ーー肩、凝ったな。
軽く首を回しながら、パソコンの時計を見ると、もう19時を過ぎている。
そのまま視線を窓に移すと、薄闇にキラキラ瞬いている、街の灯り。
私は、コーヒーを淹れ直すと、フロアの入り口を見遣りながらカップに口をつけた。
まだ終わらないんだ、会議。
なんだか、『帰りを待っている』みたいだな。
私は、膨らませた妄想を、首を振って消す。
埒もない。
一息ついて、改めてキーボードの上に手を置いた。
さあ、こっちもあともうちょっと。
頑張りますか。
「ーー村井さん、終わった?」
「ひえっ⁈」
私は座ったまま飛び上がった。
あれから、更に一時間。
集中してたのに、いきなり耳元で、声。
20時過ぎ。外は闇が深くなり、夜景が際立つ。
人気の無いフロアには、私のデスク近辺しか灯りがついていない。
自分の席の周りだけボンヤリ明るくて、周りは暗い。
軽く、背中がチリチリするホラーな雰囲気。
何を隠そう、ビビってましたよ⁉︎
更に、キラキラエフェクト付きのイケメンフェイスとヴォイスが、至近距離にある。
飛び上がらない方がおかしい。
大体、何故耳元で声を掛ける⁈
近いわ!
左耳を押さえて、この残業の元凶ーー安田主任を涙目で睨みつける。
「…めっちゃ、怖かったですよ‼︎
何でこんなことするんですか‼︎」
盛大に文句を言うと、主任は吹き出した。
滅多に見られない無防備な笑顔にドキッとするも、恥ずかしいのて顰めっ面をキープだ。
顔が赤くなるのは、勘弁して欲しい。
だってイケメンだよ⁈
普通の男の人にだって、こんなことされたらドキドキするのに、ダメージ5割り増しだ。
主任は、クスクス笑いながら、悪いと一言謝った。
絶対、思ってないでしょ⁈
私は、頬を膨らませつつディスプレイに向かった。
私は、村井 のどかと言う。
31歳、もう10年くらい、彼氏なし。
いわゆる「枯れ女」だ。
とある会社の営業事務をしている。
この『営業事務』という仕事、私の天職のようで、歳と共にどんどん面白くなってしまった。
元々、学生時代は野球部のマネージャーなんかしてたし、人のサポートをするのがとても楽しい。
『ありがとう』とか、『助かった』とか言って貰うと、本当にやり甲斐を感じる。
取引先の人とかも、やり取りをしている間に仲良くなったりして、恋愛なんかしなくても寂しくない。
ーーそう、思ってたんだけど。
安田主任ーー彼に、恋するまでは。
安田主任は、私の4年後輩。27歳。
新人研修の時、事務系を教える担当だった私は、あまりの顔面偏差値の高さに衝撃を受けたものだ。
その辺のアイドルさんや俳優さんよりイケメンだと思う。
営業部に配属されたのも、きっとそういうのも加味されてる。
でも、彼はあまり表情を変えない。
それは、営業職としては不利。
私は事務系を教えながら、何とか笑顔を引き出すよう頑張った。
少しずつ綻ぶようになった表情。
とても、魅力的だ。
「その調子!その笑顔で仕事、いっぱい取っておいで‼︎」
私が満面の笑みでそう言うと、彼は初めて、心から楽しそうに笑った。
ーーーその時から、私の心は、年下の彼に囚われている。
それからすぐ、彼は営業部の男性の下について、私と関わる必要があまり無くなった。
私は、心からホッとした。
ーーこの恋は、誰にも悟られてはいけない。
4つも年上で、顔も体型も、おそらくどんなに頑張っても中の下の私には、彼は振り向いたりしない。
これから、仕事で少し関わる程度。
だから。
私は、彼の、いい教育係でいるの。
ーーーそう、固く決心していたはずなのに。
彼は、何かと私に絡んだ。
色々と相談を持ちかけてくるのだ。
「村井さん、これどうしたらいいんですかね?」
「村井さん、この人知ってます?雑談の話題って何がいいですか?」
「ここに営業かけたいんですけど…」
あまりに頻繁に私の所に来るから、後輩の女の子達の目が厳しいのなんのって。
だからといって、仕事だから適当にあしらう訳にもいかず、他の男性社員に振っても、『村井さんの意見が知りたい』と譲らない。
そうこうしているうちに、彼は営業成績をどんどん上げて主任へと昇進。
昇進と同時に、私を専属の営業事務に指名した。
曰く、他の人に頼むと、かえって邪魔されるとか。
確かに、仕事中でも終わってからも、女の子達に誘われているのを、何度も見た。
私でも、『仕事中なんだから公私混同はダメでしょ』って思うんだから、彼にとってはもっと嫌だったんだろう。
それでも続く、そんな場面を見る度に。
諦めたはずの私の胸が軋む。
ー彼は、高嶺の花。
ーー彼は、私なんて眼中にない。
ーーーいい加減、諦めなさい。
何度も何度も、自分に言い聞かせた。
そして、苦肉の策として、私の上司となった彼に話す時、敬語を使うことにした。
線引きを、周囲と、私自身にはっきりさせるために。
彼に恋してから、約5年。
結局、この想いを手放せないまま、時間だけが過ぎて。
もう、諦めることを諦めた。
彼に、彼女が出来るまでは。
心の中で想っているのくらい、構わないよね。
そう思い切って、報われない片想いを楽しむことにした。
だから、ここ1ヶ月くらい増えている残業は、正直ご褒美だ。
元々、営業成績の良い彼の仕事は多いのだけど、今、必要?と思う資料作成や、急ぎでない提出書類をよく作らされる。
でも、ほんの少しでも、彼と二人で居られるのだ。
こっそり喜ぶくらい、許して欲しい。
その分、仕事は完璧に仕上げますとも‼︎
今日も、そんな感じで残業をしていた。
昔の紙の資料を、パソコンで閲覧できるよう入力を頼まれたのだ。
さっき抗議をしてから、すぐ仕事を再開させたけど、彼も自分のデスクで資料を纏めているようだ。
私が済ませないと、彼も帰れない。急ごう。
スピードを上げて入力して、もうすぐ終了と思った時、背後から彼の素敵ヴォイスがした。
だから、背後はやめてってば。
「村井さん、ちょっと聞いていい?
そのまま仕事しながらでいいから」
珍しく、ちょっと切羽詰まった声。
振り向こうとすると、両肩を押さえられた!
一気に顔が熱くなる。
ボディタッチは、アラサーの枯れ女に刺激が強すぎる‼︎
すぐ離してくれるかと思いきや、そのまま暫く沈黙して。
彼は、囁くように弱い声で、言った。
「1ヶ月くらい前、男と居たでしょ。
ーーーー彼氏?」