Ephemeral Trap -冷徹総長と秘めやかな夜-




「また、遠慮してそうな顔してる」

「……うん……」

「いいんだよ。今の平石さんは、これくらい丁寧に扱われるべきなんだって。自分のこと、ちゃんと労わってやって」

「……」

「……泣くなよ」

「……ご、ごめん……」

「泣かれると、……俺も困る、っていうか」



……そうだよね。

わかってる。

泣いたって、過ぎたことがどうにかなるわけじゃない。


……ただ、……。

本条くんの優しさが、わたしの弱いところに沁みて――、



「泣き顔見ると、――もっと、いじめたくなるからさ」

「……」



聞こえたとんでもないセリフに、わたしは非難の眼差しを向ける。

その先には、……憎たらしいほどに美しい、得意げな笑みが待ち構えていて。

おでこに、いつだったかクラスの男の子が口にしていた“帝王”の二文字が、見えた気がした。




***


悔しいけれど、このときのわたしにとって、本条くんの存在はものすごく助けになってくれた。


目を覚ましたときにひとりきりだったら、また違ったかもしれない。

立ち直れずに、トラウマになっていたかもしれない。


だけど、きっと同級生として身近な存在である本条くんと話している内に、安心して、へっちゃらだと思えるようになったんだ。

ちょっとしたトラブルに巻き込まれた、という程度に思えるようになったんだ。


だからわたしは、本当のことを人に知られるのが嫌で、学校に対して、詳しい事情を伏せてもらうことを選んだ。

腫れ物扱いなんて、されたくなったから。

自転車で下校中、後ろから不審者の自転車にぶつかられ、衝撃に耐えきれず転げ落ちて怪我をした——そんな事故にあった、ということにしてもらったんだ。


3日だけ学校を休んで、肩の痛みがマシになったから、なんでもないことのように学校に復帰した。

1週間も経てば、本条家のご厚意を断って、ひとりで登下校するようになった。


ただ、あれ以来自転車の行方がわからなくなって、電車通学になっちゃったけれど。

同時にあの裏路地近くを通らなくて済むようにもなったから、結果オーライだ。



……本条くんの言ったように、なんの心配も要らなかった。

驚くほどいつも通りに、なにごともなく時間がすぎていって。

このままいけば、まるでなかったことのように忘れられる気さえした。



結局、なぎ高の人たちの言っていた『頼みたいこと』とはなんだったのか。

どうして本条くんは、わたしのことを助けることができたのか。

どうやってなぎ高の人たちと『話』をつけたのか。

……そもそも、聡学となぎ高の普通じゃなさそうな関係は、いったいどういうものなのか。


考えたら次々と浮かんでくる不明点はそのままに、触れずに閉まっておくことにした。


そうして目を背けていれば、平穏はわたしから逃げないでいてくれたから。

本条くんがわたしとの間に引いてくれた、一線を。



越えようなんて、わたしが、思わないかぎり、――。







「後をつけられてた、……ね」



放課後になると、わたしは人目をかいくぐり、職員用玄関へと急いで。

本条くんと合流したあとも、周りの警戒を怠らず念入りに距離をとりながら、無事に……たぶん、誰にも目撃されることなく、本条家の車へと乗り込むことに成功した。


運転手さんは、1週間前までわたしの送迎を担当してくれていた人。

事情を色々と知ってくれているから、3人きりの車内では、気兼ねなく相談ごとを打ち明けることができた。



「単に制服じゃなけりゃバレないと思って、軽率な行動を起こしたなぎ高のやつだって可能性もあるけど、……どうかな」



本条くんは思考する素振りを見せながら、シートに体重を預ける。



「あいつらも、そこまではバカじゃないと思いたいけどね」



小さな笑いを含んだそのセリフに、わたしはゴクリと息を呑んだ。


そんなことをしたら、どんな目にあうかわかってるはず――。

外へと向けられた本条くんの視線が、そう言いたげに冷たい色を浮かべたのが、窓の反射で見えてしまったから。


わたしは気づかなかったことにして顔を伏せた。

膝の上で絡ませあう自分の指を眺めながら、続ける。



「でもね、わたしと目が合ったら、その人、すぐにいなくなっちゃったから。なにもされなかったし、なぎ高の人とは違うように思えたっていうか……。ただの、勘、なんだけど」

「なるほどね」



言いながら、わたしは密かにヒヤヒヤしていた。

起きたことをそのままそっくり伝えなかったことが、本条くんにバレるかもしれないと思ったから。



……助けてくれたあの人のことは、なぜだか言えなかった。


自分の心に閉まっておかないと、もったいないんじゃないかって。

話してしまったら、あの人にまた会えるかもしれない機会を、神様に奪われちゃうんじゃないかって。

そんな不思議な心地になったんだ。


夢と現実の境での、できごとのような……。

どこか儚いもののように感じられた。



「ほら……普通の、変な人だったかもしれないし」

「なにそれ。普通なのか変なのか、どっちだよ」

「あれ、そっか。……そうじゃなくて、普通の不審者って言いたくて……」

「不審者に普通も異端もないと思うけど」



ばっさりときられてしまい、うう、と口ごもる。

ガラス越しに流れる景色を見ていた本条くんの瞳が、わたしへと移された。



「相変わらずだね。平石さんは」

「どういう、意味……」

「クセになる、ってこと」



本条くんは肘掛けに頬杖をついて、わたしに少しだけ顔を近づけた。

まぶしさを感じるほどの端麗な顔に、意地の悪い微笑みが浮かんでいる。




「んと。……それって、褒めてるの?」

「もちろん」

「本条くんの感性って、なんだか変わってる、よね……」

「そりゃどーも」



……わたしのほうは、褒めたわけじゃないんだけど……。


なんて口に出したら、倍にして返されるのが目に見えているので、言わないでおく。

穏便に済ませておいたほうが身のためだ。


さっさとイジワルモードから切り替わった様子の本条くんは、



「本当にただの不審者だったらいいんだけどね。確証はないから」



体勢を戻して、神妙な顔つきに変わる。



「やっぱり、なぎ高の人かもしれないって、こと?」

「さっきも言ったけど、その可能性は低いかな」

「……? それじゃあ……」

「その他の誰か、っていう可能性もある」



——え?


なぎ高の人でもない……不審者でもない……“誰か”?

その響きは、得体の知れない不気味さを纏い、わたしの背中をゾワリと撫でる。



「ど、ういうこと……?」



なぎ高の人たちがわたしに接触したのは、イブキくんと関わりがあったから、という理由があったはずで。

その他の人までわたしに目をつけるかもしれない、なんて……。

そんなの、いったいどうして?

その他の誰か、だなんて、枠組みが広すぎるよ。

全然、わかんないよ。

わたしがなにをしたっていうの。



「ね、本条くん……なにが起きてるの? わたし、ほんとになにもわからなくて……どう、したら……」



見えないものに追いかけられているような圧迫感。

その重圧にじわりじわりと押し付けられるように、息苦しくなってくる。




「平石さんは、——タタラ、って名前に心当たりある?」



静かに前を見据えたまま、本条くんが尋ねてきた。



「聞いたことない。誰なの、その人……」

「いや、いい。知らないなら忘れて」

「っなに、どういうこと?」

「大丈夫。いったん、深呼吸して」



言われて、自分がかなりパニックに近い状態になっていたことに気がついた。


はっとして、ゆっくりと呼吸することに集中する。

遅れてじわりと涙が浮かんだ。



「前に、心配いらないって言ったでしょ。その言葉に嘘はないよ」

「でも」

「——絶対に守ってやる、つってんだよ」



車内の空気を震わせた、その強い響きに。

胸を突かれて、わたしは言葉を飲み込んだ。



「平石さんが俺の気持ちを汲み取ろうとしてくれてるのは、わかってるから。……今後は、一切、傷つけさせたりしない」

「——」

「だから、そのままでいて」




震える息をそっと吐き出して、本条くんの言葉を受け止める。


目を逸らして、耳を塞いで、大人しくしていれば大丈夫だって……。

変わらない日常を過ごせるって。

そういうこと、だよね?


本条くんが隠してくれようとしているなにかから、距離をとろうとしているわたしの判断は間違ってないのだ、と。

そう言ってもらえたみたいで、だんだんと気持ちが落ち着いていく。



「俺がずっとついてられたら楽なんだけど。……そうもいかないから、なにか考えるよ。また連絡する」

「……うん。ありがとう……」



わたしが素直にお礼を言ったのが、意外だったのか。

本条くんは眉を持ち上げてこちらを見た。


思わず追いすがるような目を向けると、満足げな軽い微笑が、その左頬に浮かんで。



「それ、鼻水?」

「……えっ、うそっ」

「あ。違った。涙か」



いつの間にか濡れていたわたしの頬を、ぐし、と制服の裾で拭ってくれた。







***


10分ほど経てば、窓の外の景色が見慣れたものになってくる。

昨日も徒歩で通った、駅から家までの道のりとほぼ同じ。

住宅街を通り抜け、大通りに出て、郵便局を目印に角を曲がる。

しばらく真っ直ぐ走り続けると、昨日立ち寄ったコンビニが見えてきて。

その脇道へと入れば、すぐ、小さな公園がある——。

前を通り過ぎるとき、無意識で、近くに“あの人”の姿がないか確認してしまった。


……いない……。

そりゃあ、当たり前、だよね。


もともと昨日だって、公園に用があったわけじゃなくて、わたしのことを待っていてくれただけ、みたいだし。

はじめて見る人だったから、ご近所さん、というわけでもなさそうだし。

もうきっと、……会うこともない、し。



「どうした?」

「……っ、なんでもない」



本条くんが不思議そうに覗いてくるから、わたしは慌てて首を振る。



「ちょっと、ぼーっとしてただけ」

「あそ。……明日の朝、勝手に家出るなよ」

「えっ?」

「迎えにくる。朝なら裏門から入れば人目につかないし、文句ないよね」

「わか、った」

「ん。いい子」



まるでペットを相手にするみたいに言われて、なんとなくこそばゆくなる。