「お世話になりました。この子に手術を決断させて下さってありがとうございます。私もほっとしています」

舞の母親は、娘とは似ても似つかず礼儀正しく頭を垂れた。

(ていうか、お母さんご健在だったんだ……まぁ良かった、うん……)

考えてみればカルテの家族欄を見れば家族構成は分かることではあったのだが、海で『母親の形見』などと言われたインパクトによりすっかり彼女の母親は亡くなっていると思い込んでいた雛子。

今回は手術のためにわざわざ地方から母親が付き添いに来ており、無事誤解を解くに至った。

「ちょっとお母さん、やめてよ!」

深々とお辞儀する母親に対し、舞は少しだけ恥ずかしそうにそれを制す。

この母にして何故この娘? と思いつつ、プロとしてきっちりその感情は隠して笑顔を作る。

「篠原さん、退院おめでとうございます。しばらくは辛いものとか硬い食べ物は控えて下さいね!」

「分かってるわよ、このまな板女!」

エレベーターに乗り込む直前まで手厳しい。

「もう! 篠原さんってば!」

しかしもう、こんな病棟でのやり取りもこれが最後だと思うと何だか寂しく感じるから不思議だ。

エレベーターのドアが閉まる直前、仏頂面ながら胸の前で小さく手を振った舞に思わず手を振り返してから、雛子もステーションに戻る。


「雨宮ー」

ベテランの大沢に声を掛けられる。彼女は綺麗な顔に片手を当て、少しだけ声を潜める。

「ほら、例のお偉い外科医がもう来てるわよ。あんた早く行かないとまた有難いお小言かセクハラ受けることになるかもよ」

「し、しまった……すぐ行ってきます!」

本院から来ている火野崎誠(ひのさき まこと)医師は、この火野崎大学グループの御曹司であり、本院院長でもある外科部長の息子だ。

本人も外科に籍を置いており、その傍若無人ぶりと来たらここ、東京病院にやってくる前から噂になるほどだった。

雛子もファーストコンタクトからセクハラの洗礼を受け、それはもう印象最悪な相手なのである。


「すみません先生、お待たせしました!」

患者の車椅子を押しながら、雛子は火野崎の待つ処置室へと入室する。

「あ、雛子ちゃんだ。僕待ちくたびれたよ〜」

彼は以前と同様、処置の物品を用意するでもなく、やはりくるくると椅子で回転しているのだった。

(デジャブだ……)

車椅子に乗った村田の陰に隠れながら、思わず顔を顰める。

「ほら、早く用意お願いね」

「うっ……」

挨拶代わりに臀部を撫でられる。思わず声を上げそうになるが、悲鳴など上げては向こうの思う壷だと考え何とか堪える。

それでも全身鳥肌が立つのはどうしようもない。

「あ、ねぇ〜この傷やっぱり感染してるわ。デブリ(デブリードマン:感染創などを削り取る処置)するからそれも準備して」

「はい……」

ガーゼを外すと傷口からは腐臭が漂ってくる。もう数ヶ月処置をしており、治りの悪い傷について看護師からも報告していたはずだったのにこの有り様だ。

(まったく……本当にこの人T大出身の天才?)

雛子からすれば、この男と同期らしい鷹峯の方が余程優秀な医者に思える。火野崎は指示も適当で分かりにくいし、処方切れは日常茶飯事。看護師からの報告など聞く耳を持たないため、結果としてこういうことが起こる。

「ねぇ、もう始めてもいい?」

「あ、はい、お待たせしました〜……」



結局処置の間ずっと腰回りや太腿を撫で回され、それをさり気なく交わしながらワゴンから物品を取り出す。

それを火野崎に渡すたび、眼鏡の奥の瞳はニヤニヤと下品な笑みを浮かべていた。

「いや〜やっぱり良いねぇ若い子は。あ、特に雛子ちゃんみたいな華奢な子は僕のタイプだよ?」

「あ〜そうですか……」

別にこの男のタイプであったところで嬉しくもなんともないのだが。

使用した器具を片付けながら内心辟易していると、すぐ背後に気配を感じる。

「……君もこういうの嫌いじゃないでしょ? 良かったら僕の使ってる部屋においでよ」

「っ……!?」

何を勘違いしているんだ、こいつは。

雛子の心情など気付くはずもなく、それだけ言って火野崎は機嫌良く処置室を後にして別の患者の病室へと向かった。

「……村田さん、帰りましょうかっ!」

イラつきが声音にも出てしまっていたが、幸い村田の耳が遠く気付かれることはなかった。

そのまま病室まで送り届けると、雛子は鼻息荒くステーションに戻った。