「……ご、ごめん、俺落ち着くから……。確かに二人の問題で、俺が首を突っ込むのは変だよね」

 樹くんが困ったように言う。私は再びホテルに目を向けると、もう巧とあの人は中に入ってしまって見えなくなった。そんなホテルから視線を逸らすように、私は踵を返して来た道を戻る。背後から樹くんが慌てて追いかけてくるのを感じた。

 ただそこから少しでも早く離れたくて足早に進んだ。ほとんど走り出す私の隣に樹くんが並ぶ。

「あの、杏奈ちゃん、落ち着いて……」

「大丈夫落ち着いてる」

「俺が代わりに謝るのも変だけど、ご、ごめん。巧が」

「あは、ほんとなんで樹くんが謝っているの」

 笑い飛ばしたつもりが、口から漏れたのは渇いた笑いだった。

 そうか、ここ最近ずっと巧とは顔をゆっくり合わせていなかった。仕事もあるだろうけど、あの人とああしてホテルで過ごしていたのか。いやだから元からそれが当然の行動なんだって。

 小走りになっていた足がもつれ上半身が前に倒れ込む。転ぶ、と思った瞬間腕が出てきて私を支えてくれた。いうまでもなく樹くんだった。

「あ、ごめん、ありがと」

「こっちこそごめんだよ……」

「だから樹くんが謝ることじゃなくて」

「それじゃなくて。二人が偽装結婚って疑ってたこと。本当にちゃんと結婚してたんだね」

 意外な言葉に顔をあげる。彼は叱られた子供のようにシュンと落ち込んみながら言った。

「ごめん、なのに色々ちょっかい出して失礼なこと言って」

「そ、れはいいけど……なんで急に」

「え? だって、巧のこと本当に好きなんだなあって。
 じゃなきゃ、あの光景見てそんな泣きそうな顔しないでしょ」

 ストン、と言葉が胸に落ちたようだった。

 ……泣きそう? 私が?

 巧と他の女性が並んで歩いているのを見て、泣きそう?

「なのに巧はあんな馬鹿で……! 本当にごめん」

「え、私……泣きそう?」

「え? そ、そりゃ……しょうがないって! 普通そうなるよ、平常心を保ってられるはずない。好きな奴に裏切られたら……」

「……好き、か」

「え?」

 ただ足元にあるアスファルトをじっと見つめた。

 まさか、そんな。

 そんなはずない。世界がひっくり返ってもあり得ないはずだ。

 私が巧を好きだなんて

 そう思った瞬間浮かんでくるのは泣いてる私に胸を貸して励ましてくれる巧の姿だった。ばあちゃんと笑いながら話してる巧、私に料理を作る巧、人を小馬鹿にするようにしながら優しく笑うあの男の顔だった。

 瞬間、心臓が一気に大きく打つ。それはオーウェンを見ている時よりもひどい鳴りようだった。

 嘘だ嘘だよ。そんなことありえない。

 だって巧が他に好きな人がいるって知ってるじゃない。私には微塵も興味ないって知ってるじゃない。いずれは離婚する関係だって知ってるじゃない。なのに好きになっただなんて、自分が馬鹿すぎて泣けてくる。

 これほど無謀な恋もない。

「杏奈ちゃん?」

「あ、と……ごめんね、頭がぐるぐるしてて」

「そりゃそうだよね……あ、タクシーが来た、止めるね」

 ようやく近くに来たタクシーを私ではなく樹くんが止めてくれた。空いたドアに促されるまま乗り込み、てっきり彼もついてくるもんだと思っていたら樹くんは心配そうに覗き込んでくるだけだった。

「一人で大丈夫?」

「うん、ありがとう」

「その、俺でよかったらいつでも話きくから。これ、俺の番号。うちの馬鹿兄貴が本当にごめん。俺も面白がっててごめん。杏奈ちゃんが気に入ってたっていうのは嘘じゃない」

 やけに真剣なトーンで話すもんだから、ああ彼は実は根は真面目なんだと知った。浮気現場を目撃した妻を気遣ってくれている。やや良心が痛んだ。

 樹くんが渡してくれた名刺を受け取り微笑む。

「ありがとう、ごめんね」

 彼は悲しげに眉を下げて後退した。タクシーの扉が閉まる。

 私はまっすぐ前を向き、運転手さんに目的地を告げた。タクシーはすぐに発車し樹くんから離れる。私は彼を振り返ることもせず、ただ呆然としながらタクシーに揺られていた。