「高杉さん、今日帰りちょっと飲んでいきません?」
仕事が終わり会社を出ようとエレベーターを待っている時、後ろから来た河野さんが私に声をかけた。
そういえば、以前もそう誘われていたと思い出す。祖母の死があったので、彼女も気を遣って誘いを控えていたのだろう。私と巧の新婚生活を聞きたいと目を輝かせていた。
「ああ……行きたいけど、ちょっと今日は」
「あちゃーだめでしたか、旦那様とデートでしたか、じゃあまた今度ですね!」
「あなたその思い込みの激しさ凄すぎるね」
笑って答える。彼女の中で出来上がっている新婚夫婦像は、私たちとあまりにかけ離れている。巧とデートなんてするはずがないし、挨拶のキスだってしない。
それどころか、もうここ二週間以上巧とは挨拶以外言葉を交わしていなかった。私が家にいる時は殆ど外で仕事をしていて、休日も目が覚めるとどこかへ出かけてしまっている。完全に、避けられていた。
それが何だか想像以上に悲しくて苦痛だった。藤ヶ谷巧という人物の人生に一歩踏み入れるのが、こんなに難しい事だったなんて。ここ最近好きなゲームも進めていられないし、オーウェンだって前ほど輝いていない。
ルームシェアするっていうなら、もうちょっと仲良くしてくれてもいいのに。これじゃあ家庭内別居だ。
到着したエレベーターに乗り込んで一階まで降りていく。退社する人々で一杯の箱の中で、河野さんが囁いた。
「実際どうなんですか、よくデートします?」
「しない。相手も仕事で忙しいからね」
「あーお家デートですか、それもいいですね、家で人目をはばからずイチャイチャが一番ですよね」
何でもプラス思考に物事を運ぶ彼女に笑った。いやでも、新婚なら普通そうだよね。私たちが常識と離れているだけで、彼女の方が当たり前の意見なのだ。
一階にたどり着き、人がどっとエレベーターを降りる。河野さんは隣に並びながらため息をつく。
「私も結婚したいですよー」
「彼氏いたっけ?」
「いません」
「あはは、じゃあまずはそっちが先ね」
そう笑いながら、彼氏なんて期間がなかった男と結婚している女がここにいる、と思った。人のこと言えた立場じゃない。
二人で歩きながら会社の外へと出る。やや暗くなった空をバックに、駅へと足を踏み出していく……その時だった。
「杏奈ちゃーん!」
どこかで聞いた声に、びくっと肩が反応する。
嘘でしょ、この声……。
私が恐る恐る振り返ると、そこにはやはり樹くんがニコニコしながら立って私に手を振っていた。頭痛を感じて頭を抱える。
隣にいた河野さんは、目を輝かせて小声で尋ねた。
「高杉さん! あの可愛いイケメンだれですか! 不倫相手!?」
「だからあなたの思考回路どうなってるの……」
力なく答えると、樹くんが私たちのそばまで歩み寄ってくる。確かに彼はこの人混みの中でも目を引くほど綺麗な顔立ちをしている。巧とはタイプの違う綺麗な男の子だ。
樹くんは犬のように嬉しそうに笑ながら言った。
「待ってたんだ」
「ええと……」
「あ、仕事仲間の方? 俺藤ヶ谷樹です、巧の弟」
樹くんが河野さんにいうと、彼女はみるみる顔を緩ませた。これだけ顔に出やすい子も珍しい。
「顔面偏差値がやばいご兄弟……!」
「あは、杏奈ちゃんのお友達も面白いねえ」
「そっか、今日は弟さんと約束だったんですね! 家族とも仲がよくて羨ましいです高杉さん!」
私の言葉なんて何も聞かない河野さんは一人で納得し、一人で頭を下げた。樹くんと二人になりたくない私は彼女を引き止めようとするも、いったいここからどうすればいいのかも分からず上げかけた右手が寂しい。