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「結局、……何者、なの?」
「は。なんだそれ」
「だって。普段なにしてるのか、まだ教えてもらえてない、から……」
「そんなに俺のこと知りてーの?」
意地の悪い問いかけに、わたしは照れくさい気持ちを飲み込んで頷いた。
……と、同時に、見慣れたクリーム色の建物に到着してしまう。
……うそ。
タイミング、最悪。
ふたりで並んで歩いたせいか、公園から家までの距離が、いつもよりとても短く感じられた。
「残念。ここまで、な」
まるでゲームかなにかのタイムリミットを告げるように、彼が言う。
繋がっていた手が離されてしまう。
昨日と同じように、自然と彼と向き合う形になって……。
「……っ、このままは、やだ……」
昨日は動けなかった分、……わたしは勇気を振り絞り、彼のジャケットの裾を握った。
結局、タイミングを逃してばかりで、聞きたいことは聞けずじまい。
彼のことはなにも知れてない。
もしかしたら、全部はぐらかされていたのかもしれない。
冷静に考えたら、正体不明な人……で。
2週間前にあんなことがあったばかりで、会ってすぐの人に気を許しすぎるのは危険だって思う自分も、どこかにいる。
だけど。
それでも、——これで最後になんて、したくなかった。
「……また、会いたい……から」
このひとの存在を、どうにかしてわたしの中に残しておきたかった。
だからせめて。
――名前だけでもいいから、教えてほしい。
そう言いたくて、わたしは顔を上げる。
……瞬間、目の前が陰った。
思っていたよりも彼との距離が近くて。
咄嗟に息を呑んだ、その隙に。
「っ」
言葉の出口を塞がれるように、——そっと唇が重なった。
っ、え……?
固まるわたしに、彼は柔らかな感触を与えて、……名残惜しそうに離れていく。
触れ合った時間は短かったのか、長かったのか。
実際にどれくらいだったのかなんてわからないけれど。
いったいなにが起きたのか理解が追いつかないくらいに、一瞬に感じられた。
「……今のは流石に、我慢きかねーわ」
ぽつりと聞こえた彼の声に、遅れて、唇が熱を持ちはじめる。
わたしは瞬きすることも忘れて、彼を見上げていた。
……い、ま……。
キス、された……?
そう認識した途端、はじめての感覚に戸惑いやら、恥ずかしさやらが一気に溢れて。
わけもわからず涙が滲んでくる。
呆然としていると、彼が気遣うようにわたしの前髪を撫でた。
「……んだよ、その反応」
「……だ、って。わたし、はじめて、で……」
「嘘つけよ」
「っ、嘘じゃない……」
「じゃーほら」
——もっかい。
囁くように言うなり、彼は再び唇を寄せてくる。
あっという間に距離を埋められて、わたしは慌てて目をつぶった。
強張りながらも受け入れると、今度は食むように触れられる。
「……ん、ぅ……」
次は、甘噛みされたり。
そのまた次は、啄むように触れられたり。
たっぷりと押しつけるようにされたり……。
まるでこちらを弄ぶようなキスが繰り返された。
最後は音を立てて焦れったく吸われ、……身体の力まで奪われてしまいそうになってしまった。
よろけたわたしを支えながら、こちらを見下ろす彼が不敵に笑う。
「こんだけすれば、初めてとかどーでもよくなっただろ?」
なだめるように言われて、わたしはくらくらしてなにも言い返せなかった。
自分が、彼の名前を教えてもらおうとしていたことさえも忘れて。
その場で膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、立っているのがやっとなくらい。
……ファーストキス、だったのに。
心の内で、漠然とそう思う。
けれど傷ついるかと言われると、少し違うような気がした。
はっきりしていることはひとつだけ。
はじめての相手が彼なんだっていうことに、ただひたすらに、ドキドキしてるってこと。
「みお」
目を合わせるのも恥ずかしかったものの。
熱っぽく名前を呼ばれれば、つられて、おずおずと見上げるしかなかった。
「……明日。このくらいの時間になったら、下に降りてこいよ」
返事を求めるようなことはせず、彼はそれだけ言うとゆっくりとわたしから離れた。
腰に回っていた手がするりといなくなる。
「待ってる」
月明かりの下。
わたしに与えられたのは、とびきり甘い痺れと、頼りないただの口約束。
名前も、年齢も、所在も……わからないことだらけでも。
彼という存在がわたしの心を支配してしまうのには、じゅうぶんすぎるほどだった。
翌朝、目覚ましが聞こえてくる前に自然と目が覚めた。
起き上がる気力もないまま、放心したように天井を見つめる。
……ちっとも、眠れた気がしないや。
目を閉じれば、触れ合った唇の感触が蘇ってきてしまって。
その度に胸がどきついて、ソワソワ落ち着かなくなる。
あれは現実だったのかな……なんて疑っては、確かめるためにもはやく約束の時間になってほしいと思う。
もし本当に彼が待っていてくれたとしたら、次はどんな風にふたりの時間を過ごせるんだろうって考えちゃう。
そんなこんなで、だいぶ遅い時間まで意識がはっきりしていた気がする。
この調子じゃ、今日の授業中しんどくなっちゃいそうだ。
ううーん、と寝返りをうてば、枕元に置いてあったスマホが目に入った。
手にとって、ロックを解除する前に、寝ぼけ眼で画面に並ぶ通知をチェックする。
その中のひとつ、本条くんからのメッセージを知らせる表示を見て、——わたしの頭は一気に覚醒した。
待って?
今——何時?
飛び跳ねるように身を起こし、メッセージを確認する。
〈8時ごろに着く予定〉
と、本条くんから。
現在時刻は、――6時23分。
よ、かった……っ。
目覚まし聞き逃して、寝過ごしちゃったのかと思った。
焦ったあ……。
わたしは脱力した。
それにしても本条くん、早起きなんだな。
6時15分という送信時間の表示を見て思う。
なんだか解釈一致って感じだ。
ゆったり優雅な朝食をとっている本条くんの姿がありありと頭に浮かんで、それが妙にしっくりくる。
時間もないし、作るのが面倒だからとカフェオレだけで朝ごはんを済ませちゃうわたしとは大違い。
……お母さんがいたら、ちゃんと食べなさいって注意されそうだけれど。
そんなところも自由なのがひとり暮らしの特権だもんね。
本条くんに了解の旨のメッセージを返し、目覚ましをオフにして、わたしはやっとベッドから降りる。
まだ少しだけ重たい身体をぐっ、と伸ばし、のそのそ洗面所へと向かった。
〈着くころにまた連絡する、そしたら降りてきて〉
——追加でそんなメッセージが届いていたのに気づいたのは、わたしが支度を終えて、カフェオレを飲み終えたのとほぼ同時。
本条くんからもう着くよ、と連絡がきたときだった。
急いでマンションの下に出ると、すでに昨日と同じ車が、同じ場所に停まっているのが目に入って。
わたしが近づくと運転手さんが出てきてドアを開けてくれる。
恐縮しながら乗り込み、本条くんにおはようとお迎えのお礼を済ませている内に、車が発車した。
……朝の登校時間に歩かなくて済むなんて、なんて贅沢なんだろう。
遠ざかっていくマンションを眺めながら密かに感動していると、
「平石さんは、甲斐田真尋ってわかる?」
本条くんが前触れもなく尋ねてきた。
「甲斐田くん? わかる、けど」
聡学に通う、わたしたちと同学年の男の子。
確か、今は隣のクラスだったような。
「話したことはない……」
「だろうね」
「えと。……どして?」
「一緒にいる感じ、あんま男に免疫なさそうだなと思って」
飛んできた思わぬ鋭い言葉に、わたしはグサリとダメージを受けた。
……そういうのは、思っても言わないでいてくれると嬉しいのに。
不満を訴えるように本条くんを見ても、ん? だなんてすました笑顔が返されるだけ。
あう。悔しいのに言い返せない。
だって、図星だから。
こうして本条くんと話すのだって、まだ少し緊張するくらいなんだ。
「……違くて、どうしていきなり甲斐田くんがでてきたのかなって、意味だったんだけど……」
「ああ、そっちね」
本条くんは白々しく声を上げると、ブレザーの内ポケットからスマホを取り出した。
「今後のことだけど、帰りは甲斐田に平石さんのことを任せようかなと思って」
「えっ?」
「朝は時間を早めれば人目を避けられるから、俺が送ればいいけど。帰りも誰にも見つからずにっていうのは、そのうち限界がくるだろうし。役割分担、ってことで」
それは提案というよりも、決定事項だというような口ぶりだった。
「それに、甲斐田が相手なら、周りの目を気にする必要もないよ。あいつ、女好きだから。甲斐田がどんな女子といようが、今さらいちいち気にするやつなんていないでしょ」
「……」
す、すごい言われようだ――。
思わず甲斐田くんのことを、気の毒に思ったけれど。
……確かに、甲斐田くんは女遊びが激しいほうだという話は、わたしも聞いたことがある。
実際に校内で女の子と一緒にいるところを見かけることも多い。
つまりはわたしも、そのうちのひとりに紛れ込めるってことなのかな。
本条くんの言う通り、本条くん自身のそばにいるよりは、周りへの影響も少ないかも……。
「……甲斐田くんに迷惑じゃないかな?」
「そこは気にしなくていい。頼んだのは俺だし」
きっぱりと言われてしまえば、遠慮するほうが失礼なんじゃいかという気になってくる。
「とりあえず、もう事情は伝えてあるから。俺の都合で勝手にごめん。話したこともないやつに、いきなり」
本条くんの言う事情、というのはきっと、わたしとなぎ高の人たちの間にどんなことがあったかってこと。
それを、甲斐田くんが知ったんだ。
本条くんがそうした理由を頭では理解できたし、ひとりにならないに越したことはないし。
ものすごくありがたいのだけど……。
少しだけ複雑かもしれない。
どう思われたんだろう、なんて考えちゃって、気まずい。
「まあ安心してよ。ああ見えて口は堅いし、面倒見もいいやつだから」
「……そうなの?」
「意外でしょ」
そう言って甲斐田くんのことを話しながら笑う本条くん。
わたしはそのこと自体に意外だ、と思った。
もともと、本条くんと甲斐田くんが友達だなんて、全然イメージになかったから。
学校で話してるところとか、見たことないし……。
見た目から受ける印象だって真逆のタイプ。
ノーセットのサラサラな黒髪に、常にカチリと制服を着こなしている本条くん。
アクセサリーひとつ、身につけていない。
比べて甲斐田くんは、どちらかというと校則なんて知りません、という感じ。
明るいピンクベージュの髪とか、ゆるっと気崩された制服とか、耳元で目立っている複数のピアスとか。
いくらうちの校則が緩いほうだといっても、はじめのほうはやんわり注意している先生もいたくらい。
今はもう諦めちゃっているみたいだけど……。
そんな、まさしく不良だなんて言葉が似合う甲斐田くんと仲がいいだなんて。
……やっぱり、本条くんも……。
わたしの中で再び、本条くんに関する噂の信憑性が高まってしまったとき。
――ポケットがヴヴ、と震えた。
「それ、甲斐田の連絡先。登録しておいて」
わたしはハッとして、スマホを取り出す。
画面を確認すると、本条くんからのメッセージ欄に、可愛いマルチーズが舌を出しているアイコンが、映し出されていた。
***
初対面である甲斐田くんと一緒に帰ることだとか、夜の……約束のことだとか。
ぐるぐると考えちゃって、寝不足だというのに、頭がちっとも休まらない。
ほとんどうわの空で授業を乗り越えて、やっと迎えた、放課後。
〈んじゃ〉
〈HR終わったらそっちの教室行くね〉
帰りの支度を終えたわたしは、荷物の詰まった鞄を枕にして、お昼休みの内に届いたメッセージを見つめていた。
マルチーズのアイコンの人――もとい甲斐田くんとは、はじめましての挨拶を文字で済ませたのだけれど。
……この人、本当に甲斐田くんなのかな……?
本条くんから教えてもらったアカウントなのだから、絶対に間違いないのはわかってる。
それでも、いまいち実感がわかなかった。
メッセージ上での約束通りに、本人が現れるまではいささか信じきれない。
「澪奈、帰らないの?」
ぼんやり思考を巡らせていると、鞄を背負って廊下へと向かう有沙が不思議そうに見つめてきた。
わしは身を起こして、
「あ……うん。今日もちょっと約束があって」
「そーなんだ。じゃあわたし、帰るね」
「ばいばい」
「ばいばーい」
自席で有沙を見送りながら、廊下へと目を向ける。
すると入れ違いに、ひょこりと教室に顔を見せた人物がいた。
――目を引くピンクベージュの、マッシュウルフ。
その綺麗な髪色に、わたしの心臓がドクリとする。
「あ〜いた、平石さん」
にこやかに、親しげに――こちらへ呼びかけてきたのは、どこからどう見ても、本物の甲斐田真尋くんだった。