なんとかしてこの場から逃げ出したいのに、頭がぼんやりしてきて、思うように体を動かせない。
もっと、全力で暴れなきゃいけないのに……。
スカートの内側にも手のひらが侵入してきて、指先が太腿を撫で上げる。
ぞわっ……という感覚が頭の後ろに向かって駆け巡って——わたしは、咄嗟にぎゅっと目をつむった。
「……んぅ……っ」
抵抗する意志を見せていた腕や足から力が抜けて、弱々しい声がもれる。
わたしは動揺して、縋るように近くの男を見上げた。
「お……効いてきた?」
わたしに跨ってしゃがみこんでいた男が、不気味に口角をあげた。
乱雑にわたしの頭を撫でてから、立ち上がる。
同時に、わたしの両手も開放された。
……それなのに。
わたしは起き上がることができなかった。
きっと、男もわたしが動けないとわかっているから離れたんだ。
路地を塞ぐような位置に移動して、ようやく電話が繋がったのか、見えない相手となにかを話している。
……そんな場所に立たれたら、助けを望むなんて絶望的だ。
外からはきっと、わたしの姿なんて見えない。
ぶわり、と諦めの涙がさらにわたしのこめかみを濡らしていく。
けれどすぐに、体をまさぐっている手に意識が引き戻されて。
小さな波のように身体に広がり続ける感覚に、我慢できずに吐息がもれた。
「頭、ぽわぽわしてきたっしょ。余計なこと考えないで、俺たちとも仲良くしよ」
「澪奈ちゃんすげー可愛いしさ、イブキが独占するにはもったいないって」
降ってくる言葉が、ただの音となって聞こえる。
なにこれ。
からだ、熱い……。
動悸もする。
熱でもあるみたい。
気だるくて、……もうこのまま、動きたくないよ。
でも、そんなの……だめ……。
「気持ちよさそーな顔になってきたね」
こちらを見守るように覗き込まれて。
濡れた目で訴えるように、見つめ返すことしかできない。
やだ。
こわいよ。
ぐわんぐわんと頭を襲う、締めつけるような鈍い痛み。
わたしを追い詰めるそれに、なんだか心細いような気分になってきて。
「……ん、……」
たすけて、と言いたくて言葉にならない声を絞り出した。
なにかを求めるように、胸の近くで手を開く。
「……どーした?」
空をさ迷っていたわたしの手を、誰かが受け止めてくれた。
わたしは安心して、その手をぎゅっと握り返した。
「は、なに……これ。さっきまで嫌がってたくせに」
与えられる刺激が、徐々にわたしの意識を蝕んでいく。
それが、心地いいと感じる。
このまま、続けてもらえれば……。
背中からズブズブと水の中に沈んでいくように。
真っ暗な闇の中に落ちていける。
恐怖から、逃げられる……。
だから。
やめないで、……。
言葉にできない代わりに、懇願するように繋がる手を頬に引き寄せた。
外側から、内側から。
わたしを侵食する全ての感覚を受け入れるように、目を閉じる。
「……甘えてんの? やっべ……まじで、可愛ーね……」
どこか切なげな響きが、聞こえた瞬間。
なにかが衝突し合うような――大くて重たい音が、あたりの空気を裂いた。
「……わりぃ、遅くなったわ」
この場にいる3人とはまた別の、誰かの声がした。
遅くなったってことは……男の電話の相手なのかもしれない。
続けて、カシャ、というシャッター音。
「っおい!」
「なにしてんだテメェ!」
……そういえば……。
写真を撮るとかなんとか、言ってた……。
薄まった意識の中、それだけがよぎって。
わたしの頭は停電したように、プッツリと光を失った。
闇の底へと沈んでいくさ中で。
労わるように、慰めるように、……誰かがわたしの身体を、優しく包み込んでくれた気がした。
それまで、わたしにとって本条くんは、耳に入ってくる噂にその場限りの関心を寄せ、遠くから眺めるだけの存在だった。
住む世界が違うひと。
当たり前のように、言葉なんて一度も交わしたことがない。
だから、
「……起きた?」
瞼を持ち上げてすぐに聞こえたその問いかけが、本条くんのものだと、わたしにはわからなかったんだ。
最初にぼやけた視界に映ったのは、天井からぶら下がる不思議な照明。
芸術品のようにふにゃふにゃとした形をしていて、天井や壁に不規則な光の模様を描いている。
なにこの、電気……。
へんなの。
はじめて見た。
ぼんやりとそう思って、先ほど聞こえた声に返事ができないまま、何度か瞬く。
だんだんとはっきりしていく視界に合わせて、……ようやく、自分が見知らぬ場所で目を覚ましたのだということに気がついた。
身体が鉛のように重たい。
首を動かせず、視線だけをあたりに巡らせた。
広い部屋をくるりと一周しかかったとき、誰かの腕が、視界の端に映って。
衣擦れの音とともに、わたしの顔の横で僅かにベッドが沈んだ。
「平石さん。俺のこと、わかる?」
「——」
こく、と渇き切った喉が動く。
「ほん……じょう、くん……?」
窺うようこちらを見下ろした見知った顔に混乱して、わたしはわけもわからぬまま、彼の名前を口にした。
「な、なんで? ……あれ? ここ、どこだっけ……わたし、なにして……」
どっと押し寄せる疑問に、軽くパニックになりながら言葉を並べる。
耳に入る自分の声はひどく掠れていたし、寝起きのせいか呂律も上手く回っていない。
「——大丈夫だから、落ち着いて」
冷静になだめられて、彷徨わせていた目が自然と本条くんへと吸い寄せられる。
近くで見る彼は遠くで見るよりもさらに端正で、圧倒されたわたしは、小刻みに頷いた。
「ここは、俺の家」
「……へ?」
「でも安心して。ゲストルームだから」
……げすとるーむ……。
わたしの日常では、あまり聞くことのない単語。
お家にそんなものがあるんだ。
すごい。
そして当然のように、わたしの部屋の何倍も広い……。
本条くんの家ってことは、……理事長のご自宅ってことだもんね……。
ついつい感心してしまって、——そうじゃない、と慌てて思考を軌道修正した。
ひやりと首元に低めの体温を感じて、思わず体を震わせる。
本条くんの手だ。
「熱はもう引いたかな。よかった」
「……」
「水、ここにあるから飲んで。体起こせる?」
言われた通りに、身を起こそうと力を入れる。
手をベッドについたところで、本条くんがわたしの身体に手を回して支えてくれた。
男の子にこんな風に触れられることなんて滅多にないので、途端に心臓が暴れ出だす。
「……ありがとう……」
こんなことでドキドキしているのがバレないよう平然を装って、サイドテーブルのグラスに手を伸ばした。
そっと口に含んだ水が、体内に冷たさを与えて落ちていく。
息をついて、わたしは遠慮がちにもう一度、本条くんを見た。
「……あの。いったいわたし、どうしちゃったの……?」
どうして、本条くんの家にいるんだろう。
わたしたち、話したこともないはずだ。
それなのに本条くんは、わたしのことを平石さん、だなんて呼んでいた。
まるで、わたしのことを知っているかのように。
「なにか、思い出せることはある?」
「……思い出す……?」
——なにを?
突然の質問に、わたしは眉をきゅっと寄せた。
なんとか記憶を辿ろうと、頭の中にかかった白い靄を払おうとしてみる。
少しの沈黙が降りて、
「——ごめん。やっぱいい。俺が説明する」
思い直したように、本条くんは言った。
「連絡があったんだ。聡学の生徒が、なぎ高のやつらに絡まれてるって」
なぎ高……。
それは、この中央区にある、聡学とはまた別の意味で有名な、那桐高校のこと。
“なぎ高”だなんて可愛らしい略称にはそぐわないような、生徒のほとんどが不良の男子校。
もともと西区一帯で顔を利かせていたようで、東区と合併された今でも、彼らの横暴な態度は続いている。
このあたりで学校間の揉め事が多いのも、なぎ高の人たちが喧嘩っ早いことが原因のほとんどだ。
「あいつらがうちの生徒に手を出すなんて、滅多にないんだけど。今回はちょっとした事情があったみたいで」
本条くんが語る内容を、わたしは黙って聞こうとしたのだけれど。
「……平石さん、なぎ高に通ってる知り合いがいるよね」
「えっ」
問いかけというよりも、どちらかというと断定に近いような。
そんな本条くんの言葉に、わたしは短く声をこぼした。
「それってもしかして……イブキくんの、こと?」
「そう。合ってる」
「あの、でも……。最近はもう全然……」
わたしは、中学に上がると同時に疎遠になってしまった幼なじみのことを思い浮かべた。
幼なじみといっても、小さい頃からずっと一緒、というような関係じゃなく。
わたしが幼稚園生や小学生のころに、よく遊んでくれていた近所の男の子、というだけ。
学校も違ったし、イブキくんという名前と、同い年だということくらいしか知らない。
実は苗字だって教えてもらってないくらいだ。
だから、わたしが聡学に通うことになって、ひとり暮らしを始めてからしばらくのころ。
隣町の繁華街で偶然イブキくんを見かけたときに、身につけている制服を見て、彼がなぎ高に通っていることを知ったんだ。
正直、……なぎ高の生徒なんだって思ったら、怖くて話しかけることもできなかったし、前みたいに接することもできないと思った。
面影は残ってるな、なんてひとりでこっそりと懐かしんで、見て見ぬふり。
それくらい、わたしにとってなぎ高の印象はあまりいいものじゃない。
「うん。イブキから聞いてる。最近はもう関わりないみたいだね」
「聞いてる、って……知り合いなの?」
「まあそんなとこ」
うそ……。
心底驚きだった。
本条くんとイブキくんが知り合いなのに対してというよりも、本条くんがなぎ高の人と関わりがあるということに対して。
それに……。
——イブキくんも、わたしのこと覚えてるんだ。
関わりはなくなっても、同じようにわたしの存在を思い出として残していてくれたのだとわかったのは、なんだか嬉しかった。
「今からする話は、平石さんには少し難しい話かもしれないけど」
本条くんが再び、説明口調になる。
少しだけ声のトーンが下がったように思えた。
「ここ数年、なぎ高のやつらは俺たち聡学の生徒には干渉できない状態にあったんだ。それは、暗黙のルールみたいなものでさ」
……暗黙のルール?
そんなものが、学校間には存在するの……?
いったいどんな流れでそんなことになるんだろう。
……そもそも、暗黙のルールなんて曖昧なものに頼らないで、はじめからどの学校でも揉めごとはいけないっていう決まりをつくれば済む話なんじゃ……。
なんて意見は、見当違いなのかな。
言っていた通りに、本条くんの話は疑問点が多くて、難しい。
「だけど今回、平石さんに近づいたやつらは、イブキと平石さんの関係を嗅ぎつけたみたいなんだ。そのせいでルールが破られた。なぎ高と関わりのある聡学の生徒ってことで、例外に当てはまると主張する気だったらしい」
「……」
本条くんの言葉をひとつひとつ、わたしは必死で噛み砕いた。
わたしに近づいた……ルールが破られた、って……。
その言い方じゃ、まるで……。
「……えと。もしかして、……」
ひとつの結論に辿り着いて、わたしは自分の指先をぎゅっと握った。
「……絡まれた生徒って、わたしのこと、なの……?」
恐る恐る尋ねると、本条くんはコクリと頷いた。
その表情に、少しだけ躊躇うような色が浮かぶ。
「記憶が曖昧なのは、薬の影響かな」
本条くんがひとりごとみたく、低く呟いた。
その内容に、ズクン、と心臓が嫌な音を立てる。
『平石澪奈ちゃん?』
耳の奥で蘇る声。
急激に、体温が奪われていく。
『ちょっと話があんだけど、ついてきてくれる?』
頭の中の靄が、ゆっくりと晴れていって。
『手荒な真似したくないからさ。大人しくしろよ』
――そうだ。
「……思い、出した……」
わたし……帰り道になぎ高の生徒に呼び止められて。
逃げられなくて……。