女に渡した、この家の合鍵だ。
「どうして、これが……ここに、」
 まるで、二度とここには戻らないとでも言うように、――――いや、実際そうなのか。
 ぐらり、ぐらりと、視界が揺れる。血の気が引いていく感覚と同時に忍び寄ってきたのは、奈落へと吸い込まれていくような絶望感と、身体の奥底から突き上がってくる慟哭だった。いない、紗世がいない。たった数行だけのさよならを残して、俺の前から消えてしまった。
 なんで、という唸るような呟きが、噛みしめた歯の奥から溢れ出る。力の入りすぎた指先が痙攣し、その内側にあったグラスにヒビを入れて。
「ッ、……!」
 ばりん、という断末魔と共に、そのグラスは無残にも砕け散った。
 ばらばらと零れていく硝子の破片。微かにオレンジがかったライトを反射して眩く光る様が、無性に忌々しい。遅れて手のひらに鈍い痛みが広がって、握りしめた拳の隙間から鉄くさい赤が垂れ、テーブルや硝子の破片を汚していった。
「は、……」
 飲み込み損ねた空気が喉に引っかかり、俺は身体を折って何度か咳き込む。項垂れるような格好になると、じんじんと痺れていた頭の芯がいやに熱っぽいことに気が付いた。
「……紗世」
 いないと分かっていても、唇は勝手に彼女の名を紡ぐ。垂れ続ける血を眺めながら、手の痛みと心臓の痛みが同じなら、心臓も血を流しているのだろうかと頭の片隅で考える。
 彼女に教わって料理の練習をしていたとき、一度指を切ったことがあった。そのときの紗世は俺より余程大慌てで、半泣きになりながらてきぱきと処置をして、絆創膏を貼ってくれたが、その彼女はもういない。
 半年前まではこの家に独りでいるのは当たり前のことだったのに、今となってはひどく寒々しく感じた。この空虚さがより一層俺の心を掻きむしって、堪らない。
「くそ、……」
 悪態を一つ零せるだけの余裕が生まれたのは、痛みで頭が少しだけ冴えたからだった。俺は深く息をつきながら、彼女の置手紙を読み返す。『誠に勝手ながら、今日でハウスキーパーの職にお暇を頂きたいと思います』という言葉に始まり、当たり障りのない『今まで大変お世話になりました』という言葉で締めくくられた、短い手紙。そこに明確な理由の記載はなく、ただ俺への感謝と、契約期間が残っているのにも関わらず出ていくことへの謝罪だけが並んでいた。
「……分からないな」
 今朝までは普通だったはずだ。それがどうして、こんなにも急に家を出ていくなんてことに、――――そこまで考えたところで、俺はふと便箋の端に少し違和感を覚えた。何気なく指先を滑らせてみると、そこだけふやけたようにたわんで、質感が変わってしまっている。
「これ……涙の跡、か」
 手紙をしたためている途中に、目尻から涙が零れたのだろう。
 これを書いていたとき、紗世は泣いていたのだ。
 それに気付いた瞬間、死んでいた思考の回路が緩慢に起動した。よく見れば、紗世の服が入っていたクローゼットは不自然に開いたままで、いくつか彼女の荷物が残されている。そもそも、いつも丁寧で礼儀を気にする紗世が、俺に紙切れ一枚の挨拶で出ていくこと自体がおかしい。恐らく前々から計画していたのではなく、何かがあって、衝動的に飛び出していったのだろう。
 そして恐らく、――――その行動は彼女にとって『望ましいと判断したこと』ではあっても、『心の底から実行したいこと』ではなかったのだと思う。そうでなければ、手紙を書いている最中に泣いたりしない。
「紗世」
 もう彼女に向かって呼ぶことのないかもしれない名を、手紙に向けて密やかに呟く。
 紗世が俺に見切りをつけて出て行ったのなら、彼女の幸せを思い、このまま黙って手放してやることだってできただろう。
 だが今の俺は、惚れた女性が残した涙の跡を見逃してやれるほど、物分かりが良くないのだ。
 他の何を諦めても、紗世だけは諦めずに足掻くと決めたのは、俺自身だから。
「はあ……重いねえ」
 人通りもまばらな黄昏時の商店街を、エコバッグを片手に覚束ない足取りで進む。零した言葉の宛先は、今横を通り過ぎて行ったおばあさんでも、すれ違った男の人でもなく、お腹の中で元気に暴れ回る私の可愛い同居人だった。
 景光さんの元から離れ、東京郊外にひっそりと移り住んで数ヶ月。お腹はかなり大きくなり、出産予定日もだいぶ近付いてきていた。身体のバランスはかなり取りづらくなり、買い物に出るのも一苦労をするようになっている。ただ、今までの貯金とハウスキーパーの収入を合わせて、安定した生活を送ることができているし、お腹の子の経過もすこぶる順調だ。
 あの女性の先生がいる病院が遠くなってしまったので、こちらの産婦人科にかからなければならないとか、――――家にいても『彼』がいないということが、思っていたよりもずっと寂しいものだったとか、そういう類の辛いことは色々あったけれど。
「……いや、本当に重いかも」
 今日はどうやら、ちょっと食材を買いすぎてしまったらしい。
 エコバッグの持ち手が食い込んでくるのに眉をしかめながら、私は一度道の端に寄って一息ついた。地面に下ろしたエコバッグがかさりと音を立て、夕暮れ時の爽やかな風が頬を撫でる。
 ここに来て私が手に入れたのは、どこまでも穏やかで波風の立たない毎日だった。何かにどきどきすることも、突然頬が熱くなることも、胸が締め付けられて逃げ出したくなることもない、平和で均一な日々。それを好ましく思う一方で、どうしようもなく物足りないと感じている自分がいるのも事実で。
 それに、心を置き去りにして無理やり手放したからだろうか。失恋の傷は未だに癒えることなく、ついつい彼のことを、――――景光さんのことを考えてしまうのだ。今は何をしているだろうかとか、あんな出奔の仕方をして怒っていないだろうかとか、それとも私のことなんてもう忘れてしまっただろうか、とか。
「もう忘れたほうがいいって、分かってるのにね……」
 ゆるゆるとお腹を撫でながら、瞼を下ろす。その裏に、最後に見た景光さんの笑顔を思い浮かべた瞬間、――――声がした。
「……紗世?」
「っ……」
 幻聴かと、思った。
 あの家を離れてから、頭の中で擦り切れるぐらいに再生した声が、私の名前を呼ぶ。そちらを振り向いたのはほとんど反射のようなもので、しまったと思うより、私の瞳が彼の姿を捉えるほうが先だった。
 目を見開いてこちらを真っ直ぐに見据える、――――景光さんの姿を。
「紗世!」
 彼の叫び声を合図に、弾かれるようにして足が動く。そのまま景光さんと反対方向に駆け出してしまったのは、頭で考えたわけではなく咄嗟の反応だった。合わせる顔がないと思ったのかもしれないし、切羽詰まったような彼の表情と声になにがしかを感じたのかもしれない。地面に置いたエコバッグのことも、膨らんだお腹や取りづらくなったバランスのことも忘れて、私は彼から逃げ出した。
 ただ私は身重で、特に運動が得意というわけでもない普通の女だ。それが男性の脚力に敵うはずもなくて、――――
「ッ、待て……紗世! 止まれ!」
 焦燥の滲んだ声が追いかけてきて、その数秒後にはもう私は彼の腕の中にいた。
 温かく、逞しい腕の感触。耳元に感じる荒くざらついた呼気。背中に激しく脈打つ心臓の気配を感じて、私は思わず息を呑む。
「急に……走ったら、危ないだろう。君の身体は君だけのものじゃないんだ。転んだらどうする」
「ご、ごめん、なさ……」
 ごめんなさい。何度もそう呟いたのは、彼がここにいるという現実をようやく飲み込めたからだった。勝手に家を出て、契約を途中で破ってしまったことに対する罪悪感が湧き上がり、私の唇を震わせる。
 痛いぐらいに私を抱き締めた景光さんは、そんな私の懺悔を聞いて深く深く息をついた。
「……見つかってよかった。ずっと探していたんだ」
「ずっと?」
「君がいなくなってから、ずっと。君が行きそうなところを毎日のように探してた」
 その言葉を聞いた途端に、呼吸も心拍も、何もかもが止まったような気がした。
 私が無理やり身を捩って振り返れば、こちらを真っ直ぐに見降ろしている景光さんと目が合う。その瞳には真摯さだけが滲んでいて、とても嘘をついているようには思えない。思えないけれど、その理由が分からなくて。
「どうして……?」
「どうしてって、そんなの……分かるだろう」
 ふっと柔く、蕩けるように微笑んだ景光さんが、まるで内緒話でもするように囁いた。
「君を愛しているからだ」
 紡がれた言葉が脳髄に染み渡ると同時に、再び時が止まる感覚。
 あいしている、――――愛している。景光さんが、私を?
 何度言葉を反芻してみても、夢じゃないかという思いが拭えない。景光さんと道を別ったあの日から凪いでいた心臓が、息を吹き返したかのように早鐘を打ち、暴れ回るのが分かった。
 これ以上ないほどの衝撃を受ける私を余所に、景光さんは甘さを多分に含んだ笑みを唇に浮かべてみせる。
「……やっぱり気付いてなかったのか。これほど分かりやすいアプローチもないと思っていたんだが」
「……うそ、」
「このタイミングで俺が嘘をつくと思うか?」
 思わない、思えるわけない。景光さんの誠実さは嫌と言うほど思い知らされているのだ。逃げ場を失った私が俯こうとすると、彼はそれすらも許さないとばかりに、私の頬に手を添えて顔を持ち上げる。夕日に照らされた景光さんのかんばせが、ひどく眩しかった。
「嘘じゃない。この子が誰の子であっても関係ない。君の子で、君が守りたいと思っているのなら、俺が父親になりたい。……そう思うぐらい、紗世のことが好きなんだ」
「っ……」
「それを、本当はずっと伝えたかった」
「景光、さん……」
「……こんな簡単なことをだったんだな。告げたら君に逃げられてしまうかもしれない、なんて考えて逃げていたのが情けない」
 景光さんの硬い指の腹が唇を辿り、反応を求めるかのように僅かに爪の先を食いこませてくる。全てを打ち明けてくれたのだと分かる、どこか切なげで晴れやかな笑みが彼の唇を彩っていた。
 どこまでも真摯な景光さんの言動が私の心を大きく揺さぶる。ここまで言われてしまえば、これ以上真実を黙っていることなんてできそうもなかった。
 二度、三度と呼吸を繰り返して、覚悟を決める。舌先で編んだ言葉は、ひどく震えていて頼りない響きをしていた。
「……私も、本当はずっと言わなければならなかったことがあるんです。この子の、父親のことなんですけど」
「ああ」
「私、この子を……景光さんと出席したパーティーの日の夜に身ごもったんだと思うんです」
「は……」
 言葉を失った景光さんが、じっと私の瞳を覗き込む。その優秀な頭の内側で、色々な計算が行われているのが見えるような気がした。
 きっと、景光さんはあの夜のことを覚えてはいたのだろう。ただ、本当にあったことなのか確信が持てるほどの記憶ではなく、私が妊娠を報告したときに『恋人がいる』と言ったことによって、余計にあやふやになってしまったのかもしれない。
 やがて彼は、私の肩を掴んで絞り出すような声で言った。
「待ってくれ。……あの日、俺が君を抱いたのは、俺が見た都合のいい夢だったか?」
「……いいえ。私も見ました、その都合のいい夢を」
 私も同じ想いだったのだと言外に伝えると、景光さんの表情がくしゃりと歪む。後悔と罪悪感、そして悦びが絶妙なバランスで混ざり合った複雑な表情。景光さんは罪人のように項垂れながら、再びゆっくりと口を開く。
「本当に、すまなかった。……今更謝ってもどうにもならないだろうが」
「いいんです。そもそも分かった時点で言うべきでした。……私も、貴方の負担になりたくないなんて言い訳して、ずっと逃げていましたから」
 だから、おあいこです。
 キスしてしまいそうな距離で、私たちの視線が絡み合う。人気の少ない商店街の一角なのに、黄昏に照らされる景色が、泣きたいほどに胸に迫ってきて。
「悩んだりもしましたけど、この子を授かることができて幸せなんです。だから、謝らないでください」
 私はそう言って、心の底から微笑んだ。
 これ以上謝られてしまうと、この子が宿ったことさえも間違いだったと言われているようだ。
「それとも、やっぱり迷惑でしたか?」
「そんなことあるわけないだろう……! もちろん、俺の子ならこんなに嬉しいことはない」
 言葉と共に大きな溜息をついた景光さんのかんばせには、もう先ほどまでの動揺も後悔も浮かんでいなかった。『こんなに嬉しいことはない』という言葉が嘘ではないと分かって、彼と再会して初めて胸の奥が温かくなる。この温度が安堵であると理解すると同時に、景光さんが静かに笑った。
「先ほども言ったが、この子の父親が誰であろうと君に告白するつもりだった。初めての妊娠に不安であろう君に優しくして、囲い込んで……どこにも行けなくしてやろうと思うぐらいには、本気だったよ」
「え、そ……そう、なんですか?」
「そうだ。……俺に大事に大事に囲われるの、嬉しかったのか? 顔が赤い」
「……」
 ぐう、と羞恥と照れで喉が鳴る。
 頬が赤くなっているのは、鏡を見なくてもよく分かった。どこか懐かしい、じわじわと顔が火照っていく感覚がして、心臓の辺りがうずついてしまう。
 そんな私を見て景光さんは『仕方ないな』とばかりに甘ったるく笑って、私の頬を優しく撫でてくれた。
「参ったな、俺はこれを怒られるつもりで告白したんだが。あんまり可愛い顔をされるともう一度やりそうだ」
「う……」
「しかし……それならどうして俺の前から姿を消したんだ? 君が本心から離れたいと思っていないのは、手紙に残った涙の染みで何となく分かったが」
「あ、それは……」
 彼の疑問で、今まで意識の外に追い出していた『あの日』の出来事が脳裏に蘇る。景光さんが私を想ってくれているのが本当ならば、あの会話は何だったのだろう。
 あの日の自分の行動や、何を思ったかをかいつまんで景光さんに説明すると、彼は一度顔を手で覆って、疲れたように微笑んだ。
「……なるほど、そういうことか。こればかりは神の悪戯だな」
「え?」
「もし君に再び逢えたら、渡そうと思っていたものがある」
 一度私から離れた彼が、懐から何か小さな箱のようなものを取り出す。その箱が今の話と一体どうやって繋がるのか分からなくて、回転の鈍い頭を一生懸命に動かす私の前に、夕日を受けて美しく輝く、――――銀色の輪が差し出されて。
「俺を……紗世の夫と、この子の父にしてほしい」
「……!」
 それが指輪であることを理解するまでに、数秒にも永遠にも思える時間を要した。
 はく、と酸素を吸い込み損ねた唇と喉が喘ぐように震える。信じられないものを目の当たりにすると、人間は声も出なくなるのだと身をもって知った私は、ただ立ち尽くして彼が差し出してくれた指輪、――――婚約指輪とおぼしきそれを見つめ続けた。
 『どうして』と『そういうことだったのか』がないまぜになる頭の中に、景光さんの柔らかい声音が染み込むように入ってくる。
「本当は、君のハウスキーパーの契約が切れる日にプロポーズをするつもりで……月村には相談に乗ってもらっていたんだ。思えば、あの日確かに紛らわしい言い方をしていたような気もするな……」
 差し出された指輪の前に、私の左手がゆっくりと持ち上げられていく。壊れてしまいそうなほどに締め付けられる心臓のせいで、左手は微かに震えていた。
 景光さんの瞳が、私を覗き込む。私の中に答えを見出そうとするかのような、願いが叶う瞬間を切望するような、そんな瞳。
 それを見た瞬間に、私の心は決まったのだ。
「紗世に出逢ったときから、俺の心は君のものだ。……受け取ってくれるか」
「っ、……はい」
「こんなところでプロポーズするような男ですまない」
「……ふふ、それもそうですね」
 ここは商店街の一角で、少し後ろには私が手放したエコバッグが転がったまま。私は買い物に行くための適当な格好だし、化粧だってせいぜい顔が見られるようになる程度のものしかしていない。それでも良かった。貴方が、私を見つけてくれたのが今で、この場所だったのだから。
 左手の薬指に嵌められる指輪。再び優しく身体を引き寄せられ、緩く鼻先が擦り合わされる。ゆっくりと近付いてくる唇の熱を感じながら、私は目を閉じる。
 このプロポーズを私は一生忘れないだろう。