とんでもない厄介物件を拾ってしまったかと思い詰めたこともあったが、後悔したことは無い。獅貴くんは冷静で、いつも余裕があるように見えて、奥底で限界を堪えているような気がしたからだ。
ただの思い過ごしなのかもしれない。彼自身はそれを望んでいないのかもしれない。
先代が呆れ顔で言っていた通り、お節介が過ぎるのかもしれない。
けど、初めて会った時の違和感が拭えないのだ。
光の無い瞳も、全てを諦めてしまったかのような表情も。一体何が、彼をそこまで追い込んだのか。どうしても気になってしまう。
そして、獅貴くんを引き入れ二年程経ったある日、ANARCHYの平穏は崩れ去った。先代で全ての族を纏め、抗争も鎮静化されたと思われたその時、新たな火種が撒かれようとしていたのだ。
ネオン街の郊外に集まった、抗争で現れた残党。
ANARCHYに嫉みを持つ人間が自然と一つに集結され、それはやがて『delirium』と呼ばれるようになった。獅貴くんを総長に指名した、半年後のことだった。
瞬く間に"それ"は勢力を広げた。ネオン街と対にある繁華街にdeliriumは纏まるようになった。
激化とまでは行かない。けれど確かに抗争の頻度は上がり、今まで一週間に数人居るか居ないかの人数だった怪我人も、目に見えて増加した。
その為に、俺は高校卒業と同時にANARCHYを抜けた後も、彼らの周囲を見守ることにした。先代が族を抜けた後もANARCHYに関わるのは異例だったが、それ程咎めは無かった。
俺が"あの"鴻上遵だということもあったのだろう。
歴代最弱でお節介の、鴻上遵だと。
獅貴くんが総長の座に着いてから、deliriumの動きは鈍化した。どうやら彼らも、ネオン街で有名だった獅貴くんを警戒していたようだ。
けれど全くという訳では無い。確かにdeliriumは抗争を仕掛けてくるし、ネオン街で下っ端達に喧嘩を吹っかけてくることもある。ANARCHYの連中は相手にしていないようだが。
そんなdeliriumの動きが、最近になって急激に減った。ネオン街でも繁華街でも、目立った事象は起こさない。
ANARCHYが余りにも、deliriumに無頓着だったということもあるのだろうか。獅貴くんだけでなく、今のANARCHYの幹部はANARCHY自体に興味が無い所為か、暴力沙汰に首を突っ込むのも稀だ。
ANARCHYに興味を示さない獅貴くんたちが、deliriumに関わる訳もなく。二つの族の関係は平行線を辿っていた。
けれど今回は違う。今までと、全くと言っていい程。
こんなにも奴らに動きが見られないのは異常だ。
最後に奴らが起こした目立った事象と言えば、陽葵くんがdeliriumの下っ端連中に襲われたあの日のみ。
それも涼也くんと理史くんが片付けたと言っていた。つくづく出来る後輩達だ。
deliriumに動きが見られなくなったのは最近。丁度、獅貴くんが紫苑ちゃんに一目惚れした頃だろうか。
何となく、deliriumが何を考えているかは予想がついている。取り敢えず、その目的の中に紫苑ちゃんが居ることは確実だろう。
奴らのことだ。ANARCHYを潰す為に紫苑ちゃんを使おうだとか、その辺のことを考えていることは容易に想像がつく。
獅貴くんも気付いているだろう。幾ら紫苑ちゃんにベタ惚れで周囲に目が行かないと言っても、彼は馬鹿な訳じゃない。
既に気付いて、deliriumの思惑も返り討ちにし、消し去ろうと動いているはず。彼らは俺らの代とは違って賢いし、強いから。
紫苑ちゃんはけれど、気付いていないだろう。ANARCHYのことすらも良く知らないようだったのだ。deliriumについて詳しく知っている訳が無い。
だが彼女は知るべきだ。
ANARCHYの彼らを受け入れてくれるなら。獅貴くんの根底にある闇も、取り除こうとしてくれているのなら。
紫苑ちゃんは、彼らの傍に居る為に知るべきことを知らなすぎる。それこそ、無知な弱みでしかない。
ANARCHYの彼らも詳しく教えてやればいいのにと思うが、それも出来ないのだろう。理史くんやら涼也くんは兎も角、陽葵くんや獅貴くんは紫苑ちゃんに嫌われることを酷く恐れる。
大方、族の人間だとバレて紫苑ちゃんに逃げられると思っているのだろうが、全くの思い違いだ。なんなら彼女は彼らが族であることを初めてから知っていた。
いつも一緒に過ごして、彼女の心根を理解している彼らなら、紫苑ちゃんがそんな理由で離れる子ではないことを分かっているはずなのに、だ。
けれど、仕方ないのかもしれない。思いが強ければ強いほど、見る目が変わる恐怖は大きくなるものだから。
「…?…あの、じゃあ何ですか、獅貴は自分達が族だって、私にバレてないと思ってる、ってことですか…?」
遠慮がちに聞いてはみるものの、頭の中は"?"で埋め尽くされている。衝撃の事実だ、違和感をちょっと考えれば誰でも気付くことだし。
首を傾げる私に、鴻上さんは困ったように苦笑した。眉を下げるその姿は、何だか申し訳なさそうだ。
「そう、なんですよね…。
さっきも言った通り、恐らく紫苑ちゃんに嫌われるのが怖いからだと思うんですが…」
確かに族は怖い。出来れば関わりたくない人種だ。けどそれとこれは違うだろう。
私は"族"に対して偏見的に恐怖心を抱いているだけであって、"彼ら"に抱いている訳では無いのだ。というか獅貴たちのことは普通に友達だと思っている。
「えぇ…そんな…」
困惑した声しか出ない。てっきり彼らとは色んなこと全てを引っ括めた上で、本音の付き合いをしていると思っていたのに。
いやまぁ、特段親しいという思い上がりをしたことは無いが。精々『ちゃんと私たち友達だよね』くらいのノリだ。"ちゃんと"というのがポイント。
獅貴に至っては『お前には嘘を付かない』なんて宣言していたくせに、普通に嘘付いてるじゃないか。この何とも言えないモヤモヤした気持ちを何処へ向かわせればいいんだ、まったく。
「…ていうか、ANARCHYの先代総長って…。
獅貴の"先輩"ってそういう意味だったんですね…」
あぁ、と思考するように視線を上げた鴻上さんは、そういえばそんなこと言いましたね、と他人事のように笑う。そんなことで片付けていいほど単純な事案では無いのだが。
けどまぁ、獅貴たちの先輩だし、なんかふわふわしてる人だし、今更余り驚くことは無い。彼は初めから獅貴たちと同じ匂いがしていた。
この先輩にしてあの後輩達あり、か。中々の説得力である。
「と言っても、弱小で喧嘩も雑魚ですし、実質名ばかりの立場だったので。あまり恐縮せずに普通に接してくださいね」
普通に接してくださいね、と爽やかに言われても困る。弱小で雑魚の人間は男二人を蹴りで吹き飛ばしたりしない。
それにあの殺気と威圧感は異常だ。鴻上さんの前の代の総長さんは彼の実力を見抜いていたということだろうか。
だって普通に考えて『こいつ料理上手いやん、総長にしたろ』なんて思わない。思わない、よね…?ANARCHYの常識が理解出来ないから知らないけど。
「…それで、deliriumって結局何なんですか?」
話の内容を聞く限り、彼が私に伝えたい一番の話はそれだろう。ANARCHYは兎も角、deliriumなんて初めて聞いた。
鴻上さんはふにゃりと苦い笑みを浮かべた上で、カップを手に取りコーヒーを啜る。眉がピクリと動いたが、中身が冷めていたのだろうか。
「…。…deliriumというのは、繁華街の人間が勝手に呼び始めた名前なんです。それがいつしか定着して、皆そう呼ぶようになりました」
「………」
元々表立っての『族』では無かったということだろうか。周囲の傍観者達が勝手に付けたそれが広まり、今では本当に族として、ANARCHYと敵対していると。
「deliriumは今、ネオン街にも現れているそうです。以前とは違い、本気でANARCHYを狙いに来ている。だから紫苑ちゃんに、警戒して欲しかった」
私に警戒して欲しかった、というのは、ANARCHYの弱みとして私が狙われてしまうから…?
何となく話が見えてきたが、それは確かに心配もされるか。鴻上さんが私に伝えたかったことの真意を漸く理解した。
獅貴の弱みになったつもりは毛頭無かったが、傍から見ればそう思われてしまうのも無理は無い。ていうか、それなら尚更獅貴たちには初めから言って欲しかった。
これじゃもしdeliriumにちょっかい掛けられてたとしても、何が起きているか把握出来なかったじゃないか。
「…ちゃんと、」
「…?」
ボソッと零した言葉だったが、鴻上さんには聞こえたようで、首を傾げて続きを促す。区切った言葉から先が、ため息の後に遠慮がちに呟かれた。
「…ちゃんと、話して欲しかった。
…言ってくれれば、受け入れたのに」
言いながら、落胆したような自分の声に驚いた。落ち込んでいるのだろうか、私は。悲しいような、寂しいような。何にしろ、なんだか悔しいのだ。
信じて貰えなかったのが、悔しい。
「紫苑ちゃん…」
眉を下げて、同情するように目を伏せる鴻上さん。確かに、嫌われたくないからって理由は分かる。身近な人に拒否されるのは、辛いことだろう。
けど、それを知ってしまった側はどうすればいいんだ。このやり場の無い、複雑な気持ちをどうすれば。
俯く私と鴻上さんの間に沈黙が流れる。何となく手に持ったカップ、その中の氷がカランと小さく音を鳴らして、物寂しい空気に支配された。
時が止まったようなその場を動かしたのは、視線の端にあるコーヒーだ。
「……?」
動かしていないはずの、鴻上さんが飲んでいたコーヒー。その水面がユラユラと円を描いて揺れている。
はっとして振り返る前に、BARの扉がバンッ…!と荒々しく開かれた。
「紫苑っ…!!」
「…は…獅貴…?」
夜にも関わらず暑い外。そんな中走ってきたのか、息は切れて額にも汗が滲んでいる。獅貴はバタバタと忙しなく駆け寄って来て、私の肩を両手で強く掴んだ。
「怪我はッ、怪我はないか…!?」
酷く焦ったような表情。いつもの余裕気なクール顔はどこにも無い。そんな獅貴に目をぱちぱちと瞬かせると、獅貴は安心したようにほっと息を吐いた。
「よかった…無事で…」
大きな溜め息と共に、獅貴が体を寄りかからせてくる。抱きつくように倒れ込んだ獅貴を慌てて受け止めた。
背中に腕を回して、背中をぎこちなく撫でる。肩…と言うより首か、顔を埋めた獅貴は、猫のように擦り寄って来た。
「ど、どうしたの急に…何かあった?」
「…あ?」
問い掛ける私に、獅貴はぽかんと首を傾げる。こういう顔も珍しい。数秒固まった獅貴はバッと体を起こして、鴻上さんの方を鋭く睨んだ。
「…おい、どういうことだ」
ふわりと微笑んだ鴻上さんに怯えた様子は無い。普通の人間だったら怖がるはずの殺気。私でも今声が出ないのに、やっぱりこの人本当は凄い人なんじゃないか。
持ちかけていたカップをソーサーに戻して、鴻上さんは口を開いた。
「嘘は言ってませんよ。紫苑ちゃんが男に襲われていたのは事実です」
「なっ…!!」
あっけらかんと言い放った鴻上さん。その言葉に再び私の体を見下ろす獅貴。そっと鴻上さんに視線を移して気が付いた。
話している最中、僅かに視線が動いていたかと思ったら、獅貴にメールでもしていたのか。膝元を見ると、確かに携帯を手に持っている。
けどその言い方は若干誤解を産むんじゃないか。襲われそうになったのは事実だが、一応未遂だし。
「あの、獅貴…?」
「…何処の野郎だ、ぶっ殺す」
とても物騒だ。獅貴の背後に燃える殺気が凄まじい。ドス黒いオーラが此方まで飲み込みそうで、無意識に仰け反ってしまう。
怒り心頭って感じの獅貴に、未だ微笑みを崩さない鴻上さんが、その笑顔をほんの少し黒いものに変える。
「汚物は排除しましたよ。
そんなことより獅貴くん、ANARCHYのこと、紫苑ちゃんに何も話していなかったんですか?」
汚物、という言葉に思わず零れる苦笑。さっきの光景はやはり幻ではなかったのか。彼は本物の天然天使だと思っていたのに、見事に腹黒だ。もう何も信じられない。
鴻上さんの問いにビクッと肩を揺らした獅貴は、余裕の無い目で私を一瞥してから非難がましく鴻上さんを軽く睨む。
「…っ…勝手なこと、するな」
「勝手?元はと言えば、さっさと話さない君の所為でしょ」
珍しく鴻上さんの語彙が荒い。獅貴も負けずと強く睨んでいて、これでは話が進む様子は見られない。
仕方なく溜め息を吐いて獅貴の頭を撫でる。視線をこちらに移した獅貴に笑いかけると、彼は放心したように目を見開いた。
「紫苑…」
やがて苦しそうに目を伏せる獅貴。眉は申し訳なさそうに下がっている。